不思議ちゃん
眠い目を擦りながら出社して席につくと、今日も同僚の春川カナが上司に怒られていた。朝の恒例行事と化しつつある光景を眺めながら、パソコンの電源を入れる。
「だから、頼んだのはこのデータじゃないって。昨日あれだけ念押ししたじゃん!」
普段は温厚な課長でさえ、部下の春川が再三同じミスをするので、自然と語気が強まっている。当の春川はというと、ほへー、という効果音が見えそうな表情で叱責を受け流していた。つよい。
「すみません課長。昨日のご指示では、企画に役立つ情報を収集せよとのことだったので、春川なりに指示を曲解してしまったのだと思われます。再発の防止に努めますので、どうかご気分を害されないで下さい」
入社前の面接で初めて春川を見た時、僕は彼女に見とれてしまった。背は僕と同じくらい高く、スカートからはスラリとした足が覗いている。色白の顔はどこかネコのようで、大きくて綺麗な目が可愛かった。名前を呼ばれて「はい」と返事をした彼女の声に、妙にリラックスしてしまい、緊張がひとりでに解けたのを今でも覚えている。
あれから早2年、社会人2年目を迎えた同期の春川は、相変わらず、というより更に美人になっていた。黒ニットに白いジャケット、灰色のウールスカートを合わせた彼女は、いかにもデキる社会人という雰囲気を醸し出している。生まれつき色素の薄いセミロングの髪も、彼女のチャームポイントだ。
「これで中身が普通の女子だったらなぁ…」
思わず零れた本音が、誰かに聞かれなかったか周囲を見回してから、僕は改めて溜息をついた。春川の鈍すぎる反応に匙を投げた上司が、手を振って彼女を釈放するのが見える。溜まったメールを処理しながら、僕は改めて春川のこれまでの「伝説」を振り返った。
◇
黙っていれば美人の春川カナは、ふたを開けてみれば同期一の変人だった。
初めての同期顔合わせ、飲み会からのカラオケという定番の流れの中で、彼女は早くも数々の逸話を生み出した。居酒屋では全ての料理に問答無用でレモンを絞り、カラオケでは誰も知らない80年代のアニソンを声が枯れるまで熱唱した。同期旅行で訪れた草津では、昼間から一人で温泉に浸かり、夜はトランプに興じる僕たちを置いて湯畑を散歩していた。初めは彼女の容姿をもてはやした男性陣も、彼女の素顔が明らかになると露骨に敬遠するようになった。
春川にとって不幸なことに、彼女はあまり仕事がよく出来るタイプではなかった。理系出身で、数字を扱う分析には長けているのだが、指示内容を取り違えて的外れな方向に進んでしまうことが多く、上からは陰で「ハンドルの壊れたポルシェ」と揶揄されていた。同じ部署に配属された同期の僕が、彼女の失敗をフォローしたことも一度や二度ではない。
とにかく、春川カナは、周りから決定的にズレた不思議ちゃんとしてのキャラクターを確立していた。
◇
困り果てた課長に頼まれ、正しい作業内容について彼女に午前中一杯を使って説明していると、昼休みのチャイムが鳴った。同僚だちがぞろぞろと立ち上がり、お目当てのお昼スポットに散っていく。
「あの、守矢くん。よかったら、一緒に昼食いきません?」
付きっきりでサポートした僕を少し申し訳なさそうな目で見ながら、春川は提案した。普段はチャイムが鳴るとどこへともなく消える彼女からの意外な誘いに、僕は少し興味が湧いた。
「いいよ。お気に入りの店とかあるの?」
「はい。近所に美味しいとんかつ屋さんがあって、ほぼ毎日通ってます」
彼女のお気に入りのとんかつ屋は、会社から道を何本か渡った先にある、昔ながらの店だった。引き戸を開け、腰をかがめて暖簾をくぐると、好々爺然とした風貌の店主が「いらっしゃいカナちゃん。今日はお友達と一緒かい」と声をかけた。
「会社の同僚です。あ、友人でもあります」
僕に謎の気遣いを見せながら、春川はカウンター席に座ったので、隣に腰を下ろす。彼女は慣れた手つきでメニューをめくると、「かつ丼一つ」と言った。一見で何を頼めばいいか分からないので、「それ、もう一つ下さい」と便乗する。
「カナちゃん、今日の調子はどうだい?いつもより顔が明るいけど、何か良いことあった?」
店主がとんかつを揚げながらサバサバと尋ねると、春川は恥ずかしそうに「今朝も怒られました。私の失敗で…」と目を伏せた。会社ではどんなに叱られても鉄面皮の彼女が、意外な場所で弱みを見せているのを知り、彼女の印象が改まる。可愛いとこあるじゃん、春川。
「でも、守矢くんは同期で同じ部署で、私がミスをしても丁寧に教えてくれます。守矢くんは、重要」
顔を上げた春川から、突然褒められてびっくりする。それにしても、重要って、人生で初めて言われたな…。
「はは、確かに重要な同僚だね。どうだい守矢くん。この勢いでカナちゃんと付き合っちゃえよ、なんちゃって!」
ガハハと笑いながら、かつ丼を二つカウンターに置いた店主に苦笑いを返し、春川の反応をこっそり確かめる。驚くべきことに、春川はまんざらでもない表情で、片肘をついて僕を見つめていた。いや、さすがに希望的観測だろう。でも、よく考えたら美人と二人でランチって、距離を詰めるチャンスでは…。
「春川って、休日は何してるの?」
興味本位で聞いてみると、春川はぱっと目を輝かせた。
「実は、最近ガンプラ作りの面白さに目覚めまして。塗料を吹き付けるエアブラシも購入して、製作生活が充実してます」
「マジか!ガンプラは作ったことないけど、アニメは好きだよ」
「本当ですか?私も元はアニメから入ったクチです。例えば…」
お互いに意外な共通項を見つけたのが嬉しくて、僕と春川はロボットアニメ談義に花を咲かせた。店主に「盛り上がってるとこ悪いけど、そろそろ時間じゃないかい」と言われて慌てて会社に戻るまで、楽しいお喋りはずっと続いた。
◇
翌日、オフィスに入ると昨日と寸分違わぬ光景が繰り広げられていた。課長は朝っぱらから怒りに顔を赤くしながらも、もうどうしようもないと頭を抱え苦悶の表情を浮かべており、お祭りでよく見る般若の面を彷彿させた。
「春川さんさぁ、、昨日頼んだことちゃんと聞いてた?……いや、聞いてたらこんなデータ上げてこないよなぁ、、もうどうすりゃ良いんだよ!守矢君もちゃんとフォローしてよねぇ」
課長から半ば八つ当たりのような非難を受け、いつもならいい迷惑だと内心溜息をつくところ。しかし、今朝の僕は違う。
「おっしゃることは分かりますが、春川もご指摘を受け止め、真剣に改善努力をしています。それにもかかわらず状況が良くならないのは、春川の能力を活かす環境がないこと、会社として適材適所がなってないからじゃないでしょうか」
意外な反撃にきょとんとする課長の顔に笑いを堪えながら、思いを最後まで吐き出す。
「たしかに彼女は通り一遍の事務作業は苦手かもしれません。ただ、春川のデータ分析の精緻さには課長もお気づきではないですか?表面的なコミュニケーション能力の違いが、社員としての有用性の決定的差ではないということを…信じてください!」
言いたいことを言い切ってしまうと、しばしの静寂が訪れた。口をパクパクさせる課長の前で、春川は大きな目をさらに見開いて僕を見ている。色白の頬に、僅かに赤みがさしているようにも見えた。
「わ、、わかった。守矢君がそこまで言うのなら、私も少し頑なになってたんだろう。たしかに、得手不得手は人それぞれだからな、、もういいから仕事に戻りなさい」
課長から解放されて席に戻る途中、はにかみながら僕に笑いかける春川を見て、思わずときめいてしまった。
◇
結局、春川はデータ分析に特化することを認められた。使えないモブ社員から特殊技能持ちの専門家にランクアップした彼女は、持ち前の能力を存分に発揮して周囲からの評価を上げまくり、いまや課長も春川の配置換えを自分の手柄として自慢するほどだ。
そんな中、あの出来事をきっかけに距離を縮めた僕たちは、春川行きつけのとんかつ屋でよく一緒にランチをするようになった。
「まいど、お二人さん、今日も仲いいねー!」
店主のからかいに顔を赤らめながら春川の方をちら見すると、彼女は意外にも動じることなく自然な笑顔を浮かべていた。
「はい、守矢くんは私の恩人なんです!」
直球な表現にさらに赤くなる僕に、春川は優しく目配せした。窓の外に広がる空は、突き抜けるように青い。
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