第236話 彼女の過去

「残念ね、私はこんなことで折れるような性格じゃないの。さぁ。水は受けてあげたから早くお金を返しなさい」


「は、はぁ?あんたおかしいよ、他人のためにそこまで…」


強気だった女子も、私の依然として変わらぬ態度に、流石に動揺を隠せないようであった。隣の彼女は本当にこんなことをしていいのかと不安気に表情を曇らせている。


強気なリーダー女子に無理やり連れられているのだろうが、結局本気で止めようとしていないのだから同類と変わらない。


こういう中途半端な人がいるから嫌がらせというものがなくならないのよね。それはおかしいと全員で言えば嫌がらせなんて簡単になくなるに決まっているのに。


…まぁ、そう上手くはいかないわよね。知ってるわ。それができるならこんなことをする人は現れないもの。


「…悪人のせいで善人が苦しむ姿なんて私は見たくないの。分かったら早く反省しなさい」


この子さえ自分の行いを反省してくれれば、周りの子もそれに従ってもうこんなことをしなくなるはずだ。そう思い、私は彼女の瞳を見つめる。


濡れた髪や服のせいで身体が重く、すぐにでも着替えたかったが、その前にここで彼女と決着をつけなければならない。


「反省なんてしない!どうせお前はパパやママに愛されて生きてきたんだろ!!だからそんな風に善人面ができるんだ!!」


突然張り上げられた大声に、辺りが静まり返る。隣に立つ女子も驚いており、目を見開いて彼女を見つめていた。


私も同様に驚き、そこで気づいた。彼女から感じられるものに怒りだけではなく、悲しみも混ざっていることに。


私は一旦目を瞑り、ゆっくりと息を吐くと、目を開き、彼女を見つめた。


「…私に父親はいないわ」


「…え」


彼女の視線が、怒りと悲しみから、戸惑いの表情へと変わった。私のこの返しは随分と予想外だったようだ。


…先生以外、誰にも言っていない話だから彼女達が知らないのは当然のことである。私は少しだけ過去の話を思い出すことに決めた。


「……幼い頃に死んでしまったから私は母親一人に育てられてきた。私は父親というものを知らない」


「そ、それでもママに大事に育てられたいい子ちゃんなんだろ!?」


「……お母さんはワインが好きで休みの日は行きつけのお店に通ってそればかり飲んでいたし、平日私が学校から家に帰っても仕事でいない。一人の時間の方がずっと多かったわ。私はとてもじゃないけど愛されて育った子供とは言えないわね」


私は確かに愛されない子供だった。友達はいない。お母さんと過ごす時間も少ない。でも私には心の拠り所があった。


「でも私には大好きな小説のキャラがいたから。その人みたいになりたいと思った。その人が好きでいてくれるような人になりたかった。それだけよ」


彼がいなければ今の私はいない。…まぁ現実の人間じゃないのだから彼は元々いないに等しいけど、でも私はもう会った事があるような気がするの。


…小説の読みすぎで夢と現実の区別がつかなくなったのかもしれないわね。


とにかく私が言いたいのは、愛されなかった子供は、誰かを愛すことができないとは言いきれないということ。


「無条件で愛されるわけがない。誰かに愛されたいならもっと人に優しくなりなさい。何かを与えてほしいなら、まずは自分から与えるのよ。反抗ばかりしてたら親御さんもいずれ貴女を見放してしまうわ」


リティシアの両親みたいに、悪役令嬢と呼ばれ、挙げ句に憎まれながら死んでいっても、それでも娘を心から愛してくれる人もいるけど、それはすごく稀なことよ。


やっぱり誰かから愛されたいなら愛さなければいけない。私はそう思う。


「うるさい……うるさい!!私に説教するな!」


耳を塞ぎ、現実から目を背けるように彼女は強く首を横に振る。彼女にも彼女なりの過去があるのだろうが、過去が酷いものだからといって誰かを傷つけていい理由には決してならない。


…もし、私がイサベルで、いじめているのがこの子じゃなくてリティシアだったら……アレクが私を助けてくれるのにな。


…なんてね。助けてもらうほど弱くもないのに何を言っているのかしらね。私はイサベルみたいに……護ってもらえるような可愛い女の子でもないのに。


「もう一度水をかけてやる!反省するまで何度でもね!後悔しても遅いんだから!…ねぇ、聞こえてる!?早く水をくんできなさ……」


彼女は感情が高ぶり、止めようとする隣の女子の手を強く振り払うとバケツを持つ仲間に向けて声をあげる。まもなくして頭上から水が振ってきた。


二度目のずぶ濡れ状態を覚悟したのだが、その水は何故か私には一切かからず、女子二人にのみ降り注いだ。


「ぎゃぁっっ!?なによこれ、びしょ濡れじゃない!」


「……ね、ねぇ」


「何よ!あんたももっと怒りなさいよ!びしょ濡れにされたってのに……もう!手元が狂いすぎよ!」


「ねぇ今……何もないところから水が出てこなかった?私ちゃんと見てたんだけど、バケツなんてどこにもなかったよ」


「バカ言わないでよ、バケツがなかったらどうやって水を落とすっていうの?」


彼女は「あー、もう最悪……」とさっき私がしたようにスカートの裾を絞っている。別に私がしたことではないがいい気味だと思った。


それにしても……確かに私の目にも何もない空間から水が現れたように見えた。

あれは一体……?


「お前達、そこで何をしているんだ?」


唐突に聞こえたその声に、私達は弾かれたようにそちらを向く。手をこちらに向け、怒りの表情を浮かべる…どこか懐かしい青年がそこにいた。

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