二章 1.泥濘
今朝は、水溜りに氷が張っていた。
昼からは、日が差して、温かくなった。
今、氷が解け始めて、道は泥濘でいる。
「吉井君」
誰かが吉井を呼んだ。
吉井とは、小学校の五年生の時ののクラス替えで、同じクラスになった。
吉井は五年生の一学期の級長になった。
級長になるくらいだから成績も優秀だった。
身体は大きいのだが、粗野な感じはしない。
名前くらいは知っていた。
吉井となぜ仲良くなったのかは覚えていない。
中学校は、吉井が国立大学の付属中学校へ入学したので一緒に帰ることも遊ぶこともなかった。
そして、同じ高校へ進学した。
二人は汽車通学だったので、一緒に帰る事がよくある。
「こんにちは」
吉井が挨拶をするのに合わせて努も会釈をした。
知らない男だ。
「こないだ、大変やったやろ」
男は、努に会釈を返すと吉井に向かって云った。
「いいえ。違います。あの時父は一緒やなかったんです」
「えっ?そうか。前の日、釣りに行ってる時、会うたんやけど。ああ、そうか。何か変やなあ思うたんや」
疑い深そうに、探るような目で話している。
「はい。誘われてたらしいんですけど、月曜から出張で、あの日は行ってなかったんです」
吉井の父親は、扇変圧器で技術系の重役だと聞いている。
「あの翌日、儂がボート、借りとってなあ。何時もは嶽下の沖へ行くんやけど、よう行かんかったわ」
東京から来た雑誌記者さんが転落死した時の事だと分かった。
「そうですか」
吉井は迷惑そうに相槌を打った。
「また会いに行くけん、お父さんに言うとってな」
吉井は、また嫌な顔をした。
「はい。伝えときます」
男は、駅の方へ歩いて行った。
遠ざかってから吉井が云った。
「あの人、古沢っていう町会議員なぁ。うちの近くで不動産屋してるんや。今度は県会議員に立候補するらしいんやで」
吉井はあまり好ましく思っていないようだ。
「雑誌記者が転落死した時にお父さんは坂口建設の社長さんと一緒でなかったんを知っとって、あんな事、言うんや」
「そうなんか」
よく事情が呑み込めないまま、嫌な奴だと同調するように頷いた。
努は、あの人が古沢さんかと思った。
以前は、古沢の仕立屋さんといって、着物を仕立てていた。
いつの間にか洋服を扱うようになっていた。
一度、努の母親が仲の良い友達から泣き付かれたと愚痴を溢していた事がある。
母親の友達が古沢洋装店から子供服の仕立てを頼まれた。
まだ仕上がっていないのに、期日までに同じ物をもう一着仕立てるように頼まれた。
それで、その友達から、努の母親に手伝っくれと押し付けれたそうだ。
母親は仕方なく引き受けて納期に間に合った。
友達は、古沢から貰った手間賃を母親に渡そうとした。
母親は断ったが、その時に途方もなく安い手間賃だと分かったそうだ。
古沢は、洋装店を商う傍ら不動産屋をしていた。
不動産売買で大儲けして今では町会議員をしている。
「じゃ、また」
そう云って桃川橋の前で別れた。
桃川橋の改修工事が、始まっていた。
吉井が桃川橋の南に架けられた仮設橋を渡って、いつものとおり茅町の路地を通って仲町へ向かって帰って行った。
努は、桃川橋から川沿いに続く土手の道を北へ帰っている。
モーターボートのエンジン音が大きく聞こえる。
筏に組んだ材木をボートで押して川を遡っている。
宮田製材所へ運んでいるのだ。
ボートが通った川面に波が続いている。
旧武家屋敷の建ち並ぶ北堀を過ぎると扇変圧工場前の三叉路に続いている。
三叉路から中通を通っていた。
居た。東京の子だ。
映画館の前に東京の子が立っているのを見付けた。
走り寄ったりはしなかったが、早足になっていた。
近づくと、東京の子が、目で促すように映画館へ向かって行った。
後を追って映画館の前まで行った。
驚いた。
何時からだろう。
溝蓋を踏んでいない事に気付いた。
東京の子が映画館の入口の前で、努の方を振り返った。
切符売場の窓口で入場券を買おうとしているのを東京の子が手で制止した。
映画館のおばさんもサキちゃんも居なかった。
場内売店の前で、東京の子が待っていた。
東京の子が、ドアを押して入って行った。
努も後を追った。
前と同じ、二階の長椅子の席に着いた。
隣に腰掛けるとすぐに耳元で囁いた。
「指輪のこと、調べるの、少し待ってほしいの」
指輪の落とし主について、分かった事は何も無かった。
「良かった。調べようとしていたんですけど、寝込んでしまって、まったく進んでいなかったんです」努は少し安心した。
「寝込んでいたって、大丈夫なの?」
本当に心配しているようだった。
「はい、大丈夫です。熱が出て寝ていただけだから」
難しい頼み事から解放された。
「そう。危ない目に会ってないのね。それで怪我したのじゃ無いのね。熱が出たのね」
少し安心したようだった。
「はい。熱が出ました」
努が云うと、すぐに関心が失くなったと言わんばかりに質問する。
「それで何か変わった事はなかった?私と関わり合いになった事が原因で、病気になった事以外に」
さっきとは違って、東京の子が皮肉たっぷりに云った。
「いや。関わり合いになった事は、熱がでた原因ではないです」努は真面目に答えた。
「冗談よ。何も無かったの?」
「はい」
「さっき、おじさんから聞いたんだけど、誰かが事故で亡くなったでしょ」
「はい。東京の記者さんが嶽下っていう崖から落ちて亡くなりました」
田中のおじさんに聞いているだろうと思って、その事は云わなかった。
事故の内容を説明した。
刑事さんが、いろんな人の目撃情報を収集していた。
「そう。やはり指輪を落とした人を探すのは待って。また、調べてもらう時は、言うから」
表情が曇っていた。
「どうしてですか?」
あれだけ強引に押し付けたのに、あっさりと諦めた。
「だから少し考えたいのよ」
だから、何を考えたいのか知りたかった。
「また、お願いする時は、映画館の前で、壊れた溝の蓋に立ってるから」
東京の子が、また冗談を云った。
それ以上答えるつもりは無いという事だと思った。
会話が無くなった。
何も調べていなかったと思われるのも癪だったので、揚羽蝶の図柄について調べた事をしやべった。
揚羽蝶は家紋だと分かった。
指輪は、明治以降に作られものだろうと考えた。
東京の子は、努のお喋りをただ、頷いて聞いている。
それでも会話は続かない。
努は、気になっている事があった。
東京の子の名前を知らない。
大学を卒業するということは、努の五歳年上だ。
努にとって、五歳年上というと、もう立派な大人だった。
ましてや女性となると無縁の存在だ。
噂をする人も、東京の子とか東京から来た子としか云わない。
そもそも、話し掛ける人は滅多に居ない。
と云うより、東京の子を見かける事が無い。
尋ねる事にした。
「ええっと」
あまりに唐突かもしれないが聞いてみようと思った。
「どうしたの?」
「あのう。何て呼べばいいですか」
「私の事?」東京の子は気付いたようだ。
「はい」
「ツトム君に、私、名前を言ってなかった?」
本当に覚えていないようだ。
「はい。聞いていません」ずいぶんだと思った。
「文月よ。フミでいいわ。本当は、フヅキなんだけど、みんなフミヅキって呼ぶの。何回も読み方を訂正すんだけど、その内に、慣れてくると、フミって呼ぶようになるのよね」
楽しそう云った。
「ツトム君。寂しくなかった?」
また、からかわれた。
恥ずかしかった。
耳と頬が火照り、赤くなるのが分かった。
努は、そのまま、何の話題も無かった。
一瞬、映画館の壁に軋んで音がした。ふたりは天井を見上げていた。
映画館を出た。
厄介な頼まれ事から解放された。
泥濘んでいた水溜まりは、きれいに均されていた。
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