after story
俺は今まさに人生で最大の悩みに苛まれていた。
その悩みは現在進行中であり、一向に解決する兆しを見せない。
それどころか日を追うごとにその悩みは深くなっていくのだ。
「どうしたの。そんなにやけ面して」
「にやけ面? そんなバカな。俺は今今世紀最大の悩みに直面しているんだ。そんなにやけ面なんてさらしているわけがないじゃないか」
「ああ、はいはい。何となく言いたいことはわかったけどとりあえず話してみたら?」
我が推しは呆れたような苦笑いを浮かべながら、俺が座っているベンチの隣に腰かける。
推桐葵。いや今は一草葵といった方が正しいか。
彼女こそ俺を悩ませる張本人の一人であり、当事者だというのに彼女は涼しげな顔をして俺の隣を陣取っている。
真夏の暑い日だというのに彼女の周りだけマイナスイオンが出ていて、俺真で涼しくなってくるような錯覚さえ覚える。いや錯覚ではなくまぎれもない事実なのだろう。
汗一つかかず時折吹く風になびく彼女の姿は今日も美しい。
日に日に美しさに磨きがかかって見えるのだからなお悩ましい。
手に持っているなんてことない缶のオレンジジュースですら映えて見える。
「聞いてくれるのか、我が妻よ。というよりも話す前から俺の悩みを察してくれるなんて、そんな喜ばしいことがあっていいのか。さすが君だと言わざるを得ないな。どんな人生経験を踏めばそんなに察しがよくなるんだ。本当に結婚してよかった。毎日ありがとう。一生俺の隣にいてくれ」
「よくそんなにぺらぺらと言葉が出てくるよね。聞いてるこっちが感心しちゃう。それに私の察しの良さは君限定なんだから。何年一緒にいると思ってるのよ」
確かに気づけば一緒になって長い年月が経ったような一瞬だったような気もする。
今でも昨日のことのようにあの放課後の屋上の風景を思い返すことができる。
いろいろな思い出を重ねても、やはりきっかけというものは色あせることはないのだろう。
目の前に広がる光景を眺めながらも、葵から懐かしくももはや新鮮味すら覚える『君』なんて呼ばれたからか、ひと時の懐かしい思い出に浸る。
「一人でトリップしてないで帰ってきてー。あなたと話したがっている人がすぐ隣にいるんですよー。私を置いてかないで」
「誰が君を置いていくか。俺がもし君を置いて去るようなことがあるのであれば、俺は今すぐにでも舌をかみちぎって自分を罰するところだ」
「それって結果的に私を置いていっちゃってるよね? 舌をかみちぎったら死んじゃうんだよ?」
「確かにそれは困る」
「はあ……。悩んでるっていうから心配してたのに平常運転じゃん。よくもまあ飽きないよね」
「飽きるなんてもってのほかだ。君は日々美しく可憐になっていっている。年を追うごとに美しくなっていっているんだ。輝きが増しているんだ。そんな存在を目の前にしてなぜ飽きることができるんだ。最近も同志たちといかに君が進化していっているか語り合っていたところだ」
「同志……ああ、初美さんのこと?」
「あとプー太郎もな」
「プーちゃんね」
彼女は口を押えながらくすくすと笑う。
推しからちゃん付けで呼ばれるなんてなんて羨ましい奴なんだプー太郎。
俺は彼に対して謎の敗北感を感じていた。
「でもまさか悠くんが本当にドルフィントレーナーになるなんてあの時は思ってもなかったなあ」
「それは葵が焚きつけたのもあるだろ」
「何、わたしのせいってこと?」
「いや君のおかげだし、もちろん俺の意思でもあるからな」
「あなたのそういう素直なところ好きよ」
俺は今あのデートの予習と本番で行った水族館でドルフィントレーナーとして働いている。
昔から目立たなかった俺が唯一といっていいほど盛大に目立った場所であり、大切な思い出の場所だ。
思い入れというものも出てきて、あれだけ褒められれば多少なりともその職業に対して興味というものも湧いてくるというものだ。
そして隣にいる彼女の後押しもあって、俺は自分のやりたいことを見つけられた。
幸せなことに職場には恵まれている。
我が推しのことを思う存分語り合える同志であるイルカのプー太郎に初美さん。
初美さんはあの時のチケット売りのお姉さんだ。
今は職場の上司であり、彼女も葵のことを推している同志でもある。
好きな人のことを存分に語れて何より好きなことができる。そんな職場を恵まれているといわず何と言うのか。
「あ、帰ってきたよ」
ふいに葵が柔らかな口調で言葉を発する。
彼女が向けている視線に合わせるように目を向ける。
「ぱぱー、だっこー」
とてとてと音が聞こえてきそうなおぼつかない足取りで、あぶなっかしくも愛らしくゆっくりとこちらに向かってくる我が推し。
愛する我が娘であり、彼女も俺の悩みの張本人である。
そんな俺の考えなど知らない彼女は真っすぐに俺の方に向かってくるとそのまま俺の膝の上にダイブしてくる。
俺は彼女が膝の上から転げ落ちないようにしっかりと両腕で抱きかかえる。
「どうした? もう疲れたのか?」
「じんせーにはきゅーけーもひつようなのです」
「な……! 誰だ、この子にこんな人生における大事なことを教えたのは。というかこの歳でこんなことを言えるなんて天才なんじゃないか。さすが俺の推しだ」
「歩、ジュースいる?」
「のむ!」
俺の言葉を無視して推し同士が会話をしている。
なんとも微笑ましく何物にも代えがたい光景だ。俺はきっとこの光景を見るために生まれてきたのだろう。
推しに囲まれているなんて俺はなんて幸せなんだろうか。
「でも歩。人生にはな、時には休まず全力を出さないといけない時がある。それは推しを見つけたときだ。推しじゃなくてもいい。自分の中で何物にも代えがたいそんななにかを見つけたときは全力疾走で駆け抜けるんだぞ」
「はーい」
「絶対あなたの影響でしょ……」
額にかいている歩の汗をハンカチで拭いながら白い目を向けてくる葵。
母性を出しながらも辛らつな表情を俺に向けれるというのはなんとも器用だ。
しかもそれを同時に味わえている俺は何という幸せ者なのだろうか。
母親と愛する人の両面の雰囲気を醸し出している彼女は最強だ。
「どうして嬉しそうなのよ」
「幸せだなと思って」
「変な人。……それで? あなたの悩みって結局何なの?」
「ぱぱ、こまってるの?」
くりくりっとした瞳をこちらに向けながらまっすぐに俺の目を見つめてくる歩。
その顔は間違いなく葵の遺伝子を引き継いでおり、将来どんな美人になるのか今から楽しみでしょうがない。
いや今でも十分に可愛いし美人なのだが、まだこれからさらに成長するというのだから末恐ろしい。
「そうなんだ。俺は今困っているんだ。歩、葵、聞いてくれるか……」
俺は歩を抱きしめながら口を開く。
彼女は俺に遊んでもらえていると勘違いしているのか嬉しそうににこにこと笑っている。
「俺の推しが尊すぎて辛い」
日々感じていることをようやく口にできて幾分かすっきりした気持ちにはなるが、悩みがなくなるわけではない。
歩は自分たちの想像できないスピードで日々成長している。
毎日新しい言葉を覚えて、身長も伸びて友達も増えていっている。
それを見ているだけでも楽しいのにそれにもまして毎日毎日どんどんかわいさが増していくのだ。
もう見ているだけで一日の疲れが吹き飛ぶ。アイドルなんて目じゃないくらいにすでに彼女は俺の前で光り輝いている。
そしてそれは歩だけではない。
葵も歩が生まれてからというもの日々母性が増していき彼女から慈愛心を感じるようになっているほどだ。
そして彼女は昔から美しい。だというのに未だにその美しさに磨きをかけていて留まるところを知らない。
仕事に行く前に彼女が送り出してくれれば朝のけだるさなんて一瞬で吹っ飛ぶし、家に帰って彼女の顔を見れば、その日のしんどさなんて一瞬で忘れる。
聖母顔負けの癒し力を彼女は持っている。
「あゆみちゃーん。あっちであそぼー」
「歩、お友達が呼んでるよ。パパのお話聞いてると変になっちゃうから遊んでくる?」
「あそぶ! ぱぱ、げんきだしてね!」
歩はぎゅっと俺の首に抱きついてくるとそのまま俺の腕をすり抜け、友達の元へと走っていった。
「転ばないように気を付けるんだぞ。……はあ、尊い」
「深刻そうな顔して何を言い出すのかと思ったら、やっぱりただの平常運転だったね」
「いや今の見たか? 俺への気遣いをするどころか俺を励まそうと抱きしめてくれたんだぞ? これで尊さを感じなかったら何が尊いというんだ。あれは尊いの権化だ。俺のことを心配してくれるなんていい子すぎる」
「あなたの素直なところが似たのね」
「それをいうならあの子の可憐さと愛らしさ、そしてあのコミュニケーション能力、全力で目の前のことに挑む姿勢は間違いなく君譲りだな」
一緒に駆けていった友達だってこの公園に来てから知り合った子だ。
それなのに今は仲良く笑いあいながら砂場で遊んでいる。
あんなに明るくまっすぐなところはきっと彼女に似たのだろう。
「それにな、割と真剣な悩みなんだ。だって考えてみろ。俺の心は君という存在だけでいっぱいだったわけだ。ずっと満たされていたんだ。もはやあふれ出しそうなくらいだった。それに加えて推しがもう一人増えたんだ。しかもあの子も日を追うごとに可愛さが増していく。もう俺の心はあふれ出している。でもあふれさせたくないんだ。すべて俺の中で受け止めたい。でもあふれてしまうものはどうしようもない。俺はどうすればいいんだ? 死ぬしかないのか? 二人を置いて死ぬわけないだろう。バカなことを言うな」
「一人で自己完結しないで」
俺の必死の吐露を軽く受け流し、さっきまで歩にあげていたオレンジジュースを飲む葵。
相変わらずコーヒーが苦手で甘いジュースの方が好きな彼女の愛らしさもたまらない。
「でも一つ間違いなく言えることがあるとすればさ」
「なんだ?」
「それだけ悠くんに愛されている私とあの子はとんでもなく幸せ者だね」
「……それは俺も同じさ」
柔らかい笑みをこちらに向けて、彼女は砂場で遊んでいる歩の方へと目を向ける。
その横顔はどこまでも柔らかくて彼女への愛情がその表情からあふれ出しているのが目に見えてわかる。
愛する人が愛する人を見つめている。
そんな光景にどうしようもなく愛おしくなり、そんな思いを少しでも伝えたくて彼女の手をそっと握る。
俺の思いが伝わったのか葵も俺の手を優しく握り返してくれて、すこし照れるようにこちらにはにかんで見せる。
そんな彼女の表情はあの時から何も変わらない。
どんなに月日を重ねても俺の推しは純粋で最高なのだ。
「俺はとんでもなく幸せ者だな」
こんな日常がいつまでも続いてほしい。
俺の想いがあふれるのであればその分彼女たちに精いっぱいあふれ出す想いを伝えていきたい。
二人の最愛で最高の推しをいつまでも眺めていたい。
夏の暑さと少し火照った体を癒してくれるような風が顔に当たるのを感じながら、俺はその手のぬくもりと目の前に広がる光景をしっかりとかみしめていた。
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あとがきのようななにか
素敵なレビューをいただき、久しぶりに自分が書いた話を読み返しました。
そしたら彼らの話をまた書きたくなり、リハビリがてら彼らのその後の日常の一幕を書いてみました。
正直自分自身でもあのエピローグが最高の終わり方であると考えていて、
このafterstoryは蛇足になるかもしれないと思って書くか、書いても投稿するか迷いましたが、いざ書き始めてみたら彼ら(特に彼は)は幸せそうに話しだすものですから楽しく書けてしまいました。そんな幸せな人生を歩んでいる彼らの姿を皆様にも見てほしくて投稿しました。
少しでも楽しんでいただけたのであれば幸いです。
この作品を見つけてくれて、読んでいただき本当にありがとうございました。
推しがあまりにも尊すぎたので「その遺伝子を後世に残すべきだ」と提案してみた 葵 悠静 @goryu36
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