2-10 朱塗りの和傘を持った幼女

(また、いなくなってしまいました)


 体力と気力と根性はあるつもりだが、この場で必要なのは+スピードだった。

 リリアンは普通の女性からしたら、かなり高速で動けるのだが、男の詩人相手では勝ち目がない。


(わたしの未来の旦那様……わたしを置いて、どこへ行ってしまったのでしょうか。あぁ、でもかっているのです。あなたはあの良き占い師を助けようとしたのです。なんて、素晴すばらしいお方なのでしょう!)

 

 リリアンはこぼれ落ちそうな大粒の涙をぬぐって、道の先を見つめた。


(諦めません。必ずや、お腹の子を認知にんちしていただき、夫婦となりましょう!)


 可愛い紅色の唇をきゅっと結んで、彼女はスマートなお腹に手を当てた。

 ……ふくらむはずのないお腹は荒い呼吸でひくひくと動いている。


(――妊婦さんって、こんなに走って大丈夫なのかしら?)


 素朴な疑問が胸に生じるが、修道詩会しゅうどうしかいの病院で耳に入れた豆知識が彼女を救ってくれた。


適度てきどな運動も妊婦さんには必要だったはず)


 彼女は手の甲で額の汗を拭いてかがみ込むと、アスリートのように石畳に両手の指先を付けて前方を睨んだ。

 身を包む黒い修道服が、風にゆられてはたはたと動く。


「100メートルを走る勢いで、42.195キロを走ってみせる!」


 気合いを込めてスタートダッシュした時だった。

 目の前にふわりと花のような、なにかが飛び込んできた。

 それは、リリアンにぶつかってポーンっと通りに転がってしまう。


「ゃんっ」


 小さな可愛らしい悲鳴がして、リリアンは急停止した。


 振り返ると、六歳くらいの女の子がしなをつくった姿で道に転がっている。

 たけの短い紅の着物を高下駄たかげたいているので東洋の子だろう。

 彼女は朱塗しゅぬりのかさを抱いて考え込むような顔つきをした。


「……あ、ごめんなさいっ」

 

 リリアンは急いで女の子のところへ行き、彼女の様子を確認する。

 肩の上できれいに切りそろえられた輝く黒髪、黒い睫に縁取られたブラックパールのような瞳、すべすべした肌は象牙色で、唇は鮮やかな紅色に濡れている。

 どこから見ても極上の美少女である。


「本当にごめんなさい。大丈夫ですか、お怪我けがはありませんか?」

 

 眉を下げてリリアンは女の子の顔をのぞき込んだ。


わらわがこけるとは……おぬし、やるのぉ」


 女の子は妖艶ようえんに微笑みかけてくる。

 彼女は、ふっくらとしているが細い腕をたおやかにリリアンへ向けた。


わらわを立ち上がらせてやるという褒美ほうびを、おぬしにさずけよう」

「えっ、えっと……はい」


 リリアンは女の子の腕を引っ張った。

 しかし、リリアンの手を借りる必要もなく、女の子は軽やかに立ち上がる。

 彼女の足が怪我していないか、リリアンは頭を下げて見た。


「くるしゅうない、おもてをあげぃ」

「ははぁーっ」


 思わず言ってから顔を上げると、女の子は全く膨らみのないふところから、いきなり分厚い札束を取り出し、それでリリアンの丸いお尻をポンと叩いた。

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