三人の王妃 2
「驚かせてしまったか、すまない」
「え、あ、い、いえ、……すみません」
何がすみませんなのかは少年にも判らなかったが、取り敢えず謝っておこうと思ったのでそうすることにした。だが、その謝罪に王がやや難色を示す。
「お前に落ち度はないのだから謝らなくて良いのだぞ?」
「え、えっと……、……はい」
謝るなと言われて謝らずにいられるほど少年は自己肯定ができないのだが、ここでそう主張しても無駄だということを彼は知っていた。だからこそ大人しく頷いて返したのだが、王はますます不服そうな顔をして見せる。
さて、いよいよ機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうかと顔色を悪くした少年の唇に、王の指先が触れた。
「敬語はいらぬと言っただろう?」
「…………え、……あ……」
そういえばそんなようなことを言われた気がするな、と少年は思った。なんだか瞳の美しさに押し切られて承諾してしまったような覚えもある。
「すみませ、……ご、ごめんなさい」
「ふむ。その謝り癖は直らぬようだが、ひとまずは敬語をやめる努力をしているという点を嬉しく思うべきかな」
そう言って笑った王が、腕を伸ばして少年を抱き上げる。案の定間抜けな悲鳴を洩らした少年だったが、王の方はそんな彼の反応にも慣れたようだった。
「あ、貴方、なんですぐに抱き上げるの……!?」
「なんで、と言われてもなぁ。お前がかわいいから抱き締めたくなってしまうのだ。キョウヤは嫌か?」
「……い、嫌じゃ、ない、けど……」
嘘だ。正直に言うと、どちらかと言えば嫌だ。だが、そんなに寂しそうな表情をされてしまうと嫌とは言えないではないか。作り物と判っていてもそう思わせるのだから、厄介な王様である。
「しかし、こんなところに迷い込んでいるとは。ここは歴代の王族の肖像画が飾られている場所でな。まあ、特に必要性はない贅沢な家系図のようなものなのだが、だからといって潰すのはやめてくれと家臣たちに頼まれたので、こうして残してある」
「潰すって……」
何をどうしたらそういう発想になるのだろうかと思った少年だったが、それに気づいたらしい王が、にこりと笑った。
「私が王に即位したての頃に、こう、無駄な出費や人材を処分する大改革を行ったのだ。その一環で、この無駄な空間も他の何かに使えるのではないかと提案したのだが、猛烈な反対にあってしまってな。レクシィなど、家臣が多くいる場で私の頭を叩いて馬鹿かと罵る始末だったのだぞ? まあ、王家には対外的な立場というものあるからな。ある程度こういった無駄なものを内包しなければならんのだろうよ。当時の私は、その辺りの匙加減がまだ判らなかったのだ」
「な、なるほど……」
王の発言はなんというか、王家に詳しくない少年ですら当時のレクシリアの苦労が想像できるような内容だった。
「そこの絵が、先代のグランデル王だ」
そう言って王が向けた視線の先にあった絵には、今の王を思わせる顔立ちの男が描かれていた。年齢は、少年を抱いている王よりも上に思える。当代の王の肖像画はおそらく二十歳前後くらいだろうに、どうして父王の肖像画はその年齢のものではないのだろうか。
そう思って内心で首を傾げた少年の頭を、王が撫でる。
「この場所には、即位した年に描かれた絵が飾られるのだ。肖像画の年齢に統一性がないのはそのためだな」
そう言った王は、少年を降ろして当代の王家の肖像画が掛けてある壁へと向かった。そして、自身の絵の下に並ぶ女性の絵を見つめる。その指先が、中央にある絵の額縁に触れた。
「彼女は、私が王になってすぐ、二十歳のときに迎えた妻だ。お前の住んでいる金の国の王家に連なるで女性で、年齢は私よりも二つ下だったな。即位して間もない王の隣に立つという重責を担わせてしまったのだが、己の役割をきちんと理解し実践する、とても聡明な妻だったよ。無論、ギルガルド側が私の王政を安定させる一助足りうる女性を用意してくれたのだと思うが、それにしても期待以上に王妃の役目をこなしてくれる人だった。とにかく短期間で国を安定させる上で、彼女の努力はかけがえのないものだったのだ」
静かにそう言った王が、次いでその左に並ぶ額縁に手を伸ばす。
「私が二番目に迎えた妻が、彼女だ。グランデルでも有数の名家の令嬢で、歳は私よりも五つ下だった。婚姻を結んだのは私が二十二歳のとき。この頃にはもう国政自体は大分安定していたのだが、代わりにロイツェンシュテッド帝国との大陸間戦争が勃発した年でな。私が戦争のために出払うことが多かったので、彼女にも随分と苦労を掛けた。三人の妃の中で、もっとも時間を共有できなかったのが彼女だ。だというのに、私に会えば嬉しそうに色々な話をしてくれる人でな。もっと多くの時間を共にできていたならば、と、今でも後悔が残っている」
小さくを息を吐いた王が、名残惜しそうに額縁を撫でてから手を離した。そして最後にその指先が、右にある額縁に触れる。
「彼女が、私の最後の妻だ。結婚当時の私は二十四歳。彼女は二十六を迎えていた」
そう言った王が、優しく額縁に指を滑らせる。
「いわゆる、下級貴族の令嬢でな。傾きかけた生家を持ち直すのに尽力していたら嫁に行く機会を逃してしまっていたという、なかなか豪快な女性だった。出自故に本来ならば王家との婚姻の話が上がる女性ではなかったのだが、芯が強く豪胆なところを見込んだレクシィが、どうか王妃にと懇願してくれたのだ。なにせ、これまでに二人の王妃が奇病で亡くなっているからな。三回目の婚姻ともなると、こちらから話を持ちかけることは躊躇われる状況だった。だがそれでも、私たちは王妃の死の原因がどこにあるのかを確かめなければならなかったのだ。王家の血を残すことは、王族としての義務だからな」
そう言った王が、またひとつ息を吐き出した。
「レクシィはな、彼女を王妃として迎える栄誉を伝えに行ったのではない。国のために死んで欲しいと頭を下げに行ったのだ。そして私は、それを知っていて止めなかった。国のために、そうすることが最善だったからだ」
少年の方からは、肖像画を見つめる王の背中しか見えない。だから、彼が今どんな表情をしているのかは判らなかった。
「贄として選ばれた彼女に迷う様子はなかったそうだ。こうして妃として迎えた彼女と初めて閨を共にしたときに言われた言葉が、またこの上なくてな」
やはり王の表情は見えないままだったが、少年の耳は王が小さく笑ったのを捉えた。尤も、それが純粋な笑みなのか自嘲なのかまでは判断できなかったので、その真意は不明だ。
「このような大役を賜ること、心から光栄に思います、と、そう言われたのだ。己が贄であることを十全に理解し、これから行われる行為の末に迎える結末を知った上で、彼女はなお毅然とした態度で微笑んだ。本当に、心から幸福だというかのように。……いや、訂正しよう。彼女は心から幸福だと思っていた。私という王のために死ぬのならば、それこそ本望だと、そう思っていたのだ」
王の手が、ゆっくりと額縁から離される。そんな彼の背中を見て、少年は何度か口を開いては閉じて逡巡したあと、静かに落とすように音を紡いだ。
「……貴方、は、かなしかった……?」
囁くようなその声に僅かに肩を揺らした王は、ゆっくりと少年を振り返った。そして、いつもの笑みを湛えて彼を見る。
「悲しかったとも。妻を亡くしたのならば、悲しまねばならない。王妃を喪ったのならば、憂えなければならない。国民を殺してしまったのならば、それを重責として感じなくてはならない。そうだろう?」
それは、怖気がするほどに無機質な言葉だった。もしかすると、ロステアール・クレウ・グランダという男の本質の一端が垣間見えた瞬間だったのかもしれない。
(こ、の、ひと、は……)
怖いと、心から少年はそう思った。目の前にいる男が、酷く恐ろしい何かであるように思えて仕方がないのだ。警鐘がどこか遠くで鳴り響いているようで、今すぐ逃げなければいけないような気さえしてくる。
だが、それでも、
(……なんて、かわいそうな人なんだろう……)
少年の心を真っ先に満たしたのは、憐憫にも悲嘆にも似た何かだった。
警鐘は鳴り止まない。意識の奥底で誰かが悲鳴を上げているようだ。けれど、少年は一歩を踏み出す。その足が向かう先に彼がいることを知っていてなお、足を止めることができない。
「…………貴方、」
声が震えたのは、きっとこの上なく悲しくて、この上なく嬉しいからだ。少年がそれを認識できたかどうかは、判らないけれど。
おずおずと伸ばされた手が、男が纏う衣に触れる。本当に頼りなげな力でそれを握った少年は、まるで傷ついた獣に寄り添うような慎重さで、そっと彼の前に立った。
俯けた顔では、男の表情を見ることはできない。でも、少年はここで顔を上げてしまったらいけない気がした。だから、ただ黙って彼の傍にいる。
頭上で小さく息を呑むような音がして、それから、高めの体温が少年の頬を慈しむように滑った。それはきっと、豪奢な額縁を撫でたあのときよりもずっと温かで優しいもので、だからこそ、少年は思わないではいられないのだ。
どうか、少しでも――
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