第11話

「あ、もうこんな時間!ご、ごめんなさい、長居しすぎちゃった…」


 窓から伸びる影がずいぶんと長くなっているのを見て、ぎょっとする。

 サトリさんは不夜城の主だなんて言われるくらい忙しい人だし、私だって自分の仕事をしなければならないから、本来ならもっと早くに切り上げる予定だったのに、楽しくてつい話し込んでしまった。


 ど、どうしよう…、午後からは誰のお手伝いだったっけ…?


 村では全員が何かしらの仕事に従事しているけど、卸用の衣服作製を除いて私とメイが専門に担当しているものはまだなく、主にみんなのお手伝いをしている。

 ただ、お手伝いと言っても主導ではないというだけで、作業員としてはしっかりと数えられているので、当然仕事をしなければ作業は滞るし、そればかりか、滞った分のフォローで当事者以外の人達にも迷惑をかけてしまいかねない。

 というわけで大いに狼狽えていたんだけど、サトリさんは別段気にした様子もなく、慌てる私を見てクスリと微笑んだ。


「あら、そんなことは気にしなくても大丈夫よ。報告も大事な仕事の一環だし、何より大都から帰ってすぐですもの。流石に夕方までは仕事は入れていないわ」

「ホント?それならよかったぁ…」

「いや、よくないよ!?ソラちゃん、深夜からずっと歩き通しだったのに、逆になんで夕方からお仕事が入ってるの!?鬼なの!?ソラちゃんも普通に受け入れないで!?もっとお休みを要求してもいいんだよ!?」


 ホッと胸をなで下ろす私の隣で、メイがクワッと目を見開く。

 といっても途中でちょくちょく休憩はしているし、お陰で今も特に疲れているわけでもないから、仕事をするのに支障はない。

 むしろこの状況でお休みなんてもらったら、逆に罪悪感を覚えてしまいそうなくらいである。

 なので、大丈夫だよという意味も込めて首を傾げると、そのまま頭を抱えてしまった。


「それに、この後は仕事と同じくらい大事な案件があるのだから、まだここにいてくれないと困るわ」

「え?」


 しかしそれもつかの間のことで、そう何気なく続けられたサトリさんの言葉に今度は目を瞬いてしまう。


 大事な案件?あれ、何かあったっけ…?


「わーい、待ってました!」


 一体何のことだろうとまた首を傾げる私の一方で、サトリさんがにこりと微笑み、直前まで頭を抱えていたはずのメイまでもが、まるでお菓子を前にしたときのように顔を輝かせ始める。

 そんな二人の様子から察するに、どうやら悪い話が始まるわけではないらしい。

 けれど。


 ……。

 な、なんでだろう、何かすごく嫌な予感が…。


 何故か安心感はまったくなく、それどころか本能的に何かを感じ取って段々と不安感が募っていく。


「失礼します」


 と、突如として怪しくなってきた雲行きにいささか戸惑っていると、再びチアキさんが入ってきた。


「ご主人様、お持ち致しました」

「ええ、ありがとう」

「さっすが、チアキ!タイミングばっちしだよ!」

「え…」


 そしてチアキさんが手にしているものを見た瞬間、うっと今度こそハッキリ怯んでしまった。

 というのもその手には、ブラシやタオル、それに髪のつや出しに使う油や、他にも用途のよく分からないものが多数入った箱があったから。

 いわゆる、化粧品と呼ばれる品々である。


 では何故それを見て怯んでいるのかといえば、実は私は化粧が大の苦手なのだった。

 だって化粧をすると、たとえば何かを食べたり飲んだりするときなど、何気ない行動の度に落ちないよう気をつけないといけないのである。

 特に一番の楽しみである食事に集中できなくなるのはとても困る。

 それに汗をかいたときにもなんだかベタベタして気持ち悪いし、何より視線が集まるようになるので、自分では絶対にしない。

 前に一度だけ化粧をして大都に行ったときなんて、自意識過剰ではなく、本当に道行く人という人が振り返ってきたために、その間ずっと冷や汗を流し続けていたことは未だ記憶に新しい。

 おそらく、私と化粧は相性がよくないのだろう。

 人見知りの私にとって、視線を集めるということは恐怖以外の何ものでもなかった。


 そもそも化粧なんて、一体誰が考え出したのだろうか。

 そういうのは貴族みたいな偉い人達がするものであって、私達のような平民が無理に真似しなくてもいいのではないだろうか。

 もっとありのままの自分を大切にした方がいいのではないだろうか…。


 しかし悲しいことに、そんな考えを持つ人間は皆無に近いごく少数派であり、品質にこだわりさえしなければ、化粧品となる材料は身近で難なく手に入ってしまうことも相まって、アリガルースに限らず大陸全土におけるあらゆる階級の女性が化粧を自ら進んで行い、挙げ句には「女性の化粧は身だしなみの一環」などという恐ろしい常識までもが出来上がっていた。

 そして悪いことに、サトリさんとメイは中でも化粧への関心が非常に高い、つまるところお洒落が大好きな人達なのである。

 …お洒落が苦手な私にまで飛び火するほどに。


 こ、これは危険な流れだ…!


 ツツーッと頬に冷たい汗が伝う。

 この時点で、嫌な予感はほぼ確信に変わっていた。


「あ、あの…」

「二日間も私達の目がなくなるからと心配していたのだけれど、案の定まったく手入れをしていないわね…」

「ああ…、ほんのりくせ毛でふわふわと輝くようなソラちゃんの髪がちょっとパサついてる…!もうっ、また髪を洗ったあとブラシでとくこともしないで、そのままほったらかしにしてたでしょ!?」


 狼狽える私を余所に、いつの間にか後ろに回り込んでいた二人が、髪に手を入れながら実に悲しそうな顔でため息をつく。


 や、やっぱり…!二人とも私を化粧する気だ…っ!

 ……。

 …あれ?もしかして、二人が心配してたのってこっち…?


 ここは仕事の方は心配されなくてよかったと喜ぶべきなのか、仕事の可否そっちのけでお洒落を心配する二人の熱意に恐れおののくべきなのか、いささか複雑な気持ちになりつつも、とにかく大急ぎでこの場から逃げ出す算段を立てる。


「え、ええと、その…、私、お父さんと一緒に家の整理をしないといけないから…」

「もちろんルーフゥからは、今日は家の手伝いはいいからゆっくり休んで欲しい、との返事をもらっているわ」


 しかし咄嗟に口をついて出た言い訳は、微笑みとともに一瞬でバッサリと切り捨てられてしまった。


 だ、だよね…。


 ルーフゥというのは私のお父さんの名前。

 自分で言っておいてなんだけど、確かにお父さんならそう言ってくれるに違いない。

 きっと今頃もお母さんの作品達と真剣な顔でにらめっこしているであろう姿が思い浮かんできて、こんな状況にも関わらずちょっとほっこりしてしまう。


 って、今はそれどころじゃなくて、何か他に用事を作らないと…!

 ええと…ええと…、あ、そうだっ!

 そういえば、マリナさんにお菓子の感想を求められてたよね…!

 でもそれだけだと弱いから、あとは…。


 ここで何も思いつかなければ、待っているのは化粧を施されるという悪夢の未来だけ。

 なので慌てて頭を戻し、必死に考えを巡らせる。


 ただ、焦るあまり、このときの私は一つ大事なことを失念していた。


「それと、マリナからもお菓子の感想は明日でいいとの回答をもらっているし、他の皆も急ぎの仕事は特にないわ。つまり今、この案件以上に優先されるべきことはないということね」

「……」


 そもそも村のあらゆる仕事を管理し、采配しているのがサトリさんなのである。

 私が用事を作ることなどできようはずもなく、逃げ道は即座にすべて塞がれてしまった。

 ちなみに、この村でサトリさんを言い負かすことができる人は誰もいない。

 それは高度な交渉術と鉄の胆力を併せ持つ商人のマリナさんですら例外ではなく、仮に私が村全体の仕事の管理をしていたとしても、やはり結果は変わらなかったことだろう。

 例えるなら、不意にドラゴンと遭遇してあれこれと頭を悩ませているようなもの。

 天災と同義のドラゴンを前に、人はあまりにも無力だった。


「分かってもらえたようね。さて、それでは始めてもいいかしら?」

「…はい」


 普段は安心感を覚える優しい笑顔が、見たことはないけど獲物を前にしたドラゴンのように思えてくる。

 怯える私へとチアキさんがいささか同情めいた目を向けてくるも、そこに一縷の希望を見出す間もなく、すぐに「頑張りなさい」と言うようにそっと目を逸らし、そのまま退室してしまった。


 あ、ああ…、私を置いていかないでチアキさん~…。


「うっふっふ!じゃあ、まずは髪を綺麗にするからね~…ってソラちゃん、髪染めもちゃんとしてないでしょ!生え際、地毛の銀髪がちょっと見えてるよ?」

「う…。で、でも、それくらいならまず見えないから、大丈夫だと思うんだけど…」


 未練がましくチアキさんが去って行った扉を見つめる私の後ろから、メイがジトッとした顔を覗かせてきたので、しどろもどろに申し開きをする。

 すると、はぁ…、とサトリさんそっくりの顔でため息をつかれてしまった。


 うぅ…。


 何故か、ものすごく悪いことをしてしまったかのような気持ちになってくる。


「いい、ソラちゃん。お洒落というのはね、見える見えないの問題じゃないの。自分を少しでも綺麗に可愛く仕上げようとする、その気持ちが大事なんだよ?たとえ見えないところでも、しっかり仕上がったという確信は自信として表に出てくるんだからね。お洒落はただの自己満足じゃなくて、自分をより高めるための自己管理の一つなんだよ」

「ご、ごめんなさい…」


 メイはお洒落のこととなると、普段の無邪気な雰囲気から一転し、たちまちこんな風にただならない熱意を見せ始める。

 その様相たるや、さながら己の技術に誇りを持った職人のようであり、身だしなみは清潔感さえ保っていればいい、という私の密やかな主張などとても言い出せるような雰囲気ではなく、ただ畏まってほとぼりが冷めるのを待つしかない。


「ミメイの言う通りよ。どうやらその辺りのことについて、貴女とも改めて話をした方が良さそうね」

「そ、そんな…」


 仕舞いにはまさかの、お説教まで追加されるという悲劇にも見舞われてしまう。

 踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことだろう。


 その後は息ぴったりの二人にブラシをかけられたり、髪や肌に何かを塗りたくられたりと、これでもかというくらい化粧をされた。

 さらには途中から着せ替え大会まで始まってしまい、とても楽しそうな二人の一方で、私の目から光が消えていったことは言うまでもない。


 そうして最後にはきっちりと忘れずにお説教もされて、大都に行った二日間以上の疲労感を覚えながら次の仕事へ。

 何とか終えた頃には、日はすっかりと傾き、空にはうっすらと闇が広がり始めていた。


「た、ただいま…」


 やたらとサラサラツヤツヤする髪や肌にものすごい違和感を覚えつつ、よろよろと玄関の戸を開く。

 単純に(精神的に)疲れたというのもあるけど、着慣れない服で歩きづらいという理由もあった。

 何故なら今私が着ているのは、二人お手製の服。

 元々着ていたものは、手直しするからと取り上げられてしまったのである。

 何度洗ってもほつれない頑丈さ、ゆったりとした着心地、たくさんのポケット、と機能的で私は気に入っていたんだけど、「世間ではそれを作業着って言うの!女の子の普段着じゃないの!」とのことで、きっと今頃は、何かヒラヒラした感じのものへと改造されていることだろう。

 張り切る二人の姿を思い出して、ガックリと肩が落ちてくる。


 作業着、便利なのに…。


「おかえり。おお、またずいぶんと綺麗になったなぁ…。ううん、最近のソラは、本当にますますララに似てきたね」


 家に入ると、すぐにお父さんが出迎えてくれた。

 変わり果てた私の姿に一瞬驚いたあと、眩しそうに目を細めて笑う。


「綺麗になんてなってないもん。こうなったのはお父さんのせいだもん」

「ええ…!?」


 でも私がぷいっとそっぽを向くと、途端に困ったように眉尻が下がった。

 完全に八つ当たりなのは分かっているんだけど、お父さんはいつも優しく構ってくれるから、ついこうして子供みたいな態度を取ってしまう。


「…なんて、冗談だよ。ごめんなさい」

「ははは。そういうところも、ララに似てきたなぁ」

「えへへ」


 とはいえ、もちろん本気で拗ねているわけではないし、それはお父さんも分かってくれているので、すぐにまた笑い合う。


 王都に行ったら、人見知りだけじゃなくて、こういうところも直さないとね。


 ただ、そんな風にして内心でちょっと反省していたものの、


「!こ、この匂いは…!?」


 不意にものすごくかぐわしい香りが鼻腔をくすぐってきたので、思わずカッと目を見開いてしまった。

 この魂を揺さぶるかの如く素晴らしい香りを、お肉料理が大好き、いや愛していると言っても過言ではない私が間違えるはずもない。

 十中十割で「兎肉の香草焼き」だろう。

 実は私は、香りを嗅げば何の肉かはもちろん、使っているハーブや香辛料の種類から調味料の分量に至るまで、すべてがたちどころに分かるという特技を持っていた。

 …といっても、お肉料理限定の特技なんだけど。


 それはさておき、兎肉の香草焼きと私達が呼ぶこの料理は、独特かつ刺激的な香りと味で舌を楽しませてくれる、どこかエキゾチックな雰囲気漂う逸品である。

 武器に例えるなら、曲剣。

 風変わりな形状を持ち、突きを捨てて斬ることに特化させた曲剣は、一見尖った武器のように思えるけど、その実、直剣と同じく使い手を選ばない。

 事実、香草焼きは、そのまま食べるのはもちろん、サンドイッチにしても美味しいし、スライスしてサラダに載せてもよし、刻んでパスタと絡めるのも捨てがたいという万能料理だった。


 しかもこの香りからして、もう完成しているに違いないっ…!


 そんなわけでギュンッと音がしそうな勢いで台所へと目を向ければ、想像したとおりのものが、実に美味しそうな湯気を纏いつつ、蠱惑的な焼き色にその身を輝かせていた。

 堪らず、きゅぅと鳴り出した私のお腹の音に、お父さんがクスリと笑う。


「昼間の美味しいサンドイッチのお返しにと、ソラの大好きな香草焼きを用意したんだけど、大正解だったようだね。さあ、食べようか」

「うん!ありがとう、お父さん!」


 直前までの疲労感などたちどころに吹き飛び、全身から溢れんばかりの笑みを返して、踊り出しそうな足取りでさっそく食事の準備に取りかかる。

 我ながら単純だとは思うけど、美味しいものには人を幸せにする魔法がかけられているのだから仕方がない。

 もちろん、もう魔法の存在を無邪気に信じるような歳ではない。

 それでも小さい頃によく読んでもらった絵本に出てくるこの一節だけは、私は今でも信じていた。


 そうして零れだしそうな満天の星空の下、穏やかに時間が流れていく。

 ……。

 …はずだったんだけど、この日は挙動不審になったお父さんがコップを落として割ったり、躓いて家の中で雪崩が起きたりと、大変な騒動があった。

 理由は大招集の話をしたからで、私が王都に行きたいと言い出すとは夢にも思わなかったらしい。


 私自身ですら同じ気持ちなんだから驚くのは分かるんだけど、それでもいくらなんでも驚きすぎじゃないかな…。


 ちょっと過保護なところのあるお父さんに苦笑いしてしまう。

 と、村は今日も平和であった。

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