一章 3.依頼
「ああ、東京の子かな」努は、そう思った。
この辺りで、見かけない若い女性なら、東京の子に違いない。
東京の子は、その壊れかけた溝蓋の上で、足元を揺るがせていた。
「おかえり」東京の子は、努に小さな声で云った。
強張った表情が、冷たく感じる。
庇のように突き出た前髪に、降りかかった雪を払い除ける所作が幼く見えた。
容姿と仕草が不釣合いに思えて、珍しいものを見たように見惚れていた。
東京の子は、去年の八月から映画館のおじさんの家に居る。
この町へ東京から来る人は、全く居なかった訳ではなかった。
しかし、東京から若い女性が一人で来ることは珍しかった。
映画館のおばさんの親戚の人ということだ。
皆は、「東京から来た女の子」とか「東京の子」とか、呼んでいた。
興味津々。様子を窺っていたのだが、滅多に表に出て来ない。
東京の子が来て、すぐの頃、努の母は近所の八百屋さんで噂話を聞いたと云っていたことを思い出した。
美人で頭が良くて、運動部の選手だったということだ。
何の競技だったのかは、聞いたようなのだが、母には理解できなかったようだ。
ただ、努の母は都会から来た人は、誰でも女は美人だし、男は男前だと云っている。
母は、都会に対する憧れが強かったのかもしれない。
母は終戦前まで、神戸の紡績工場で働いていたそうだ。空襲で工場が焼けてしまうまで、紡績工場の寮でいたそうだ。本当は神戸近郊だったのだが、都会で住んでいたことが嬉しかったようで楽しそうに話をしてくれる。
もちろん、母だけではないのかもしれない。この街の人は、努の母と同じように、都会に憧れていたのかもしれない。羨ましい想いで、都会の人を見ているのかもしれない。
だから、東京の子が美人だという評も怪しいと思っていた。
東京の子は、努を見ている。
努は、東京の子と目を合わさないように、通り過ぎようとした。
この町では、幼馴染の同級生の女の子と、道で会話しても恥ずかしいような噂が立つ土地柄だった。
都会の事は知らないが、どこの田舎も同じだと思う。
東京の子は、努を呼び止めた。
「おい。ツトム。映画、観いへんか?」
まだこちらに来て、数ヶ月しか経っていないのに、ずっと喋っていたかのように、土地の言葉で、努を映画に誘った。
以前、一度見かけた東京の子は、背が高いように見えた。
近くで見ると、決して高い方ではないと思う。
運動部に所属していたためなのか、姿勢がよくて、背丈も高く見えたのかもしれない。
努は、映画が大好きだった。どうしようかと迷っていた。
努も入場料くらいのお金は持っていた。
一緒に映画館へ入るのは、恥ずかしいし、上映している映画が何なのか知らなかった。
テレビを買ってから映画館へなかなか行かなくなった。
お客さんの呼び戻しのためなのか、ご近所付き合いのためなのか、近所のひとは、そこの映画館に、無料で入れると聞いたことがある。経営を諦めたのかもしれない。
東京の子は、どうして知っていたのか。
「ツトムの好きなチャンバラ映画しとるで」努の足元を見つめて云った。
その一言で、東京の子に付いて、映画館の入口へ向かった。
時代劇は今日、封切だったらしい。
そうだ。今日は、土曜日だった。
ふと、足元を見ると、努のズックは、泥にまみれた雪に濡れ、ひどく汚れていた。
映画館の入口で、切符切をしていたのは、サキちゃんという事務の女性だった。
普段は、映画館のおばさんが、モギリをしている。
努に前を歩かせて、映画館へ入っていった。
サキちゃんは、努に「いらっしゃい」と声を掛けて通してくれた。
入場料はいらなかった。
映画は始まったばかりだ。
暗さに慣れると館内の様子が分かった。
土曜日の午後だというのにお客さんの入りは少ない。
皆、一階の真ん中より前の席で、思い思いに座っている。
十人。居ないかもしれない。
雪が降っている所為だろうか。
東京の子の顔も、はっきりと判った。
もう、冷たい印象は無かった。
優しい顔をしていた。
以前、見た時の印象とも違っている。
美人だとは思っていなかった。
近くで見ると、優しい表情をしている。
冷たい印象を持ったのは、整った顔立ちだからかもしれない。
つまり、これを美人と云うのかもしれない。
もしかすると、これも雪の所為かもしれない。
東京の子は、二階を指さして、階段へ向かって歩き始めた。
努は、後に付いて、階段を上って行った。
東京の子は、軽く、足音を立てないように階段を昇った。
努は、油断すると、大きな音をたてて軋む階段を用心深く踏んで上った。
二階には誰も居なかった。
最後列の一番奥の席へ横に並んで腰掛けた。
ビニール貼りのシートが冷たく足に伝わってくる。
指先は冷たく痺れていた。
身体は、さほど寒さを感じなかった。
東京の子は、努の手に触れた途端、驚いたように手が止まった。
努の指先をもう一度握った。
冷たさに驚いたようだ。
東京の子は、努の手を両手で包むと摩るように温めている。
努は、火傷をしたように熱く感じたが、小刻みに震えた。
耳が火照って赤くなったのが分かった。
スクリーンの光で東京の子の顔が浮き上がる。
努は、動けなかった。
切れ長の目が動かない。
東京の子は、努が逃げないようにと諭すように、軽く頷いた。
掌は、いつの間にか、融けた飴のような汗で粘っていた。
努はまだ震えていた。
努は、怖くなっていた。
耳元で、吐く息に混じって声が聞こえた。
「ツトム君。手、暖かくなったでしょ」
話し掛けてきた。
「お願いがあるの」東京の子が云った。
「これを見て」東京の子が上着のポケットからお守りを取り出した。
「落とし主を探して欲しいの」小さな声で云った。
東京の子は、お守り袋から取り出して見せた。
「これ、指輪ですか?」尋ねると「そうよ」東京の子が答えた。
「この指輪を拾ったんですか?」尋ねた。
「この町で、ずっと以前に、拾ったの」東京の子は答えた。
「この町に居ったんですか?」何度か来た事があると母が云っていたのを思い出した。
東京の子は、その指輪を左手の中指に嵌めて見せた。
指輪に何か彫ってあるのに気付いた。
幅の広いところに絵が彫られている。
「それ、蝶ですか?」色は、暗くてよく分からない。
「そうよ。蝶」
そんな事を尋ねて、どうするんだと自分を叱った。
「なんで、僕に頼むのですか」
「その指輪を拾った後、何度か落とした人を探してこの町へは来たの。でも、分からなかったの」
問の答になっていない。
「だから、どうして僕に」
「三月に学校を卒業するの。自由に動ける時間が無くなるの。今日も、これから東京へ戻るの」
「だったら、尚更。僕では」無理だと思った。
「そうねぇ。調べているうちに、ツトム君の事を知ったの。それで、どうしようか考えていたの」
「調べるって何を?」
「だから、指輪を落とした人よ。今日はツトム君、帰って来るのが遅かったから会えたのね」また、話が逸れた。
「汽車が雪で遅れてしまったんです」逸れたことは分かったけど、素直に答えた。
「私、どうしようかと思っていたの。そしたら、ツトム君が帰って来たの。頼むしかないと思ったのよ」まるで、理由になっていない。
「けど、僕は、来年、大学入試やし」断る理由を見付けた。
「指輪を落とした人は、ツトム君と関わりがあるかもしれないのよ」
「僕と関わりがあるんですか」
「それは、誰と、どこで関わり合うか、分からないもの」
それは、一般論だろ。
「もっと、分かりやすく説明してください」
「そうねぇ、例えば、もう私と変な関わり合いになってるわよね」今まで、こんなに体臭を感じるほど間近で女性と喋ったことは無い。
もちろん、女性に両手を握られたことも無い。
「だから。サキちゃんにも、ツトム君と私が一緒だったこと口止めしないといけないわね」東京の子は柔らかく、でも脅すように云う。
「変な事を言われることになっているんですか」努は気が動転し、かなり心配になっていた。
「時間はかかっても構わないから。また来たときに、分かった事、教えてちょうだいね」
「どうやって探したらええんかなぁ」努は覚悟を決めかねていた。
「分からないわ。だから、探してってお願いしているのよ」
「困ったな」
「お願い。ねぇ」東京の子は、念押しするのだった。
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