第242話 もう必要ない

彼女の言う「会わせたい人」が一体誰のことなのか検討もつかなかったが、まずそれよりも先に言いたいことがあった。


「会わせたい人……?それはリティが着替えた後でもいいか?このままだと風邪引くぞ…」


「あぁ、そうね。ジャージにでも着替えてくるわ。待ってて」


「……ジャージ?」


聞き慣れない単語だけを残してリティはこの場を去ると、暫くして上下紺色のファスナーがついた服を着て戻ってきた。見たこともない服だった。


リティは俺の元へと走ってくると、嬉しそうに微笑んでくれる。


「おまたせ」


戻ってきた彼女の手には鞄も握られていた。そこからゴソゴソと何かを取り出すと、「見て」とこちらに向けて差し出してくる。


「…これは?」


「私が貴方を知るきっかけになった本よ」


リティの言葉で、全てを察する。

あぁ、これがあの小説……イサベルが主役の小説なのか。


ただの登場人物にすぎない俺が小説を読むなんて禁じられた行為なのではないかと不安になる。だが好奇心には勝てないので俺はゆっくりと表紙を捲った。


だが、そこですぐに異変に気づき、俺は呆然と本を見つめる。リティは思っていた反応と違うことを不審に思い、不思議そうにこちらを覗き込んできた。そして「えっ?」と声をあげる。


「何これ……白紙じゃない、一体どうして……」


本は表紙やタイトルこそ書かれていたものの、最初の一ページから後は全て白紙となっていた。文字が書かれていた形跡すらどこにもなかったのである。


仕方なく本を閉じると、タイトルの文字が、表紙の絵が少しずつ消えていく。誰も魔法を使っていないはずなのに、ただそうなるのが当然であるかのように、消えていった。


「そんな……アレクに見せようとしたからかしら……」


「いや……この小説はもう必要がなくなったんだろ」


「…え?」


「この決められたストーリーだけを繰り返す世界に、悪役令嬢ではないリティが現れ、皆の行動が大きく変わった。悪役としてリティが殺されることも、誰かを傷つけることもなくなった。…この小説は最早どこにも存在しない物語なんだ。」


もしかしたら、この小説は、悲しい悪役令嬢の人生を救ってくれる誰かを呼ぶために書かれたものなのかもしれない。リティが現れた今、必要がなくなるのは当然のことだ。


「きっと悪役としてのリティシア=ブロンドはもういらないんだ。存在する必要がないから消えた。ただそれだけだと俺は思う」


「……それってなんだか…私はあの世界にいてもいいんだって言ってるみたいね」


リティは本を見つめ、小さな声でそう呟く。


「みたいも何も…そうだろ?」


リティは視線をあげると、俺を驚いたように見つめた。


やはり彼女は、いつも自分はどこか違うと考えていたのだろう。小説の世界にはいない、異質な現実の存在。しかし俺にとってもグレンやイサベルにとってもリティはリティで、何も変わらない。


「存在してはならない人間なんてどこにもいない。それは例え世界が違っても同じことだ」


「…リティシアは?」


「…え?」


「私じゃなくて、本物のリティシアも、存在してもいいの?さっき貴方は存在する必要がなくなったと言っていたけど…」


リティは少しだけ、本物のリティシアに同情しているような視線をこちらに投げかけていた。俺の意図したことと少し異なって伝わっていたようなので、俺は少し考えると、こう言葉を返した。


「悪役としてのリティシアが必要ないと言っただけで、本物のリティシアが必要ないという意味じゃない。イサベルを引き立てる悪役になる必要がないと言いたかったんだ」


「…なるほどね、貴方らしいわ」


彼女はそう言うと本を鞄にそっとしまった。


悪役令嬢という立ち位置を割り振られていなければ、リティシア嬢は普通の人物として描かれていたのだろうか。


まぁ、仮にそうだったとしても、彼女を愛すことは恐らくなかっただろう。

そんな気がした。


「そうだ、俺に会わせたい人って…誰なんだ?」


ふと思い出したのでそう問うてみると、リティは「あっ」と口元に手を当てる。そして真剣な眼差しでゆっくりと呟いた。


「会わせたい人は……私のお母さんよ」


俺から視線を外すと、どこか遠く、遥か彼方を眺めるような眼差しで、彼女は語る。


「ワインが好きですぐ酔っ払って、服や床にこぼしちゃうどうしようもない人なんだけどね。」


そして彼女は、こちらに視線を合わせる。


「私の大切な人なの。会ってくれる?」


「……リティの、お母様か。勿論、俺も会ってみたい。」


「そう思ってくれるならよかった。お母さんはね、とびきり優しいわけでも、厳しいわけでもないの。ただ普通に私を育ててくれた人。それと……愛してくれたわけでもないわね」


その言葉には違和感を感じたが、俺は特に何も言わなかった。彼女は長い睫毛を伏せる。リティシアの姿をしていない彼女も、可愛らしい顔立ちをしていた。


「でもやっぱり、最後に会いたい。いいわよね、それくらい」


「最後」という言葉に、俺はなんとも言えない気分になるのを感じた。


「いいけど…本当にいいのか?最後で」


「…?どういうこと?」


「ここまで迎えに来た俺が言うのもなんだけど…本来リティが生きるのはこの世界なんだ。無理に帰る必要はないんだよ」

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