第240話 望むのは

「…え?いきなり何を……あっ、もしかして私と同じ小説のファンですか?」


「……ファン?いや、違う。でも…そうだよな。突然言われても何がなんだか分からないよな。ごめん」


「……はい。正直、全く分かりません。その名前自体は…勿論知っていますよ。ですがその人は……実在しない人物なんです。この世にいるはずがありません」


「この世にいない」、そう断言した彼女は俺を不審そうに見つめる。


この世にいない人間が突然目の前に現れて君を迎えに来たと言われても普通に考えて恐怖以外の何物でもない。


幸い、彼女が俺を見つめる眼差しに恐怖は混ざっていなかったものの、混乱と不信感が浮かんでいた。


「……そうだな。俺は、本来ならばこの世界には存在しない。君の言う通りだ。」


「では貴方は一体何者なんですか?私を助けてくれたし、悪い人ではなさそうですが……」


「あぁ。君に危害を加えるつもりはない。勿論、他の人にも。」


「じゃぁ……一体何が目的でそんなことを言うんですか?突然小説の登場人物だと言い張るなんて…最早信じさせる気が全くない冗談ですよ」


俺が彼女を騙そうとしていると勘違いしたのか、瞳に敵意が宿るのを感じた。記憶がないとはいえ、冷たい瞳で見つめられると心が強く傷んだ。彼女は再び言葉を続ける。


「小説とは違う道を進んでいる?貴方が私の大好きなキャラクター?一体何の冗談ですか?この私をからかっているんです?」


「違う。本当なんだ。……嘘みたいな話だけど」


「……貴方が本当に私の好きなキャラクターだとしたら、私の前に現れる意味が分かりません。貴方にはイサベルという可愛い女主人公がいるんですから。アレクは浮気をするような人じゃないんですよ」


「…浮気なんかじゃないし、そもそもイサベルのことは……」


「好きじゃないと…そう言いたいんですね?そんなのおかしいです。私が好きなのはイサベルにどこまでも優しくて、一途な男主人公。他の女に目を向けている時点で、貴方はやっぱりアレクなんかじゃない」


彼女の冷たい瞳は、ますます凍りついていき、最早敵意を隠していない。好きなキャラクターへの侮辱だと捉えられてしまっているのかもしれない。


…どうすれば彼女に俺がここに来た意味を伝えられるのか、正直、検討もつかなかった。


彼女が俺と話しているのは一応自分を助けてくれた相手だから、というだけでそれ以上の意味は一切ないのだろう。全く俺に気づいていないようだ。というか記憶が蘇る気配がない。


完全に……消滅してしまったのか?


そもそも彼女は望んでこちらの…小説の世界に来たわけではないはずだ。望んでいない世界で作られた記憶など無意識的に消し去っていてもおかしくはない。


「……なんとか言ったらどうなん……」


「リティ。君は……お前は、俺の婚約者だった。」


「……え?」


彼女の瞳が驚きで大きく見開かれる。


もう、彼女の世界に俺が存在していなかったとしても……折角会えたんだ。後悔はしないように自分の気持ちを伝えよう。例え彼女に届かなくても。


「俺の婚約者であったリティシア嬢は、傲慢で…人の嫌がることをして楽しむような人間だったと思う。だがある日突然、リティシア嬢が変わった。態度こそ以前とあまり変わっていなかったが、何かが明らかに違った。彼女は自分のためにではなく、誰かのために動くようになってたんだ」


「……リティシアが…変わった?そんな描写は小説にはなかった。貴方は一体何の話をしているの……?それに私はリティじゃないし、貴方の婚約者でもないわ……」


「……自分が悪役になってでも誰かのために動こうとするお前の姿に、俺はいつしか惹かれていた。初めは婚約者だからと会っていたはずなのに……気づいたら自分から望んで会うようになっていた。」


「リティシアが誰かのために動くなんて……ありえない。ありえないのに」


彼女は困惑したように言葉を続ける。最早敵意など宿ってはいなかった。


「…私、その話を知ってる気がする……どうして…?」


心の奥底に記憶が残っていたのかもしれない。彼女がたった一人で異世界に飛ばされ、悪役令嬢として生きようとしたあの日々が…もしかしたら、どこかにあるのかもしれない。


俺は完全に消えてはいなかったと少しホッとする。そして彼女を真っ直ぐ見つめた。


「……帰って来なくてもいい。あの頃の出来事が全部俺だけの思い出になってもいいんだ。でもこれだけは覚えていてくれ。俺はお前を…」


彼女が混乱したような眼差しをこちらに向けてくる。嘘じゃない、でも本当にも思えない、理解できないが、理解できそう。そんな不思議な感情を抱えているようであった。


俺はそんな彼女を見据えて、言葉を続けた。これが、俺の本心。一番彼女に伝えたかったことだ。


「どこにいても……愛してるから。」


本来彼女がいる世界はここだ。何故記憶を失ったのかは分からないが、ただの俺の我儘で連れ出すわけにはいかない。


…後悔はない。これでいいんだ。

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