第166話 少しでも追いつくために
これは過去の記憶。
わたしがまだこの王都のペンテシア伯爵家の御屋敷で雇われる前の数ヶ月間の思い出。
アルレインの街には禁忌の森と呼ばれるところがある。
立ち入りこそ禁じられていない場所だけど、近隣に住むアルレインの住民は狩人以外決して侵入することのない土地。
周辺の森よりも強力な魔物が闊歩し、奥地にはさらに危険で刺激してはいけない魔物が潜んでいると噂される触れざる森。
その森の中でわたしはひたすらに走っていた。
遮る木々の枝を押しのける度傷が増える。
一切の整備されていない足場は悪くよく転んでしまう。
いままでの一切感じてこなかった死の気配。
不安と恐怖、徐々に追い詰められていく危機感。
呼吸は乱れ大粒の汗が首元を伝う。
息を切らせ泥だらけになりながら、必死に森を逃げ惑い、それでもわたしの後を確実につけてくる悪意の塊。
「ギャ! ギャ!」
ゴブリン。
初めて目撃した時は森の動物を仕留めてその場で解体している場面だった。
可愛さとは無縁の醜悪な子鬼。
緑の肌に人よりは小柄な体格。
でもその残虐性は命の奪い合いに無縁だったわたしには非常に辛いものだった。
ゴブリンの鋭く尖った歯が解体した獲物の肉を啜る。
両手と口元は血で赤く染まり、グチャグチャとしたなにかの咀嚼音が耳を不快にさせる。
悦楽に浸る瞳。
次の瞬間その瞳が木陰に隠れたわたしを、見つけた。
警戒に殺意が生まれる瞬間。
自分より弱い獲物を見つけた喜び。
わたしはその場で……吐いた。
あの光景はいまでも目に焼きついている。
殺意に溢れ喜色ばんだゴブリンの笑み。
緑の皮膚に滴り落ちる赤い鮮血。
食い散らかされた獲物の臓物の鮮明さまでも何もかも。
そのゴブリンが一心不乱に追いすがってくる。
「フ、【ファイアボール】!!」
逃げながら放つのは火魔法。
わたしの覚えた唯一の攻撃手段。
火の魔力を球体に形成し撃ち放つ。
「ギャッ!」
隙を窺った訳でもない正面からの迎撃は、案の定あっさりとかわされた。
迫るゴブリン。
吐く息は荒く、手には粗末な石の槍。
「アニス! 危ない!」
わたしの天成器。
右手に握った白銀の短杖フーラの危機を告げる叫び。
でも……到底避けられるものではなかった。
突き出された鋭利に尖った穂先。
わたしはここで――――。
「ヴゥッ…………」
石槍があと一歩まで迫る寸前、急に失速し目から光を失うゴブリン。
地面にバタリと音をたてて倒れる。
命が失われていた。
「アニス、また気を抜いたわね」
「お母さん……」
物陰から現れたのは普段の酒場で働く着飾った衣装とはまた違った、戦うための装束に身を包んだ母。
わたしと同じ赤く長い髪は動きやすいように後ろに流すようにまとめられていて日常とはまた違った印象を受ける。
「コーラル、アニスはまだ戦闘訓練を初めたばかりなのよ。もっと寛容に……」
その手に握られた大鎌から狙撃銃へと姿を変えたお母さんの天成器ヘレンがわたしを気遣ってくれる。
「駄目よ。アニス自身がクライ君に追いつきたいと願ったのだから無理は承知のはずだわ」
射抜くような厳しい瞳。
お母さんの言う通りだ。
誰でもない、わたしが選んだ。
故郷であるこの街を飛び出していった幼馴染み。
狩人としてずっと側にいてくれると漠然と信じていた家族同然の男の子。
クライに追いつくためにいまの生活を捨ててもいいとわたしが願った。
「……ごめんなさい」
「……謝る必要はないわ。何が悪かったか自分でも分かっているわね」
「はい」
戦うことに関してお母さんは厳しい。
わたしがクライに追いつくため生き方を変えることを決意した時、その決断を両親に相談した。
お父さんは泣き叫び、反対にお母さんは真剣な瞳で頷き返した。
いま思えば過酷な道を選んだと思う。
アルレインの街でお父さんの酒場を手伝い暮らしていく日々。
平穏で温かい、時折酒場のお客さんにからかわれるくらいの暴力とは無縁な日常。
日常をすべてを捨てる決断だった。
だからこそお母さんはこの決断の過酷さを知っていてわたしに厳しく教えてくれている。
「解体を終わらせたら次の相手を探すわよ。……今度は風下に立つことを忘れないように。さっきのゴブリンは警戒を怠っていなかった。僅かな環境の変化に神経を尖らせていた。だからこそ襲撃者の貴女より先に気づいたのよ。戦闘経験の浅い貴女は戦い方を工夫する必要がある。常に考えなさい。自分にとってどれが最善で、どれが最悪なのかを」
「はい!」
返事は完結に素早く。
この戦闘訓練を行うにあたって取り決めてある決まり事の一つ。
でも……やっぱりお母さんは厳しくても優しい。
さっきのゴブリンへの銃撃といい、いまの助言といい、わたしを心から心配してくれている。
何度やっても慣れない苦手な解体を終わらせ次の相手を探す。
といってもこの禁忌の森には自分から探すまでもなく多くの魔物が生息している。
したがって探すのは一体で行動している逸れた魔物だ。
上手く奇襲をかければわたしでも勝てると見込める相手。
この訓練では自分の持っている手札で勝てる相手を探し打ち倒すことが求められている。
と、その前にステータスを確認しておかないと。
「【ステータスオープン】」
名前 アニス・クラックス
年齢 14
種族 人間 level8
クラス 治療士 level2
HP:456/500
SP:200/220
STR:14
VIT:11
INT:21
MND:21
DEX:24
AGI:12
スキル
火属性魔法 回復属性魔法 気配察知
天成器 フーラ
基本形態 短杖
階梯 第一階梯
EP︰300/300
エクストラスキル
格納 魔力増幅 念話
空中に浮かぶステータスの青白い表示を見て思う。
……つくづくわたしは戦うことに向いていないな、と。
体術など身体を動かすためのスキルは一切ない。
火属性魔法こそあるものの、それもお母さんのスパルタな訓練でやっと使えるようになった《ファイアボール》の魔法一つのみ。
回復属性魔法のスキルはクラス取得の際に手に入った星神様からの贈り物であってわたし自身の力ではない。
それでもわたしは鍛え続ける。
お母さんの課す試練を乗り越え先に進む。
それがわたしが日常を捨てても本当に望んだことだから。
クライから遅れること数ヶ月。
わたしはお母さんと共にアルレインの街を旅立った。
見送りに詰めかけてくれた多数の人々。
先に旅立ったシスタークローネこそいないけれど、わたしがこの街で関わってきた多くの人たち。
みんな優しくて他人の気持ちを推し量れる温かい人々。
別れの挨拶に胸が苦しくなる。
でも、それ以上に新しい土地に向かうことに高揚感を感じてしまっていた。
あんなにこの街が好きだと思っていたのに。
ずっとここで生活していくと思っていたのに。
わたしってこんなに薄情だったのかな。
人目も憚らず号泣し泣き崩れるお父さんを見ながら罪悪感に苛まれる。
でも、でもわたしは選んだんだ。
「みんな、集まってくれてありがとう。……わたし、行くね! いままでありがとうございました!!」
深く頭を下げ、見送りの拍手に後ろ髪を引かれながらも故郷を旅立つ。
目指す先に彼がいる。
たとえどれほど遠くてもきっと追いついてみせる。
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