夕暮れの記憶
真島 タカシ
一章 脱出
「早く出てください」
お侍さんが早口で云います。
見上げると。大変です。
お侍さんの後ろで物凄い形相の侍が刀を上段に構えています。
振り下ろしました。
「あっ!」おもんは、咄嗟に叫びました。
次の瞬間。
刃が真っ直ぐに光ったのです。
お侍さん目掛け刃が唸りました。
肩を翻し、鞘ごと刀をおもんの前に翳しました。
お侍さんは刃をしっかり受け止めています。
「えい」
一気に鞘を払って地侍の肩口へ掛け声とともに刀を打ち込みました。
刀の鞘は、深く抉られています。
牢屋敷を出て、堀端を通り東口の石橋を渡ったのです。
粉雪が降っていました。
桃川の土手を通って、浜町を抜け、河口に架かる浄土橋を渡り、北山の山道を北崖へ向かいました。西崖を通って嶽下の見張台まで進むと、突然、駕籠が止まったのです。
駕籠が乱暴に降ろされました。
走り寄って来たお侍さんが、駕籠を縛った縄を解いたのです。
駕籠担きが、上蓋の籠を抜き取りました。
その時、お侍さんが早口で云ったのでした。
「早く出てください」
先導していたお侍さんが走り寄って、駕籠から出るように急かすのです。
睨み付けるように、おもんを見ていました。
その時、襲われたのでした。
身形からすると地侍のようです。
倒れた地侍を見ても、血は流れていません。
おもんは戸惑ってお侍さんを見ていました。
「早く出てください。早く」
お侍さんは、動こうとしないおもんを見て驚くと、また云ったのでした。
でも、お侍さんは、出ろと云っていますが、いくら竹籠の蓋が開いたからといって、跨いで出るには、突き出た竹の柵は高過ぎるのです。
どうして気付いてもらえないのか、思い遣りの無いお侍さんを恨めしく思ったのです。
でも、じっとしていると、またお侍さんに叱られます。
身体ごと竹の柵に圧し掛かると駕籠を横倒しに這出したのです。
おもんが駕籠から出ると、駕籠担きは竹籠の柵に上蓋を被せ、縄を元どおり縛り、空の駕籠を担いで、また西に向かって急いで行きました。
嶽下の刑場まで空の駕籠を担いで行くのでしょうか?
嶽下の刑場で処刑されることは年に一度あるか無いかだそうです。女が処刑された事は一度も無いそうです。
それなのに、おもんは、今から刑場で処刑されることになってしまったのです。
このような事態になるとは思ってもいませんでした。
これは、直紀爺さんでも直満伯父さんでもない、誰か悪党一味の仕業です。
絶対にそうに違いありません。おもんを陥れた悪党一味が仕掛けたものです。
やっと状況が呑み込めた気がします。
確かにそうだと思うのですが、今は考えている場合ではありません。
お侍さんが、おもんを睨んでいるのですからです。
お侍さんは、辺りを警戒しているようです。
遠くで馬の嘶きが聞こえます。
「早いな」お侍さんが呟きました。
まだ、悪党一味が追いかけて来ているのでしょうか。
強い風が吹いています。
海岸道を駆けて来る馬が何頭も見えてきました。
「鹿角神社を知っていますね?」お侍さんが早口で尋ねています。
おもんは頷きました。
その時、気付きました。
三頭。いいえその後からもう一頭の馬で侍達が近づいて来ました。
「神社の南に竹林があるのを知っていますね」お侍さんが尋ねました。
「いいえ」おもんは頭を横に振って答えました。
「鹿角神社の竹林ですよ」
お侍さんは驚いて質しました。
「いいえ。竹林は、東側です」おもんは訂正して云いました。
「えっ?ひがし」
お侍さんは意外そうに云いました。
「竹林は東側です。南側は松林です」おもんは松と竹の位置の違いを正したのです。
「分かりました。では、その東にある松林をずっと南に抜けると西慶院があります」お侍さんが云いました。焦っているのでしようが、慌てた様子はありません。
それにしても早口です。
地侍達に囲まれました。
馬上から目を怒らせて見ています。
「松と竹の林があるのに何故、梅の林は無いのでしょうか」おもんは、ふと、思ったまま云ってしまったのでした。
「それは」お侍さんは、考える様子でした。
「今、そんな事を言っている場合じゃないです」
お侍さんは、応えようとして気付いたのです。
おもんはお侍さんの目を見て、素直に頷いたのです。
「西慶院の東に畑があります。その奥に西慶院の小屋があります。あっ。待てよ。畑は西慶院の南だから、竹林は、やはり南ですよ」
お侍さんは勝ち誇ったように云いました。
「いいえ。竹林は鹿角神社の東から南に続いているのです」おもんがお侍さんに反論しました。
「今、そんな事を云っている場合ですか」
お侍さんが叱るように云いました。
「でも」おもんは反論しようとしたのですが、お侍さんの権幕に圧されて口籠りました。
それに、初めっから西慶院と云えば話が早いのに、どうして鹿角神社から話が始まるのだろう。
絶対、後で云い返してやろうと思いました。
「そこの小屋で待っていてください」
気を取り直すように、お侍さんが力強く、云いました。
その時、気付きました。
庄原の直紀爺の裏山で何度か見掛けたことのあるお侍さんです。
馬を降り、沢で顔を洗っている様子は、どこか童じみていると思っつていました。
馬から下りた地侍の一人が、刀を抜き斬りかかろうとしているのだと思います。たぶん。
腰を引いた地侍は、お尻を後ろに突き出すと、両腕をまっすぐ前へ伸ばし、刀を右へ、左へ、お祓いでもしているかのようです。
馬上の地侍がその横から斬りかかりました。
お侍さんは、それより早く地侍の腰を刀で打ち据えていました。
地侍は、落馬するとその場に倒れ込み、馬は奔り去りました。
お祓いの地侍は、見ると頭を押さえて呻いています。
「忝ない」
お侍さんは、近くの木の上に向かって礼を云いました。
見ると先ほど西に向かった駕籠担きの二人が木に登っていました。
どうやら石の礫を地侍に向かって投げて、見事に当たったようです。
「石投げ。なんと卑怯な」おもんは、つい云ってしまいました。
「そんな事を」
お侍さんは吃と睨みました。
「言っている場合じゃないですね」叱られる前に、そう云ってやりました。
「早く。先に行って下さい」
今見ると、ちょっと、頼もしいと思いました。
お侍さんが、おもんを見て頷きました。
あと一人、馬上の地侍と対峙しています。
おもんは、暫くお侍さんを見ていました。
また、お侍さんの舌打ちが聞こえてきそうなので、その場を離れました。
考えている余裕はありません。
顔を上げて歩き始めました。
崖道を選んで西崖まで一気に歩きました。
何が起こっているのか分かりません。
しかし、あのお侍さんを信じるしかありません。
強い風に、粉雪が吹き飛ばされています。
おもんは、雪の中、西崖から切嶽山の鹿角神社を目指して、歩き始めました。
目の前に、幾筋もの雪の筋が勢いよく吹き飛んでいます。
その先で粉雪は風を失って流れています。
おもんは、歩みを速めました。
その時、雪の束がものすごい勢いで、おもんにぶつかって来ました。
「うっ。寒ぃ!」思わず唸っていました。
吹き荒ぶ雪の束を直に受けて、左の耳が痛い。
千切れたと思い、慌てて耳に手を当てると耳は付いていました。
おもんは、暫く動けませんでした。
頭巾が用意されていないのに不満を感じました。
あのお侍さんに文句を云わないと。
しかし、立ち止まってはいられません。
おもんは、渦を巻く粉雪の中を足早に歩き続けました。
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