川原と自転車
「美弥さ~ん」
あの川原にしゃがんで、意味もなく、その辺にあった小石を川に放っていると、上の道から誰かが自分を呼んだ。
「……圭吾、なんでチャリ?」
高そうなスーツに黒いママチャリという、よくわからない出で立ちの彼は、土手を下りてくるなり、
「新品です」
と上に止めた自転車を示して言う。
「いや、そういう問題じゃなくて――」
「売ったんです、車」
圭吾は車好きなので、わりといいのに乗っていたはずだが……。
「徹底してるわね」
こりゃ離婚も近いかな、と思う。
「あの女、車も高いの好きでしたからねー。
安いのに変えるんじゃなくて、いっそ、チャリにしてみました。
まあ、マンションの頭金も要りますし」
「はあ、まあ、車ないとイヤって人多いわよね。
こんな田舎じゃ、必需品だし」
「でも、叶一さんも大輔さんも持ってませんよね」
「明日の生活費もままならないのに、車なんか買えますかって」
「大輔さんは買おうと思えば買えるでしょ」
「あれは家の金と自分の金、分けてる人だから、無理無理。
それにそんな大輔じゃ嫌だしね」
そう言う美弥を圭吾は笑って見ていた。
「なに?」
「いえいえ」
その、そういえば、整っているかな~という顔を見ながら、美弥は訊いた。
「ねえ、安達センセー?」
「なんですか?」
「もしかして――
あんた最初からわかってたの?」
先生とあんたって、言葉が合っていませんよ、と圭吾は苦笑いする。
「前田さんのことよ。
名刺渡してたじゃない。
あのときから思ってたんでしょ、もう。
事務所独立して、刑事事件だけを扱うって」
「だけとは決めてませんが。
まあ、主に困ってる人を助けたいかなって奇麗事を掲げて、そんな感じで」
「そのアバウトな決め方好きよ。
すぐに崩れそうなとこが特に」
「相変わらず、一言多いですねえ。
しかし、そう言うってことは、やっぱり、あの人犯人だったんですねえ」
「やっぱりってね……」
最初に合ったとき、圭吾は前田に名刺を渡していた。
ただの営業だろうと思っていたのだが、あとで前田に名刺を見せてもらうと、普段使っているものとは違っていた。
事務所の電話番号ではなく、圭吾個人の携帯番号だけが刷ってあったのだ。
それで妙だと思っていたところに、刑事事件専門の事務所を作る話。
あれはもしかして、前田が何か事件と関係があることを見越しての、新事務所のための営業だったのか、と思ったのだ。
もちろん、ただ話の流れで渡した可能性もあるのだが。
「貴方じゃないけど、ただの勘だったんです。
ああいう、いい意味で小市民的な人が犯罪を犯すと、な~んか目の奥がびくついてるんですよね。
まさか殺人だとは思いませんでしたが。何かあるなと思って。
それでちょっと営業を」
ちなみに貴方が犯罪を犯しても、普段から目が据わっているので、まったくわかりません、と自分こそ余計なことを言う。
「しかし、どうでしょうね」
「うん?」
「私、もう一度営業かけてもいいでしょうか」
「どういう意味?」
「いや~、独立して、初めての仕事になるかもしれないから、本気でやりたいんですよ」
ああ、とその意味を悟り、美弥は苦笑した。
「いいんじゃない? たぶん」
そう言うと、圭吾は川に視線を落とした。
「……美弥さんには悪いんですけど。
私、あんまり、龍泉さんが好きじゃありませんでした」
淡々とそんなことを言い出す。
「せっかく父が勝ち取った減刑に迷惑そうな顔をしたから」
「迷惑なんて……」
「そうなんです。
あの人はただ、被害者に対して申し訳ないと思っていただけなんです。
でも、当時の僕には、父の頑張りを喜ばない人、としか映らなかった。
父は最初、あの事件、引き受けるのに乗り気じゃありませんでした。
教頭と面識がありましたからね。
龍泉さんの立場はわかっても、やっぱり抵抗があったと思います。
それでも、引き受けたのは、貴方が必死に頼んだのと――
あの人の名前が私と似てたから、だそうなんです」
そこで圭吾は小さく笑った。
佐田圭二
安達圭吾。
言うほど似てはいないのだが。
「あの人、ほんとにいい人でしょ?
それでも、道を踏み外すんだと思ったとき、なんとなく、あの人の上に、父は僕を重ねてみたらしいんです。
ま、僕はあんなに出来た人間じゃないですけど。
自分の息子に限って、そんなことはないと思っているけど、いつかこいつもなんかやらかすかもしれないと思って。
なんとなく、その辺から、龍泉さんに同情し始めたらしいんですよね。
だから、出所した日にお姉さんと挨拶に来た彼に、父は離れた町での仕事も紹介した。
そりゃまあ、気に入らなかったみたいなんですけど」
と言ったあとで、圭吾は、ちょっと嫌味です、と付け加える。
「しかしまあ、あの人見てると考えさせられるんですよ。
罪を軽くしてやることだけが、人を救うことではないなって。
――美弥さん?」
美弥はその場にしゃがみ、川の流れを見つめていた。
「あの人、このまま救われることはないのかな?」
「また悪い癖ですよ」
圭吾の溜息が上から聞こえた。
「自分の力で、誰も彼もを救えるだなんて思わないことです」
「そんなこと思ってないわ……」
「すみません。
言い方悪かったですね。
そうじゃなくて、全員を自分一人で救おうとしては駄目だという話です。
その結果、貴方は誰も救えていない」
恨みがましく、美弥は無意味なまでに背の高い男を見上げる。
圭吾はわざと憎まれ役を買い、もう一度繰り返してくれた。
「このままじゃ、貴方は大輔さんも、叶一さんも救えません」
「私に誰かが救えるなんて、
美弥は立ち上がる。
「ただ、私があの二人の側に居たいだけなの、本当は」
そう言い、圭吾の胸に額をぶつけた。
彼は大きいので、そうすると、自分が子供に帰れたようで、安心するのだ。
「なーんで私の人生、こんなことになっちゃったんだろ」
「おや、泣き言ですか、珍しいですね~」
慰めるでも触れるでもなく、突き放すように圭吾が言うのが、逆に有り難かった。
「自分の人生、何処で踏み間違ったかなんて、結局わからないですよね。
誰にもわからない。
貴方でなくとも、そうですよ」
「うーん、あそこで大輔を突き飛ばさなきゃよかったのかな?
いやいや、あの年のバレンタインに学校休まなきゃ……いやいやいや」
答えの出ない答えを求めて
「ま、叶一さんと結婚しなけりゃよかったんですよ。
それだけは絶対に確かなことですね」
避けていた答えを圭吾はズバッと出していた。
逃げようのない事態だったというのは、結局、言い訳だ。
私には勇気がなかった。
その結果がこれだ。
「ま、どちらにしても、もう遅いですけど」
「遅いって何?」
と圭吾を睨み上げる。
その弾みで、背に何かが触れた。
圭吾がすっと手を下げる。
彼は伸ばした手を美弥の身体に触れない位置で止めていたらしかった。
だが、そんなことは、おくびにも出さずに、無表情に圭吾は言う。
「もう遅いです。
貴方は叶一さんを愛してしまった」
「……なに言ってんの?」
そう問い返しながら、自分の中に、どきりとしているもう一人の自分が居るのを感じていた。
「たぶん、そうなんですよ。
もしかしたら、最初からそうだったのかも。
少なくとも大輔さんは、ずっとそう疑っていた。
だから、何も言わなかったんです。
あの人は、自分が何も言わないことで、貴方を試していたんじゃないですか?」
「そんなこと――」
なんだか、頭がガンガンしてきた、と思っていると、
「初恋は破れるもんなんですよ、美弥さん。
ちなみに、私なんて一瞬でした」
ははは、と圭吾は笑う。
「……あんたの初恋って、誰?」
「……叶一さんのお母さんです」
「はい?」
「なんとパンチの効いた人でしたよね、あの人。
ああ、だから叶一さんに肩入れして言ってるわけじゃありませんよ」
そう言ったとき、圭吾の携帯が鳴った。
反対側を向いて、それを取る。
「はいはい、安達です。
はい、ああ、華村様」
華村……どっかで聞いたような。
電話を切った圭吾は振り向いて言う。
「私と一緒に行きますか? 美弥さん。
琢磨さんとこの病院みたいなんですけど」
え? と美弥は彼を見上げた。
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