263話 Ver,1.00
その後、シルバーラットはいくつか「その後の”ベルトアース”」にまつわる話を聞かせてくれた。
『”Ver,1.00”と彫られた石版は、”ベルトアース”の人々にとって新たな希望となった。
王国では現在、”ボーイ&ガール”を称える銅像の制作が発表された後、棄却された。
これは、”増殖バグ”を利用したあくどい商売を行っていた者たちの、怨嗟の感情によるものである。
俺たちの世界ではいま、”勝ち組”と”負け組”の逆転が始まっているのだ。』
「………ふむふむ」
ここまで理解するのに、おおよそ五、六分ほど。
案外、言葉は通じずとも絵とジェスチャーだけで話はわかるもので。
『いま、我々の間では、とある言葉が流行している。
これすなわち、「ようこそ製品版の世界へ」。
”ベルトアース”はいま、縦の長さだけでなく、横幅をも手に入れた。
人々はいま、頭に被ったドリルを捨てて、ちゃんとした武装で未知の領域を開拓している。
ただ一点、移動用の椅子が使えなくなってしまったところは、すこし不便だけれど。』
「………ほうほう」
『新しい世界のルールには、概ねみんな、満足している。
モンスターの出現率も、ちょうどいい。
ただ、ジャブジャブ温泉は大打撃を受けている。
新しい”無敵のパンツ”が採れなくなってしまったから、みんな大急ぎで移住の手配を進めているよ。』
「………へえへえ」
そうして、おおよその話を理解した私は、ひとつ、シルバーラットに訊ねる。
タムタムの街に住む、分裂した人々はいま、どうしているか。
すると彼女は、少し気まずそうに、一枚の絵を見せてくれた。
画面の八割が朱色に覆われたその絵が示す結末は、――実にわかりやすい。
血を伴った革命。
その中心には、話に聞いていた、ドジソンと思しき人物の顔もある。
「――はーっ。やっぱりか」
狂太郎から話を聞いた時から、彼の目的はきっと、そうに違いない、と思っていた。
彼は、自身が産み出したものの決着を、彼自身でつけようとしていたのだ。
あれから、たった一ヶ月しか経過していない。
この出来事が、何もかも彼の計画のうちでないはずがなかった。
この結末はたぶん、狂太郎の気に入るものではなかっただろう。
それがわかっていたから、彼も最後まで、本心を明かさなかったのだ。
「……………」
私は深く嘆息して、その一枚絵を受け取る。
また一ヶ月、引きこもりコースかな。そう思いながら。
ただ彼女は、最後に私に、このような言葉を残していった。
『我々は、あなたに感謝している。
あなたと、あなたの恋人の幸せを願っている(※31)』
と。
それ以上の話は、やがて彼自身が聞くべきことだ。
私はそう判断して、彼女の手をぎゅっと握りしめる。
シルバーラットは、その手を何度か握りしめ返したあと、少し足早に、《ゲート・キー》で創り出した扉へと帰っていく。
どうやら彼女、――あんまり長居ができないらしい。ひょっとすると”ベルトアース”の住人にとって、この世界の空気は毒なのかもしれなかった。
「あ。ちょっとまって!」
私は、捕まえた妖精が逃げてしまうことを恐れて、彼女の肩を叩く。
せめて、スマホで写真を撮りたい。
そう思ったのだ。
だが残念ながら、その望みは叶えられなかった。
私が、自室のスマホを手に取って、再び部屋に戻ったときには、……シルバーラットも、異世界へと繋がる扉も、どこにもなくなっていたのである。
「ただいまぁ」
同居人たちが戻ってきたのは、それからもう、間もなくのことであった。
▼
私から、一部始終の話を聞いた狂太郎は、ただ一言、
「そうかね」
というだけ。
ただ、殺音と飢夫の方が興味津々で、
「シルバーラットって、どんな娘だった?」
とか、
「異世界の言語って、どんなかんじ(※32)?」
とか。
それより何より、彼女たちが興味を惹かれたのはやはり、――《無》の存在である。
私たちは、名状しがたい不定形のそれを、握りしめたり離したりしてたっぷりもてあそび、ぽよんぽよんと空中に浮かせたり、キャッチボールに使ったり、壁に投げて跳ね返ってくるのを楽しんだり、ソフトクリームの上に載せてぺろぺろしたり、包丁で千切りにした上で餃子の具として食べたりしてみた。
自分でも奇妙な字面だと思うが、全て事実である。
あるべきところにあり、ないところにはどこにもない。
もちろん、使ってもなくなったりはしないし、もし何かの間違いでなくなったとしても、やがて戻ってくる。
それが《無》なのだ。
《無》に関しては筆者も、語りたいことがいくつかある。
だが、その詳細な描写に関しては一旦、保留にさせていただきたい。
ただ一つだけ言えるのは、恐らくはそれは、”勇気”とか”希望”とか、そういう概念上の存在と同質なのだと思われる。――言語化が極めて難しいのだ。
いずれにせよ、たっぷり《無》で遊んだ私たちは、2000万円で買われたそれを、狂太郎の手元に移す。
「ん」
狂太郎は、それをちょっぴり虚ろな表情で受け取って。
そして再び、――彼の部屋へと引き返していったのである。
残った私たち三人は、少し顔を見合わせた。
「ひょっとすると彼、仕事を辞めちゃうかもね」
と、飢夫は肩をすくめる。
実際、今回の冒険は、狂太郎の心に負担が大きすぎたのだ。
――休暇でした仕事が原因で辞職、か。
なんだか皮肉だな、と思いつつ。
でも考えてみればそれって、割と普通のことのようにも思えたりして。
▼
だがしかし、我らが”救世主”は、こちらの予測を裏切ることにかけてはなかなかどうして、大したやつである。
筆者がシルバーラットと出会ったその次の日には、彼は再びやる気を出して、ジム通いを始めるようになった。
私は、――彼の精神状態が十分に回復したと判断したある日、思い切って尋ねてみた。
どうして再び、気力を取り戻したのか、と。
すると狂太郎は、このように応えた。
「大したことじゃない。……ローシュに二千万円支払ったから、稼がなくちゃいけないし」
だが、それが理由の全てではないだろう。
仕事は何も、”救世主”ばかりではない。
「そうだね」
すると狂太郎は、唇に人差し指を当てて、他の同居人に気づかれないよう、私をシェアハウスの庭へと誘導した。
「――?」
不思議に思っていると、彼は、適当な木の枝に向かって、カッターナイフを構える。
「見ていてくれ。――《閃光刃》!」
するとどうだろう。
一瞬、彼の持つナイフが金色に輝いたかと思うと、――木の枝が、すっぱりと綺麗にぶった切られたのだ。
なんだかひどい、規則違反を目の当たりにした気分だった。
言葉を失って、私がその木の枝の断面を眺めていると、彼は肩をすくめて、こう言う。
「ことほどさように、だ。
どうもぼくの身体はもう、根っこのところから変質してしまったらしい」
そうしてさらに、訳もなくもう
「あんまり庭で暴れると、大家さんに怒られるぞ」
私が注意すると、彼は力なく、ふっと笑った。
「その程度で済むなら、いいんだけれど」
そして小さく、小声で続ける。
まるで、自身の
「こうなったらもう、とことんまで付き合うしかない。
思えば、もともとぼくは、”ベルトアース”のことだって、ちゃんと面倒をみる覚悟はあったはずなんだ。
わざわざ、”Ver,1.00”と石版に彫ったのだから、……”Ver,2.00”もなければ、道理に合わないからねえ?」
WORLD0091 『不思議の国の終焉』
(了)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(※31)
どうも彼女に、妙な勘違いをさせてしまったらしい。
(※32)
”救世主”たちには異世界の言語が翻訳されて聞こえるから、生の言葉が珍しく感じるようだ。
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