第11話 これは不倫じゃない!

「アンジュ」

「ん……?」 

 誰だろうと顔を上げると、顔を布で覆った長身の男性がいた。

 すらっとした人で、異国の服を着て不思議と怖くない。

「助けに来た」

「誰? ゼスト様から誰も信じるなと言われたの」

「そうか。本当に素直だ」

 くぐもった声はどこかゼストを感じさせて、鼓動が早くなる。

 しかし、彼がアーネスト側の人間であれば、このまま誘拐される。

 アンジュは立ち上がり、首を振った。

「私、ここに居ます」

「ああ、合言葉か何かを教えておけばよかったな。まあ、とにかく行くぞ」

 甘い低音は耳朶をくすぐり、恐怖心を拭い去ってくれた。

 加えて、飲まず食わずで夜を迎えて、誰かにすがりたかったせいもある。

 男性から横抱きにされると、ふわりと爽やかな香りがした。

(ゼストと同じ香り)

 抵抗しないで胸に収まると、男は笑った。

「少しは抵抗しないのか?」

「だって、もう疲れたのです。静かに暮らしていたのに、牢に入れられるなど」

「そうか」

 寂し気な声が聞こえてきた。

 そしてそのままふわりと牢を抜けだして闇に紛れて、馬に乗らされる。

 後ろから抱えるように男性が乗ると体温を感じて余計に胸が跳ねた。

「あそこへ行くしか、ないんだがな」

「あそこ……?」

 アンジュが首を傾げていると、湖畔に向かって馬は走り出す。

(塔? そういえば、私のものはもうないし、逃げるところもないんだわ)

 ロイナー国に逃げれば、それこそ大事になるし、宮廷から出れば放浪の旅の始まりだ。

 しかし、そんな旅をアンジュが出来るとは思えない。

 結局、塔に逆戻り、というわけだ。

 湖畔の塔に着くと、馬から降ろされてアンジュはお礼を言った。

「ありがとうございます」

「まだわからないか?」

「え、ええ」

 救世主のように現れた男性に胸を鳴らすばかりで、頭は回らない。

 ゼストに似ているせいで、余計に心が躍ってしまう。

「俺だ」

 顔を覆う布が剥がれると、そこにはゼストがいる。

「え……?」

「全く、声で分かるだろう? 俺だと」

「あの……ええ、確かに。でも、怖くて」

 アンジュは苦笑いを浮かべながら、一瞬でもときめいてしまったことが恥ずかしい。

 それどころか、このまま連れ去られたらどうだろうとすら考えていた。

(ゼストに似ているから、余計なこと沢山考えたわ)

「顔を隠すと、わりと素直なことを言ってくれるな、俺のことも信じてくれた」

「それは……。命が掛かっておりますから」

「そうだな。塔に入ろう」

 言われて手を引かれると、アンジュは頬を染め上げた。

 今なら自分の気持ちがはっきりと分かる。

 ゼストを好きだと。

 彼の家庭の事情も分かってしまい、余計に彼をどうにかしたいと思えてしまった。

 でも、それは奢りだ。

(これは、ふ・り・ん! 不倫よ、アンジュ。どんな悲しい理由があろうと)

 自分に言い聞かせて、塔の最上階の部屋に着くと抱きしめられてしまう。

 体温を身体中に感じて、頭を丁寧に撫でられた。

「よかった。心配だった」

「だって、夜には来るつもりだったのでしょう?」

 渇いた喉で話すと、ゼストが泣きそうな顔をして、すぐに持ってきた水を差し出してくれる。

 受け取り喉を潤すと、気持ちが楽になっていった。

 お腹もぐるるっと鳴って、恐怖心も拭われる。

「いや、衛兵がひとり牢の前にいたろう? 懐柔するのに手こずったし、セイからアーネストの動向を聞いて、手間取っていた。もはや小さな戦争だ」

「アーネスト様と?」

「そうだ。相手は俺より頭が切れる。男に生まれていたら、この世を滅ぼしたかもしれない。恐ろしい女だ」

「言い過ぎでは?」

「とにかく、今後俺とセイ以外の人間に心を許すな」

 アンジュはぎこちなく頷いた。

 引きこもり生活からの不倫からの、軟禁からの牢屋に閉じ込められて――。

 サバイバルな人生を送り始めたことに、アンジュは思わずくすっと笑った。

「ナンが聞いたら、きっと卒倒するわ」

 くすくすと笑っていると、もう一度思い切り抱きしめられる。

「笑った顔も大好きだ!」

「えっ……え?」

 ぎゅっと抱きしめられてよくわからない思いになってしまう。

 こんなに愛されたこともないせいか、心地良さについつい身を委ねそうだ。

「それから、離婚が正式に受理される。すぐに結婚を進める手はずになっているから、今からドレスの用意をして欲しい」

「あ……の? アーネスト様の説得は?」

「そんなことをしているうちに殺される。即座にアーネストから王妃の座を退いてもらう」

「いえ……私、王妃になりたくないですが」

「俺と結婚は?」

「え? いえ……。不倫したとバレたくないので、このままこの塔で暮らす、ということで問題ありません」

「ダメに決まっているだろう! 最低最悪の王妃を引きずり下ろし、華々しく王妃になってこその幸せだ!」

「え……あ……。そういう趣味はなくて」

 アンジュがもじもじしているうちに、セイが現れた。

 ふたりは身体を離すと、セイがにこりと大量の書類を見せてくる。

 ゼストの前に書類の山を用意すると、彼はベッドをデスク代わりに何かサインを始めた。

「何をしているのですか?」

 セイに問うと、彼は静かに言った。

「アーネスト様との離婚の書類にサインをしております」

「でも、アーネスト様は許さないですよね?」

「彼女の不貞を理由に一方的に離婚に踏み切るのです。男娼と通じている、夫と身体の関係を拒む、別邸に籠っているなどなど、証拠は捏造も含めて揃えました」

(今、捏造って言わなかった?)

 顔をひくつかせながら、アンジュは黙々とサインをするゼストをじっと見つめた。

 結婚したいと言われ続けたが、自分から結婚したいとはまだ一度も言っていない。

「あの、ゼスト? 私、結婚するつもりはないわ」

「なんでだ? 離婚はもう目の前だ」

「だって、不倫しているって公言しているようなものだもの」

「処罰されない。大丈夫だ」

「だから良いってわけじゃなくて。あなたは私にもいずれ同じことをするの?」

「……」

 ゼストが困ったように振り向いた。

 アンジュは裏切りが嫌いだ。自分が加担していたことが許せないし、快楽に呑まれていたのも許していない。

 牢に閉じ込められて、やっぱり生きてゼストの『ような』人と恋が出来ればと思った。

 でも、助けられてまた自分が許せなくなった。

 アーネストは王妃の座を奪われ、代わりに自分が王妃になる。

 誰かを蹴落として幸せになることに、嫌悪感しかない。

「同じことを、するんでしょ?」

「するわけがない」

「でも、オーフィリア国では、不倫は一方的に女性が裁かれる。今、こうしてゼストが私との結婚を進められるのは、あなたが王であり、男だから裁かれることがないせいよ。アーネスト様と上手くいかないからってほったらかしに出来るなんて、冷淡よ」

「そうだとしても、俺はアンジュの傍にいたい」

「そう……」

 アンジュの気持ちはアーネストがいなくなっても、ゼストに近づくことが出来なかった。

 彼のしたことが、あまりに無謀でひとりよがりに見えたからだ。

 アーネストも同じように男娼と戯れていると言われたが、ゼストだって側室と戯れていた。

 何が不服なのかと、分からないのだ。

「とにかく、結婚は決定だ。そして、アーネストは……」

「アーネスト様は?」

「別邸にそのまま住んでもらう。いきなり母国に帰したら、ちょっと怖いからな」

 ゼストが顔を引きつらせた。

「つまり、国内に王妃さまと、前王妃さまがいるという泥沼の状況でございます」

 セイが説明すると、アンジュは目の前が真っ暗になった。

「改めて口にするなっ!」

「いえ、そうしないとゼスト様はアンジュ様のお気持ちがわからないかと」

 セイの冷淡な口調とは裏腹に、どこか血の通うような優しさがにじみ出る。

(思ったより、良い人とか……)

 アンジュがそう思ったのも束の間、セイは深いため息を吐いた。

「そうそう。アーネスト様が言っておられたのですが、明日のゴシップ記事に、アンジュ様は魔性の女だとあることないこと書かせるそうです。楽しみですね!」

 くらくらとアンジュは眩暈がした。

 とうとう、世間の認める『魔性の女』になってしまった。 

そして、側近のセイはこの状況を楽しんでいる。

(最低だわ)

 

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