師匠との出会い 1
それは、今から十年程前。冷たい冬の風が吹き散らしているような日のことだった。
この世界においてエトランジェたる蘇芳は、とある島国の辺境へと遊びに来ていた。空には重苦しい雲が立ち込めており、今にも雪が降り出しそうな様子である。そんな空を見上げて、このまま雪が降ったら雪見酒だな、と彼女は思った。
彼女がこの世界に来てどれ程経っただろうか。偶発的に次元のはざまに迷い込み、聞いたことだけはあった別世界に飛ばされたときは、流石の蘇芳も驚いたものだ。なにせ言語は全く通じないし、自身に半分流れている
だが幸いなことに蘇芳はヒトよりも強い力を持っていたので、言葉を介さずとも実力を示せる用心棒や傭兵紛いのことをして生計を立てることができた。金さえ手に入れば、あとはのんびりと言葉や習慣を覚えれば良いだけである。
もともと悲観的な性質ではないのも相まってか、彼女はすぐさまこの世界に順応していき、言葉を覚えてからは、元の世界でやっていた刺青も生計の一端に加え、のんびりと世界を放浪していた。
今いる島国は蘇芳の本来の世界と言語や文化などが似ていて割と気に入ったので、ここ数年はこの国に滞在し、観光がてらに各地を回るという生活をしているのだ。
そんな彼女が辺境の田舎くんだりまで足を運んだのは、偏にここの地酒が美味いという話を耳にしたからであった。酒の話を聞いたその日にすぐさま自宅を出発するあたり、無計画と称するのがふさわしい。
とにかく、お目当ての酒を確保した彼女は上機嫌だった。購入した十数本の瓶の内の一本をお供に、やや浮かれたような足取りで帰路を歩む。しかしそんな最中、彼女はふと、進んでいく先の道端に何かが転がっていることに気づいた。
(なんだありゃ?)
遠目にもみすぼらしいと判るそれに近付いてみれば、転がっていたのは汚いボロ布のような衣服を纏った子供だった。
(……餓鬼?)
なんでこんなところにこんなものが転がっているのだろうか、などと思いつつ眺めてみるが、勿論目の前の光景に変化はない。
(しかし、酷い格好だな)
季節は冬だというのに子供が着ているのは薄手の服な上、ところどころ擦り切れて肌が露出してしまっている。悪臭と言って良いだろう饐えた臭いも、この子供から発されているものだ。大方、長いこと風呂に入っていないのだろう。蘇芳はヒトよりも過敏な鼻を持っていたので、その臭いに盛大に顔を顰めた。
極めつけは、衣服の切れ目から覗く青白い肌だ。ただでさえ温度を失って酷い色になっているというのに、それ以外にも肌を変色させる酷い痕が多く付いている。そしてその細枝のような腕の先は、鉄錆の臭いが漂う赤黒いもので汚れていた。
殆ど死体のように見える少年は、しかしどうやら辛うじて生きているらしい。静かな空気を僅かに揺らす呼吸の音が、その証拠だ。
細かい経緯は判らないが、この子供がどういう環境で生きてきたのか、察するに余りある様相である。
(さて、どうするかな)
別にこのまま放置しても特に問題はない。随分と衰弱しているから、放っておけば明日の朝までに小さな死体が出来上がるだろうが、それだけだ。蘇芳にとって利にはならないが、害にもならない。
逆に、拾っていくという選択肢もある。だが、一度拾ったからには最低限面倒を見るべきだ。そしてそれは正直面倒くさい。害があるとまでは言わないが、利が欠片もない割に面倒しかないな、と蘇芳は思った。
とは言え、上質な酒を手に入れた蘇芳は今、とても気分が良い。多少の面倒事なら酒と共に腹に収めてもいいか、と思う程度には上機嫌だった。
子供の体の下に足を差し入れて仰向けにひっくり返してみる。蘇芳の力が人外のものであるというのを差し引いても、随分と軽い力で転がった。どうやら肉の薄い身体をしているらしい。
転がされたことでようやく露わになった子供の顔も、酷いものだ。子供らしい丸みなどどこにもなく、ともすれば気味が悪くなるくらいにやつれている。
特段感慨を持つこともなく少年を観察していた蘇芳は、そこで彼の細い首に赤黒い痕があるのを見咎めた。大人が子供の首に手をかけたら丁度こんな風な痕になるだろうか、と思うような、そんな痕だ。
その痕をしげしげと眺めていると、不意に子供の目蓋が震え、ゆっくりと持ち上がった。そして、うっすらと開かれた瞼の隙間から現れたものに、蘇芳は僅かに目を見開いた。
(……異形の目、か)
黒と金で彩られた、ヒトならざる目。
少年が弱々しく押し上げた瞼の奥、その右目だけが、普通ではなかったのだ。
「……、ぁ……」
少年のひび割れた唇が、何かを紡ごうと震える。それをただ黙って眺めている蘇芳の前で、彼は掠れ切った音を零した。
「…………ぉ、か、ぁさ……」
酷く小さなその呟きは、しかし人外たる蘇芳の耳にはしっかりと届いた。だが、焦点が定まらない少年の視線は、再び下ろされた目蓋に断ち切られてしまった。
それを見届けてから、蘇芳は白い息を吐き出した。
少年の右目は、まさしく異形のものだ。だが、この子供からそういった類の力は感じない。だとするならば、一体どういうことなのだろうか。
僅かな時間、そう思案した蘇芳だったが、すぐに考えるのをやめてしまった。この子供の目のことなど大して興味もないのだし、考えるだけ時間も無駄だと思ったのだ。
いずれにせよ、子供の呟きと異形の目で、おおまかな事情は想像できた。
「まぁ、これも縁って奴だろう」
そう言った蘇芳が、右腕を伸ばして子供を小脇に抱える。右腕にかかった重みは、左肩に下げた酒瓶たちよりよっぽど軽いものだった。
(さて、取り敢えずは宿をとって、この餓鬼を風呂にぶち込まなきゃな)
そんなことを考えつつ、子供の垢や脂やらで汚れてしまった己の衣服を見下ろして、蘇芳は足を速めたのだった。
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