第3話

 ともあれ、そんなこともあって幾分ふらついてはいたものの、また歩き出せば、間もなく家に到着した。


 よ、ようやく戻ってこられた…。


 小さな森のちょうど中心にある私の家は、背の高い木々に囲まれて…というより、一帯でも特に大きな一本の大木と半ば同化するようにして立っている。

 その様相はもはや木造の家ではなく、木の家と形容した方が適切なくらい見事に埋まっていて、しかも埋まっていない部分も随所を苔や蔓で覆われているために、知らない人が見たら木にのみ込まれた廃屋のようにも見えるかもしれない。

 でも窓辺にはお花を飾っているし、玄関のドアだけはほぼ毎日ピカピカに磨いているので、ちゃんと見れば人が住んでいることは分かるはず。…多分。


 と、いずれにしても古めかしいことは間違いない我が家だけど、私はまるで物語に出てくる魔法使いの住処みたいな、たくさんの思い出が詰まったこの家が大好きだった。

 慣れ親しんだ静かで澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込めば、動揺していた心もすぐに落ち着いてくる。


 さ、まずはただいまを言わなくちゃ。


 再び軽くなった足取りで、家の中にはまだ入らずにいったん裏手へと回る。


 そこには一つの墓石があった。

 周りには様々な種類のたくさんの花が咲き乱れていて、柔らかい木漏れ日とそよ風の中で気持ちよさそうに揺れている。


「……」


 その前に屈み、そっと墓石に手を触れた。


 __最愛の家族 リアララ ここに眠る__


 真夏にも関わらずひんやりとした感触を返す墓石には、そうお父さんが掘ってくれた文字が記されている。

 リアララは、私のお母さんの名前。

 お母さんは四年前、光とともに世界に還っていった。

 といっても比喩ではなく、本当に光となって消えてしまったのである。

 実際、この墓石の下にあるのも生前身につけていたものばかりで、本人はいない。


 当たり前だけど普通、人は光になって消えたりなんてしないから、当時は大騒ぎになった。

 ただお母さんはとても変わった人というか、天真爛漫を絵に描いたような性格で、しかも非常に独創的な感性と不思議な言動で意図せず周りを振り回すような人でもあったから、結局は「リアララならそういうこともあるかも」と、私やお父さんも含めた全員がすんなり納得することに。

 改めて考えてみると、すごいことだった。


 お母さんには最後の最後まで振り回されちゃったね。


 騒然となる私達を余所に、光の中で明るく笑いながら手を振るお母さんの姿を思い出して、ついクスリとしてしまう。

 大切な家族との別れという大事件だったにも関わらず、こうしてちゃんと気持ちを整理することができたのも、きっとそんなお母さんだったからなのだろう。


「ただいま、お母さん」


 お母さんに挨拶を終えたあとは、家の中へ。

 同化している大樹が生長しているからなのか、すぐに立て付けが悪くなる入り口の戸をくぐれば、ふわり、とたちまち木やハーブ、季節の花などが交ざった独特の香りに全身が包み込まれる。

 数日離れていただけなのに、この匂いもずいぶんと懐かしく感じてしまう。


「ただいま」


 私の家では、中に入るといきなり食卓に出迎えられる。

 使い込まれた木のテーブルと三つの椅子がこぢんまりと並び、隣には台所が、そのすぐ奥にはベッドがやはり三つ仲良く並んで置いてある。

 狭い我が家に仕切りなんてものはないので、あらゆるものが一つの部屋の中に収まっていた。

 一応、薪や大きな道具などを保管している地下室もあるから、正確に言えば部屋は二つ。

 ただ、いずれにしても狭いことには変わりなく、空いている空間は勿体ないとばかりに至るところに何かしらがぴったりと収められ、天井や壁にも調理器具や食べ物などの生活必需品が所狭しと吊されている。

 それに加えて、絵や花、楽器、謎の壺など、生前お母さんが大好きだったものもたくさん飾られているため、家の中はとても密度が高かった。

 うっかりこけたりなんてしようものなら、もれなく連鎖が起こって大変なことになるので、ここではゆっくりのんびり動くのが基本となる。


 うーん、やっぱり落ち着くなぁ…。


 改めて大都とは全然違うゆったりとした時間の進みを感じながら、しみじみと息をつく。


「やあ、おかえり、ソラ」

「うん。ふふ」


 声をかけて間もなく、ひょっこりと地下室の入り口からお父さんが顔を覗かせた。

 地毛である焦げ茶色の長い髪をいつもどおり後ろで束ねて、切れ長の目を優しげに細めている。

 先の二人の話からお父さんが帰ってきていることは分かっていたし、もので溢れかえっているとはいえ、この狭い家の中で人を見つけられないなんてことはまずないので、きっと地下室にいるんだろうとは思っていたけど、案の定だったらしい。

 スラッと背の高いお父さんが顔だけ出しているという光景は、なんだかちょっと可笑しかった。


「今回はソラ一人で大都に出かけたと聞いていたから少し心配していたんだけど、その様子だと上手くいったようだね」


 笑う私を見て、地下室の階段を上がりながらお父さんがホッとしたように微笑む。


「もう、お父さんまでそんなこと言って…。私だって、一人で街に卸しに行くことくらいできるもん」

「はは、そうだね、すまない。ソラが私達の自慢の娘で、とても賢くて優しくて可愛いらしいことは分かっているんだけど、どうしても心配になってしまってね…」

「それ、言い過ぎだよ…」


 なんだかみんなから頼りないと言われているような気がして少し拗ねてみせたのに、大真面目な顔でそんなことを言い出すものだから、結局は二人して笑い出してしまった。

 実際、みんなの心配のとおり誰かと話をする度に狼狽えていたので、返す言葉もない。


 お父さん、今回はどのくらい家にいられるのかな…。


 お父さんは行商人で、国内だけでなく大陸のあちこちを飛び回っているため、家を空けることが多い。

 長いときは一月以上空けることもあり、だから一緒にいられる時間は貴重だった。


「次の取引まではまだ一週間ほどあるから、しばらくはのんびりできそうだよ」

「本当!?」


 どうやら、考えていたことがそのまま顔に出ていたらしい。

 笑いながら私の心の疑問に答えてくれたお父さんの言葉に、思わず身を乗り出す。

 ここのところは帰ってきてもすぐにまた出かけることが多かったから、一週間もいてくれるなんて嬉しい。


「あ…」


 でもニコニコと微笑むお父さんを見て、すぐに我に返った。

 小さい頃ならともかく、十五にもなって未だお父さんがいないことを寂しいと感じているだなんて、流石に恥ずかしすぎる。

 自覚すると同時に、かぁっと顔が熱くなってきた。


「え、えっと…、あ!そ、それ、大雪になった時にお母さんが描いたものだよね?な、懐かしいなぁ…」


 なのでわざとらしいとは思いつつも、慌てて話題を変える。

 狼狽える私の視線が向かう先は、お父さんが手にしている一つの小さな絵画。

 数あるお母さんの作品の一つだった。


「しばらくぶりだったから、光に当ててあげようと思ってね。本当にララの作品はどれも素晴らしい…」


 私の無理矢理な話題転換にも別段気にするでもなく、絵画を指で大切そうになぞりながらお父さんが目を細める。

 よく見れば言葉のとおり、他にもいくつかの作品が地下室の扉付近に並べられていた。

 お母さんは芸術全般が大好きで、よく絵を描き、曲を奏で、時には楽器まで自作するほどで、室内に飾ってあるものもほとんどがお母さんの作品。

 しかしそれでも飾りきることができずに、半数以上は地下室で眠っている。

 娘の私が言うのもなんだけど、お母さんの作品は本当にどれも素敵なものばかりだから、私達は定期的にこうして地下室のものを引っ張り出してきては、室内に飾ってあるものと入れ替えたりして楽しんでいた。


「それだけに、どれを地下室に戻すべきなのかがなかなか決まらなくてね…。とても悩むよ…」


 改めて私もお母さんが描いた絵の数々を眺めてため息をついていると、感慨深げな表情をしていたお父さんが一転、今度は深刻そうな顔になった。


 きっとまた一日中悩むんだろうなぁ…。


 まるで一世一代の選択を迫られているかのような様子に、再び頬が緩んでくる。

 実はこれも恒例のことで、その真剣さたるや、私が声をかけなければおそらくは食事も取らずに悩み続けるに違いない。

 お父さんは何でもできて、優しくて、格好いい、私の自慢のお父さんなんだけど、お母さんのこととなるとこんな風に途端に周りが見えなくなってしまうのである。

 過去にも惚気話だけで一晩語り明かすなど、度々暴走に至ることまであり、恥ずかしながら、お父さんのこの困った癖は村でもすでに全員が知っている。

 とはいえそれもすべてお母さんのことが大好きで、とても大事に思っているからこそ。

 亡くなった今でもお母さんを思う気持ちはまったく変わっていないのだと分かって、よく惚気話を聞かされてげっそりしているみんなには悪いと思うんだけど、都度どうしても嬉しい気持ちになってくるのだった。


「おっと。それはそうと、流石に疲れているだろう。今何か作るよ」


 そんな中、頭を抱えていたお父さんがハッと我に返り、慌てて絵を置こうとしたので、笑いながら手に持った食材を掲げて止める。


「ううん、大丈夫。大都で買ってきたパンもあるし、さっきメイとお昼を食べる約束もしたから私が作るよ。それよりもお父さんは、お母さんの作品を素敵なところに飾ってあげて」

「そうかい?いつもありがとう、ソラ。それならお言葉に甘えさせてもらおうかな」


 私の言葉に、ちょっと申し訳なさそうな表情でお父さんが微笑む。

 でもすぐに大真面目な顔に戻ると、また絵の選定に没頭しだした。

 作品もあれだけ真剣に選んでもらえれば本望に違いない。


 それじゃ、さっそく作ろう。


 うんうんと唸り始めたお父さんにクスリとしつつ、今頃はきっとお腹を空かせながら待っているであろう親友のことを思い浮かべながら、他のものにぶつからないようゆっくりと台所へと向かう。

 その際、途中で調理に必要となる材料を回収しておくのも忘れない。

 狭いこの家では、料理中に移動するのも大変なのである。


 台所についたら、まずは火をおこすべく石の容器から火草を二つ取り出し、潰してかまどの中へと急ぎ投げ入れる。

 よく乾燥させた火草は潰した瞬間から勢いよく燃え始めるので、管理するにも使用するにも少々コツがいる。

 けど簡単に種火を作れるために着火用として広く重宝されており、さっそく組んだ薪からはパチパチと小気味よい音が聞こえてきた。


 かまどに火をかけたあとは、パンと具材の準備に移る。

 火がフライパンと鍋の水を温めている間に、レタスの土を洗い、ピーマンとタマネギ、オリーブの塩漬け、チーズをスライスしていき、手頃な厚さに切ったパンと一緒にお皿に並べておく。

 今回作るのはサンドイッチ。

 手軽に作れて美味しい上に後片付けも簡単なサンドイッチは私の好きな食べ物の一つで、美味しいパンが手に入ったときにはついつい作ってしまう。

 私もメイもお父さんも全員味の好みが違うので、他の料理なら三人分を用意するのに少し時間がかかるところだけど、サンドイッチならほとんど手間をかけずに作ることができる。


 そうこうしているうちに鍋にお湯が沸いたので、卵を二つそっと入れる。

 同時に熱くなったフライパンにオリーブオイルを引き、ざっくりと厚めにスライスした塩辛いベーコンを並べていく。

 たちまちジュワッと素敵な音を立てて、お肉を焼いたとき特有の香ばしい匂いが辺りに広がり始めた。


 あぁ~…、いい匂い~…。


 思わずゴクリと生唾を飲みこむ。

 私はベーコンが、というよりお肉全般が本当にもう心の底から大好きで、食べるのはもちろん、その瞬間を想像しながら焼いているこの時間も至福のひととき。

 食前はこうして音と香りで想像を膨らませてくれ、食事中はそれらが味と食感という形で現実になり、食後は満足感と満腹感による二重の幸せの余韻を届けてくれる。

 すなわちお肉とは、一粒で三度も美味しい至高の食べ物なのであり、毎度のことながらこの偉大さには畏敬の念を覚えてしまう。


 というわけで焼き上がるまでの少しの間、幸せな音と香りをうっとりと存分に堪能する。

 でも最高の焼き加減となる瞬間は絶対に見逃すことはなく、表面だけがカリッと焼けたのを見計らってフライパンを上げ、未だジュウジュウと音を立てる厚切りのベーコンを、パンと挟み込むようにしてチーズの上に載せ、手でちぎったレタスと薄くスライスしたタマネギ、ピーマン、オリーブを重ねていく。

 そして最後に赤胡椒を軽く潰して四つほど挟み、さっとオリーブオイルを振りかければ…。

 ベーコンサンドの完成である。


 ほぁぁ…。


 それは口に入れた瞬間、パンの香ばしさや、かみ応えのあるベーコンの旨みと塩気、野菜のシャキッとした歯ごたえと爽やかで多様な味わい、ベーコンの熱でとろりと溶けたチーズの濃厚で包み込むようなコク、オリーブとオリーブオイルの上品な香り、さらに赤胡椒の柔らかい辛みと清涼感が奇跡的な調和をもって広がっていき、至高の喜びとなってこの身体を震えさせてくれることだろう。

 キラキラと圧倒的な存在感をもって煌めくベーコンサンドに目が釘付けになりながら、知らず感嘆のため息が漏れてくる。


 …はっ!?


 しかし、そのまま運命に導かれるようにしてかじりつきそうになったところで我に返った。

 なので慌てて理性を総動員し、ギリギリとなおも抵抗しようとする困った手を死闘の末になんとか抑え込み、もはや垂れそうなくらいにまで溢れ出してきた唾をごっくんとのみ込んで、意識的にベーコンサンドを遠ざける。

 メイと一緒に食べる約束をしているのだから、ここで食べるわけにはいかない。


 頭を振って気を取り直したあとは、ゆだった半熟卵をお湯から上げる。

 当然だけど熱いので、手早く殻を剝いて器に移し、細かく挽いた塩と黒胡椒、オリーブオイル、それにお酢を加えて、冷めないうちに潰してかき混ぜる。

 個人的には潰しすぎずに、ある程度形を残すくらいで止めておくのが一番美味しいと思う。

 そうしてできたものを贅沢にたっぷりとパンに載せて挟めば、タマゴサンドも完成する。


 ほぁぁ…。


 一見するとシンプルに感じるタマゴサンドだけど、シンプルイズベストという言葉があるように、卵自体がそもそもコクと仄かな甘みを感じさせる滋味に富んだ味わいをしているので、必要以上に手は加えなくていい。

 いやこの場合は、加えるべきではない、と言うべきか。

 他の具材を一切挟まないのも、その良さを最大限に引き立てるため。

 タマゴサンドはサンドイッチの中でも王道と呼ばれるほど広く知れ渡っているけど、王道とはありきたりだから王道なのではない。

 強者故に王道なのである。

 小手先のものに頼らず、素材のみで王なる道を進み続けるタマゴサンドは、まさにシンプルイズベスト。

 サンドイッチ界の頂点に君臨するに相応しい存在だろう。


 ……。

 ………。…はっ!?

 が、我慢、我慢だよ…!


 いつの間にか口の付近にまで上がっていたタマゴサンドを断腸の思いでバスケットに移し、同じく渾身の力を振り絞ってさらに遠ざけた。

 そもそもタマゴサンドはメイのために作ったものであり、私が食べるべきものではない。

 この時点ですでに心は満身創痍状態だったけど、気力を振り絞って三つ目のサンドイッチへと取りかかる。


 最後に作るのはお父さんが大好きなアンチョビサンド。

 塩漬けのアンチョビは日持ちのするとても使いやすい食材で、しかも材料となる魚が安いので我が家では常備している。

 挙げ句に旨みも大層強く、栄養も豊富といいことづくし。

 ただ味に癖があり、独特の臭みもあるので、調理の組み合わせには少し考慮する必要があった。

 もっとも好きな人にとっては、それらもむしろ食欲をそそるものでしかないんだけど。

 ちなみに私はアンチョビも大好きです。


 アンチョビサンドは一番簡単で、アンチョビをタマネギ、オリーブ、ピーマン、レタスと共にパンに挟むだけ。

 仕上げに、パンから染みて溢れ出てくるくらいたっぷりのオリーブオイルをかけ、レモンを一振りすれば完成する。

 見た目はごく普通のサンドイッチであるアンチョビサンド。

 しかしそう思って口にしてしまったら最後、驚きに見開かれた目は食べ終わるまで閉じられることはないだろう。

 というのもこのサンドイッチの恐ろしいところは、食べて真っ先に感じるのが、パンと野菜達の奏でる豊かで優しい味わいだということ。

 大きな存在感のある二者に、一時意識はすべてそこに集中する。

 ところがその瞬間。

 二つの食感に隠れるようにして身を潜めていたアンチョビが、強烈な旨みと塩気を携えて的確に生まれた隙を突いてくるのである。

 慣れ親しんだパンと野菜の味わいに安心していたところにやってくる、無慈悲な一撃。

 私はアンチョビのことをサンドイッチ界の暗殺者と呼んでいる。


 挙げ句には、全体に余すことなくたっぷりとかけられた、つまるところ軍のすべてを把握した将軍とも言うべきオリーブオイルが、アンチョビだけでなく、人類の歴史と共に磨き抜かれてきた不動の熟練者たるパン、初々しいまでの新鮮さが売りの、勢いある青き野菜達までもを見事にまとめ上げ、三位一体の猛攻を仕掛けてくるのだから、私達の舌がなすすべもなく、圧倒的な幸福感で占められてしまうのももはや必然だと言えた。


 でも恐ろしいことに、事態はそれだけに留まらない。

 アンチョビ軍の将軍がオリーブオイルならば、無作為に散りばめられたレモンは軍師。

 その刺激的かつ爽やかな知略は、少しずつ彼らの攻撃に慣れ始めた瞬間を見計らい、不意にアンチョビ軍をまったく新しいものへと変化させて、再度私達の舌を強襲してくる。

 言わば、目の前で歩兵と騎兵が入れ替わるようなもの。

 ただでさえ敗戦色が濃厚だというのに、口に入れるまではどちらなのか分からず、常に新鮮な味わいを運んでくるレモンの名采配まで加わったのだから、もはや白旗を上げるより他に道はない。


 恐るべし、アンチョビ軍…じゃなくてアンチョビサンド…。

 私の理性も白旗を上げてしまいそう…。


 そうして震える手で最後のアンチョビサンドをお皿に載せれば、お昼ご飯のできあがり。

 サンドイッチを作ったことで限界ギリギリまで高まった空腹感に、今や世界はぐるぐると回り始めていたけど、同じようにお腹を空かせながら待ってくれている人達の元へ送り届けるという使命を果たすまで、私はまだ倒れるわけにはいかなかった。


「で、できたよ、お父さん…」

「な、なんだかずいぶんと疲れているように見えるけど、大丈夫かい…?」

「ふふ…、大丈夫。さあ、召し上がれ」


 目を瞬くお父さんに微笑み返しつつ、アンチョビサンドを載せたお皿と、ジャスミンで香りをつけた水をテーブルに置く。

 あとはメイに届ければ、私の使命は終わり。

 そこでようやく、サンドイッチを心ゆくまで堪能することができる。


 ああ…、北の丘がものすごく遠く感じる…。


 といってもここから北の丘までは、全力疾走しても息が上がらない程度の距離しかないんだけど、気持ちの持ちようで、道や時間はいくらで長くも短くもなるのである。

 ただそんな風にして遙かなる理想郷に向け、バスケットを片手にフラフラと玄関に向かおうとしたときのことだった。


「ソラ。作ってくれたサンドイッチ、一つどうだい?」


 不意にそんな笑い交じりの声が聞こえてきた。


「え!?」


 駆け抜ける風の如き素早さで振り返れば、声のとおりお父さんが微笑ましげに笑いながら、手早くアンチョビサンドの一つをナプキンで包んで手渡してくれる。


「い、いいの!?」


 なので踊り出しそうな気持ちで、そのまま受け取ろうと手を伸ばす。


「あ、で、でも、一つだけだとお父さんが足りないんじゃ…」


 しかしそこでふと、客観的な今の自分の姿が頭に浮かんできたために、なけなしの理性を振り絞って思い留まり、恐る恐る尋ねた。


「……」


 いくら好物だからといってお父さんの分を取ってまで食べるのは、あと一年で成人を迎える十五の人間として考えものだろう。


「……」


 流石にこの歳になれば、もう多少の分別くらいはつく。


「……」


 などと殊勝なことを考えるも、しかし残念ながら、この間私の目はずっとサンドイッチの包みに釘付けであり、説得力は欠片もなかった。


 ……。

 うぅ…、食い意地の張った自分が恨めしい…。


「私なら大丈夫だよ。実はソラが帰ってくる前に、少しつまんでしまってね。それに、ソラはこの二日間ほとんど歩き通しだったろう?しっかり食べないと駄目だよ」

「あ、ありがとう、お父さん…」


 案の定私の本心などそっくりお見通しだったらしく、お父さんがクスリと小さく吹き出しながらもう一度手渡してくれたので、喜びと恥ずかしさを同時に感じるという希少な経験をしつつ、今度こそ包みを受け取る。

 と、お礼を言うのは私の方だよ、とまた可笑しそうに笑った。


 うぅ、ごめんね、お父さん…。

 ああでも、アンチョビサンドも食べられるなんて…!


 にへーと結局は恥ずかしさを上回って頬が緩んでくる中、わぁっとアンチョビ軍の歓声が聞こえたような気がした。

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