師匠との出会い 2
やっぱ面倒臭いことをしたな、と蘇芳は思った。
あのあと適当な宿を取り(小汚い荷物に一瞬嫌な顔をされたが、宿代を多く積めば問題なかった)、丁稚に小遣いをやって子供服の調達に行かせ、風呂で小汚い身体をがしがしと洗った。その間も子供はピクリともせず気を失ったままで、結局目を覚ましたのは、新しい服を着せて布団に突っ込んでから暫く経ったあとだった。
そこまでは、何の滞りもなく進んでいたのだ。だが、そこからが問題だった。
目覚めた子供は、自分が置かれている状況に酷く混乱し、引き攣った悲鳴を上げたかと思うと逃げ出そうとしたのだ。
その首根っこを捕らえることは容易だったが、子供が暴れようとしたため、不本意ながら低い声で、逃げるな、と脅す羽目になってしまった。これでは人攫いだ。命の恩人だというのに。
取り敢えず大人しくなったのはいいが、子供はすっかり蘇芳に怯えて縮こまってしまった。
(……腹に食い物突っ込めば少しはマシになるか?)
風呂に入れるためひん剥いた服の下には、大量の傷跡で覆われた身体が隠されていた。傷跡には、打撲、火傷、切り傷などが多く、それらは新しいものから古いものまで様々であった。また、身体自体もやせ細った不健康そのもので、まともな食事とは程遠い生活をしてきたのだろうことが察せられた。
手負いの小動物を拾ったようだ、と思いながら、蘇芳は何か消化に良い物を作ってもらおうと部屋を出た。一瞬、自分が部屋を空けている間に逃げやしないかと思いはしたが、あの子供にそれを実行できるほどの余力はないだろう。それに、陽が落ちた外では雪が降り始めている。よほどの馬鹿でもない限り、今この宿を出るのが自殺行為であることくらいは判る筈だ。
そう考えて厨房で粥と酒のつまみを調達してきた蘇芳は、部屋に戻って眉を顰めた。
子供がいなかった訳ではない。いるにはいるが、
卓上に粥とつまみを置き、蘇芳はつかつかと子供に近寄って、真正面からその顔を覗き込んだ。びくりと肩を跳ねさせて怯えを露わにした子供に対し、蘇芳は数度瞬きをした後、にやりと笑って見せた。
「なんだ。よく判らないが、さっきの餓鬼よりは幾分話が通じそうじゃあないか」
「……な、なに……?」
怯えの中に戸惑いを滲ませた少年に対し、蘇芳が笑みを深める。
「雰囲気も違うが、特に目が違う。お前はアタシを警戒していても、怯えてはいない。お前の怯えはさっきの餓鬼と違って、表面上繕ったものに過ぎない」
途端、子供の表情が引き攣り、強張る。それを見て、蘇芳はやはりと思った。
一見すると同じように見えるこの少年は、しかし蘇芳が部屋を出る前とは異なる何かだ。蘇芳の前のこれは、怯えて震えることしかできない小動物ではなく、手負いながらも油断を見せたら喉を食い破ってやろうとでも言いたげな肉食動物だ。
どういう理屈なのか、蘇芳にはさっぱり判らない。けれどどうやらこの子供は、中に
表面の怯えはそのままに、黒い瞳の奥に宿っている警戒の色が濃くなったのを認めて、蘇芳はやれやれと首を横に振った。
「アタシは仮にも命の恩人だぞ。もう少し礼節を持った対応したって罰は当たらないと思うが?」
「……」
「ま、話さえできればいいさ。……ほら」
いったん子供から離れ、卓に置いた粥を盆ごと子供へと差し出す。食え、という意図だったのだがしかし、面喰らったように目を見開いた子供は粥をじっと見るばかりで受け取ろうとしない。その様子に面倒臭そうな顔をした蘇芳は、殆ど子供の胸に押し付けるようにしてぐっと盆を突き出した。
盆に胸を押された子供は、物言いたげな目を蘇芳へ向けてくる。何がしたいのかと問いたいようでもあり、施されてたまるかと言いたいようでもあった。
そんな様を、蘇芳は鼻で笑う。
「今の状態で
そう言いながら盆のふちで何度か胸を小突いていると、子供はようやく盆を受け取った。と言っても、食べる意思の下受け取ったというより、小突かれるのを止めるために奪い取ったと言った方が正しいようだ。
枯れ枝のように骨ばった手は盆を握ったまま、食器に手を伸ばす気配はなく、黒い目は相変わらず蘇芳へと向けられている。
そこに浮かんでいる猜疑の色に、蘇芳はもう一度笑った。それから、盆の上から器と木の匙を取って粥を一口食べる。どろどろで半ば糊状になっている米は、優しい味と言えば聞こえが良いが、味気がなさ過ぎる。病人食として頼んだのだから当然ではあるのだが、蘇芳は素直に不味いなと思った。
「お前なんぞに毒を盛って何の意味があるのか気になるところだが、このアタシに毒見役をさせるなんて大層なご身分だな。満足したならさっさと食え、冷めるだろうが」
とはいえがっつくと死ぬからがっつくなよ、と言いながら、蘇芳が食器を盆の上に戻す。それでもなお子供は躊躇っている様子だったが、少ししてから器と匙を手に取った。
恐る恐るといった風に子供が粥を口にし始めたのを確認し、蘇芳も口直しの酒とつまみを口に運ぶ。
暫くして、子供が盆に食器を置いた。器の中にはまだそれなりの量の粥が残っていたが、不味くて食べきれないわけではなく、縮んでいる胃では容量に限界があるのだろう。
盆を卓の上に取り上げ、改めて子供と向き合った蘇芳が口火を切る。
「腹は膨れたな? それじゃあ話をするとしようか。まず現状を確認させてやる。お前が落ちてた。アタシはそれを拾った。汚かったから風呂に入れて、服も酷い有様だから替えて、飢えてるお前に餌をやった。何か質問は?」
「……」
「無いなら次だ。お前が落ちてた時の状況を鑑みると、どうせ帰る場所もなけりゃ行く宛てもないんだろう。というわけで、拾った以上お前の所在と生活の責任は、アタシが最低限持つ。気に入らないなら出てってもいいが、小汚くて非力な餓鬼を拾うような人の良い奴を探してるうちに、お前の限界が来るだろうな。それを理解した上で出て行けよ」
すっぱりとそう言い切った蘇芳に、しかし子供はやはり黙ったままである。愛想のない餓鬼だな、と思いつつ、蘇芳は話を進めた。
「あとは……ああ、名前聞いてないな。アタシは蘇芳。で、お前ともう一人、中にいるあの餓鬼の名前は?」
蘇芳がそう尋ねても、子供は相変わらず黙ったままだ。それを辛抱強く待ってやると、長く続く沈黙に耐え難くなったのだろうか、ようやく小さな口が開いた。
「…………何がしたい」
「あ?」
「何をねらってる」
子供は取り繕うのをやめたのか、じろりと蘇芳を睨みつけた。その態度に蘇芳は感心する。この状況で、質問に答えるどころかこちらを問い詰めに掛かるときた。蘇芳と子供ではその力量差は圧倒的だと判っているだろうに、それでもなお食いついてくる気があるらしい。
「逆に訊くが、何を狙えって言うんだ? まさかそんなことするような価値がお前にあるとでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい」
「何もなくて、きたない子どもをひろって、めんどうをみるって? なんにもたくらんでなくて? それこそ、ばかみたいな話だ」
その言葉に、蘇芳は顔に浮かべていた笑みを消し、すっと目を細める。
「……アタシは寛大だから今のところ許してやるが、目上への口の利き方は気を付けろよ。そこら辺の躾もしないといけないみたいだな」
やや低くなった声に、子供の肩が一瞬揺れた。やはり、どちらが上であるかの理解はできているようだ。
それでも、子供は蘇芳を見据えることをやめはしなかった。色の違う二つの目が真っ直ぐに蘇芳を見つめている。
しばしの睨み合いが続き、その均衡を破ったのは蘇芳の方だった。
「……ふっ、ははっ、ああ、やめだやめ。弱いもの虐めは好きじゃあないんだよ、アタシは」
「なに?」
「いっちょ前に歯向かってくる気概は認めてやるけど、もう少し相手は選んどきな。アタシは今ので怒り狂うほど気が短くないが、世の中そういうのばっかじゃあないんだ。早死にはごめんだろう?」
にんまりと蘇芳が笑って見せれば、子供は不愉快そうな顔をしたものの、反論することはなかった。
「それで、魂胆見せろって話だったか? 魂胆も何もありゃしないが、お前を拾った理由は単に、この地酒が美味かったからだ」
「……は?」
「アタシは酒が好きだからなぁ。今日は良い酒を飲んで気分が良かった。面倒臭そうだったけど、まぁ美味い酒に免じて拾ってやっても良いかと思ったんだよ。この酒を造った杜氏に感謝しときな」
卓上の酒瓶を指差し言うと、子供は呆気にとられたように間の抜けた顔をしたが、次いでその表情が怒りに染まっていく。どうやらからかわれたと認識したようだった。蘇芳としてはごく真面目に事実を言っただけなので、何が気に食わないのやら、甚だ心外である。
正直、理由がそんなにも重要なものなのかというところから理解できない。理由はどうあれ、あとは朽ちるだけの命を幸運にも掬われたと、ただそれだけがそんなにも納得のいかないものなのだろうか。とにかく、やたら細かいことを気にする餓鬼だなぁ、と蘇芳は思った。
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