一章 1.粉雪
「うっ。寒ぅ!」
努は、駅舎から出ようとして、思わず唸った。
「ほんまに寒いなあ」すぐ隣で、応えるように声が聞こえた。
見ると、四十年配の男が、駅前の広場を見ていた。
「学生さんは、西通の内藤さんとこの子やろ?」努は、その男を知らない。
「はい」努は、相手を知らない。しかし、相手が努を知っていることはよくある。
ただ、これは、努に限った事では無い。
「後妻さんに行った。ええっと名前、何ちゅうんやったかな?」
「はい。静おばあさんですか?」
「ああ、そうやったかな。内藤さんとこは、男の子が居らんかったしな。それで、静さんが後妻さんに嫁いだ先の子を内藤さんとこの養子にもろたんやったなあ。それやのに、嫁さんに行ってしもたんやなあ。なんちょったかのう?」
「秋山です。母は、秋山シゲノです」
「ああ、そうやったな。シゲちゃん。やったな。儂は、南原の米田ちゅうんや。ちゅうても南原は米田だらけやから分からんわのう」
「ええっと。あのう、内藤を知っているんですか?」
「おお、知っとるで。あんたん家、建てる時に儂も入っとったんや」
「そうですか」努は、後の会話に困った。
「ほな、行くわな。明日、早いけん。またな」米田という大工さんだと思うのだが、米田さんは、襟のフードを被って歩き始めた。
この風と雪の中を南原まで歩くのか?
努は、吹き荒れる粉雪の中を歩いて帰った。
傘を持っていなかった。
この地方は、雪が降っても滅多に積もることはない。
雨もそうだが、雪が降ってもすぐに止んでしまう。
そういう土地柄なのだ。
傘を持って出かけても、帰る頃には雨は止んでいる。無意識に軒先や傘立てに立掛ける。帰る時には忘れている。
だがら、努は、傘を持っていない。
小さい町なので、決まりきった道順を徒歩か自転車で移動する。置き忘れた傘もすぐに見つかる。
大抵は、書店か、友達の家だったりする。見つかっても、また、どこかに置き忘れる。
だから、努は、少々の雨や雪では、出かける時に傘を持たない。
しかし、今日は、傘を持っていたとしても、役に立たない。
ズボンの裾に雪が付いている。
目の前を勢いよく、風に乗った粉雪が真横に奔る。吹かれるまま奔って、風の形を見せている。幾つもの風の束になって奔っている。
雪の群れは、その先で渦を巻いている。
ずっと地面に落ちることはないように思える。
駅前旅館まで走った。
旅館の軒先で立ち止まった。
粉雪は、軒下で路面に落ちている。建物の際まで風に掃かれて吹き溜まっている。
努は、駅前通りを西に向かう。桃川橋を渡り古い商家を四辻まで進む。四つ角を北へ曲がり中町橋を渡ると、三叉路になっている。三叉路を斜めに横切り、自宅への道を急いでいた。
つい最近まで、この道を馬が通っていたのが嘘のようだ。
この何年かで、道はアスファルトで舗装され、側溝の蓋は石からコンクリートに変わった。
石になる前は、板だったそうだが、努は知らない。
道幅は狭いが、時々、自動車が走る。車に用心して、なるべく道の端を歩くようにしている。だから、側溝に敷いた四角いコンクリートの口蓋を踏んで歩くことになる。
この街に、母方の祖母の実家がある。
努は、二歳の時に父親の転勤で、この街に引越して来た。
父親の勤務地は隣の白亀市だった。建材製造会社の営業をしている。
今は、ちょっと偉くなって営業所の所長とか支店の部長で赴任することが多いようだ。
小学校二年生の春休みに父親は、転勤になった。
以来、父親は単身赴任している。帰って来るのはお盆と年末くらいだった。
それから、何度か転勤しているのだが、ずっと単身赴任だ。
今では、年末に帰って来て、明けて三日には勤務地に戻って行く。
努は、粉雪の中を歩いて帰っている。
途中に、古びた一軒の映画館がある。
側溝の溝蓋の上を暫く歩いて行くと、映画館が見えてくる。
映画館の角から裏路地に続く横道がある。
その横道の入り口に、壊れかけて揺らぐ側溝の溝蓋がある。
壊れかけたものは、時々、新しいものに取り換えられている。だが、全部が取り換えられる事はない。
最近は、その溝蓋の上に立って、身体を揺することが多い。
石でできていた頃は、怖くてできなかった。
壊れかけた上に立って揺するのは、何時の頃からか、努の帰宅時の癖になっていた。
その横道の入口付近に誰かが立っている。
「誰やろ?」吹雪で良く見えない。
「誰やろか?」努は邪魔されるというのは少し違うかもしれない。恥ずかしいとも思うが、楽しみを奪われたような気がする。
映画館に近づいた。
「女の子かな?誰やろ」身体つきから女性だろうと思った。
「ああっ。あの蓋の上で立っとるな」壊れかけた溝蓋の上に立っている。
女の人の顔もはっきりと判った。この辺りでは見かけない女の人だった。
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