1-10 夢見る乙女と羽根紳士

 黄味きみびた太陽が蒼天そうてんを上りめ、長い建物が両脇りょうわきつらなった狭い路地にも明るい光を届けている。

 もうじき真昼なのか、今が真昼なのだろう。


 リリアンは少年が駆けていった方へ、逃げていった方へと、向かっていた。

 彼女をはらませた少年が通ったらしき気配は、道ばたの石のようにころころと転がっている。


「さっき、ものすごい冷気がしなかったか?」

「なんか寒かったよね。魚屋の刺身が凍り付いていたけど」


 人々が、彼の異様な空気を感じとって話し合っている。

 それだけではなく、冷気によってすずめが道に落ちていたり、犬がソプラノの異様な遠吠えをしていたり、子猫が窓ガラスにネコパンチを続けたりしていた。


 あのような気が放たれるのは、彼自身の魔力がずば抜けて高いか、または所持しょじしているグリモワールの魔法力が高いかだ。


 詩人の武器は、大きさと攻撃力が比例している。


 彼の小さな銃が、これほどの冷気を生むとは思えない。

 たしかに良くできたグリモワールだとは思った。

 強い魔法ならば、レベルを告げて放出量ほうしゅつりょうを制御する。しかし、少年の魔法は元々弱い。

 だから弱い魔法を「上々」という言葉で強化していったのだ。


 あの銃の仕組みは、魔法を焚き火にたとえると分かりやすいだろう。

 焚き火を燃え立たせるには、木が必要だ。

 その木を喚び出す魔法が、彼のグリモワールに入っていたはずだ。

 上々じょうじょうという言葉によって、木の魔法が呼び出されて投下され、火力を増す。

 よってグリモワールに入っている小さな魔法でも、「上々じょうじょう」という言葉で巨大なものになる。


 だが、リリアンは彼の右手のグリモワールに強烈な攻撃力を感じなかった。

 おそらく「上々じょうじょう」と魔法の力を上げていっても大した攻撃にはならないはずだ。


「グリモワールが普通の品なら……きっと、彼自身の魔力が高いはず」


 もしかしたら、名が知れた魔導詩人なのだろうか。


 たとえば、詩の天才『名運なうん』の系統とか……。


 全ての詩のジャンルを華麗かれいに操ったとされる名運には、有名な二人の弟子がいる。

 一人は東の賢人と呼ばれる女性、鳳凰院ほうおういん桜子さくらこ。彼女は大陸に住んでいる。


 もう一人は西の賢人と呼ばれる男性、ミスター・グレーバー。

 彼は浮遊地ふゆうちのどこかに住んでいるという。


 そこまで考えて、リリアンははっとした。

 ここはアスペクト・ステップ……浮遊地ふゆうちだ。

 もし、彼が西の賢人に関わる者なら、あの魔法の自由さも納得できる。


 西の賢人は、魔導まどう修道詩会しゅうどうしかい吟遊ぎんゆう、三つの流派に精通していて、天才名運が作り出した『吟遊詩ぎんゆうし』の正統な継承者だ。


(はやく……彼のことを知りたい)


 リリアンは、薔薇色ばらいろの小さな唇で息を吸い吐いて、懸命けんめいに大通りを駆け抜けていく。


(――早く会いたい、会ったら逃さない)


「ぜっ、ぜったい、責任を取ってもらいます」


 固く決意を誓って、F1カーの如く曲がり角にギュインと入る。

 その時、スラリとした細身の青年が彼女の視界に飛び込んできた。

 ぶつかりそうになった瞬間、お互いに、ばっと身を離して衝突しょうとつを避ける。

 その身のこなし、尋常じんじょうではない。


 尋常じんじょうでない者は大抵たいてい詩人だ、とリリアンは相手を注意深く見た。


 レースのスーツという奇抜きばつ格好かっこうをした青年は、やたらと美しい微笑みを浮かべた。

 それは軽く触れただけで壊れていきそうな、ガラス細工のような笑みだった。


「お嬢さん、そのような姿で歩き回ってはいけないよ」


 紳士は言って自分の胸元を指す。

 リリアンは、えっと思ってから己の胸元へ視線を降ろした。

 修道服の星印が刻まれたボタンは外れていて、はだけたままである。


「きゃっ」


 両手でぷっくらとした胸のふくらみを押さえて隠すと、紳士は笑って彼女に手を振った。


「では、失礼」


 そうして彼は静かに街の中へ消えていく。

 で、白い翼がパタパタ動いていた。


 リリアンは桃色に頬を染めながら、急いで胸のボタンをとめにかかる。

 こんな姿で自分は彷徨っていたのかと思うと頭がクラクラしてきた。

 最低限の常識をなくすなんて、本当に自分はどうかしている。


「……ぁ」

 ボタンを摘んだ指先が胸の絆創膏ばんそうこうに触れて、リリアンはちょっとだけ視線を下ろした。


 胸の谷間には絆創膏ばんそうこうがばってんに貼られている。

……そこは秘密の場所である。


(これが暴走する前に、赤ちゃんを産んで認知にんちしてもらわないと!)


 素早く服装の乱れを直して、リリアンはきりっと顔を上げた。

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