蒼天の弓 ― 病室―
病室の前には警官が居たが、頭を下げると、あっさり通してくれた。
まだ意識は戻っていないが、もう普通の病室なので、取り合えず、面会は可能だった。
ベッドに横たわる久世隆利の顔を見つめたあとで、椅子の上に、手にしていた差し入れの紙袋を置いた。
今、彼の生命を維持している機械たちが、暗がりで光を放っていたが、その大元のコンセントに手を伸ばし、すべて引き抜く。
ふっ、と息をついたが、
次の瞬間、誰かの視線を感じて振り向いた。
隆利がこちらを見ていた。
「さすがですね。
死にそうになったら生き返るんだ」
そう笑ったとき、バタバタと院内が騒がしくなった。
装置を外したのがわかったのだろう。
ドアが跳ね開けられ、医師たちが飛び込んでくる。
「君!
自分が何をしたか、わかっているのか!」
腕を捻り上げられたとき、看護師の後ろで、先程の警官が慌てているのが見えた。
「……放してやってくれ」
溜息まじりに、まだ掠れている声で、隆利が言う。
「うちの嫁だ」
医師は隆利の覚醒に気づき、目を見張った。
慌てて何かの処置をしようとするが、隆利が目で制す。
「大丈夫だ。
少し出ていてくれたまえ」
でも、と彼らは不安そうに美弥を見たが、隆利は首を振る。
その眼光は衰えておらず、医師たちは渋々出て行った。
それを見送る美弥に隆利は、起こしてくれないか、と言った。
「まだ起きれるわけないじゃないですか」
そう美弥がつれなく言い放つと、
「将来君に介護してもらうのは不安だな」
などと隆利は言う。
「そんなに生きる気なんですか」
と美弥は呆れたように言ったが、彼は笑っていた。
この男はいつもこうだ。
調子が狂う。
人生全部面白がってるだけなんだから、と美弥は溜息をつく。
そんなところが可愛らしくもあるのだろうが、大輔たちを巻き込むのだけは許せない。
そう思う美弥を見上げ、隆利は訊いてみた。
「叶一は気に入らなかったかね?」
「そういう問題ではありません」
「あれは面白い男だろう?」
窺うようにこちらを見ながら隆利は言う。
「面白いのは認めますが……」
「叶一と別れたいかね?」
「まあ、出来れば――」
「そうか。
後悔しないか?」
「後悔?」
「猫も三日飼えば情が移ると言うじゃないか」
「……ご自分の息子さんを猫に例えるのはどうなんですかね?」
「人は、自分が居ないと生きていけないものが欲しくて、ペットを飼うんだと私は思うね。
己れの存在意義を確かめるために」
「歪んでますね」
美弥くん、と隆利は美弥を見つめて言う。
「叶一には君が必要だ。
なんであれが近衛鉄鋼を要求したのか、君はわかっているんじゃないのか?」
「……多少は」
ああ、それでですか、と美弥は言った。
「それで、叶一さんが出した条件を飲んだんですね。
意外に息子想いなんですね。
でも、大輔はどうなるんです?」
「大輔は大丈夫だよ」
軽く隆利はそう言った。
「だって、君はあれが好きなんだろう?
だから大丈夫だ」
美弥は、隆利の横たわるシーツを握り締めた。
一緒に居なくても、君たちは大丈夫だ。
隆利はそう言っている。
本当は誰よりも息子たちのことをわかっているのは、この人なのかもしれない。
ふいに、そんなことを思ってしまう。
憎い相手のはずなのに。
叶一が『近衛鉄鋼』を要求した理由。
それは恐らく、叶一の母が亡くなったときに生じた。
あの人が欲しがったものの正体を――。
私も恐らく、最初から気づいてた。
だから、あのとき、逆らう気が失せたのだ。
美弥は叶一との短い結婚生活を思い出していた。
叶一はよく美弥を自転車の後ろに乗せて、土手沿いの道を走ってくれた。
秋の初めの風が気持ちよく、川原で遊ぶ子どもたちのサッカーをしている声が、なんだかとても長閑だった――。
「でも、大輔が好きなんです」
美弥は俯き、唇を噛み締める。
「恋愛なんて妄想だよ」
そう隆利は言った。
またこの人は、と美弥は顔を上げたが、隆利は、らしくもなく、疲れたような溜息をもらして言う。
「私も長い間、その妄想に振り回されすぎた」
その横顔に、美弥も思うところはあったのだが、
「あの~、なんでその代償を赤の他人の私が支払わなくちゃいけないんです?」
と訴える。
「そうだな。
君が一番私に似てるからかな」
はいっ? と美弥は訊き返していた。
「それと、忘れないように――。
君はどう転んでも。
どっちの息子と結婚しても、うちの嫁だから」
大輔と結婚しようと、叶一と結婚しようと、この困った舅はついてくるということだ。
溜息をついた美弥は握っていたシーツを離し、呟いた。
「ああ~もう、圭吾とでも結婚しようかな~」
「嫌がると思うよ」
と隆利は笑顔だ。
「……でしょうね」
ではそろそろ失礼します、と背を向けた美弥に、隆利は言う。
「事件の真相を聞いていかんのかね」
「大丈夫です。
想像ついてます」
美弥がそう言うと、ま、そういうと思ったよ、と隆利は笑う。
「着替え、そこにありますから。
自分で着替えるなり、若い看護婦さんに着替えさせてもらうなりしてください」
じゃ、とドアに手をかけた美弥の背に向かい、隆利は言った。
「予言しておいてあげるよ、美弥くん。
君は叶一とは離婚できない」
振り返ると、隆利は、もういつもの余裕ある笑みを見せていた。
「君は、より手のかかる方に思い入れしてしまう傾向があるからね」
君は叶一とは離婚できない――。
そう微笑み、隆利は言った。
それが真実のような気がして、美弥は感情の全てをぶつけるように、扉を勢いよく閉めた。
叩きつけられた引き戸が弾いてまた開く。
そこから隆利がおかしそうに笑う声が聞こえていた。
心配して外に居た医師たちが、美弥の剣幕になんとなく道を開ける。
美弥は医師たちにペコリと頭を下げたあと、離れた位置に、呆然として突っ立っている三溝が居るのに気がついた。
三溝にも軽く頭を下げたあとで、あの踊り場に向かって歩き出す。
『予言しておいてあげるよ、美弥くん。
君は叶一とは離婚できない――』
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