262話 《無》の取得
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「……――それでそのあと、ほとんど訳のわからんまま(※29)”異世界転移者”をローシュに預けて、すぐにこっちへ直帰してきたわけだ」
「ふーん」
私たちはそろって、ぽりぽりとチョコチップ・クッキーを貪る狂太郎を眺めている。
三人を代表して、私は恐る恐る、訊ねた。
「ちなみに、きみの頭の中にある、”ボーイ”の記憶というのは、無事、取り除かれたのかい」
話し中、ずっと気になっていたことがある。
何となく、ではあるが。
ちょっぴり彼の所作が、幼児的、というか。いつもと違う気がしたのだ。
手の動きが、いつもより少し速い、とか。
わずかに食べ方が汚い、とか。
目の動きがそわそわしている、とか。
よくよく注意しなければ気づかない程度の差ではあるが。
「ん。問題ないと思うよ?」
狂太郎は、自身の親指を嘗めながら、応えた。
「頭の方は、概ね良好だ。あの世界を出てから、変な考えも浮かんでこないし――」
そう言って彼は、数秒ほど眉間に手を当てて、
「――おっぱい」
何の脈絡もなく、訳のわからない下ネタを吐いた。
「は? 今、なんて?」
正気を疑って、問い返す。
すると、何故か狂太郎の方がちょっぴり驚いた顔をして、
「ん? どうかしたか?」
「いま突然、『おっぱい』がどうとかって」
「は? 何を言ってる。意味がぜんぜんわからん」
「それはこちらの台詞だ」
そういえば、あの約束はどうなったんだろう。
デバックを手伝う代わり、――”ボーイ”に沙羅の乳を見せてやるって話。
「????」
頭にクエスチョンマークを浮かべる狂太郎に、私はそれ以上の追求を避ける。
話の流れからするとたぶん、約束は反故にされたと考えるべきだ。
それ以上でも、それ以下でもない。きっと。
そこで飢夫が、「はいはいっ」と、元気よく挙手をする。
「ひとつ質問、いいかなぁ?」
「なんだ、飢夫」
「結局、《無》は手に入らなかったってことで、おーけー?」
同じ”救世主”であれば、そこのところは気になって当然である。
「そうだな。――デバックを行った後、あの世界の異常性は全て除かれたはず。その時一緒に、《無》も消えてしまった、……の、だろう」
「だろうってことは、まだ望みはあるってこと?」
「うん。一応、《ゲート・キー》を返した時、ローシュにあの世界の追加調査をお願いしておいたんだ」
つまり、ひょっとするとまだ、あの世界で見つかってない秘密があるかもしれない、と。
「だから、少なくともこの一ヶ月の全てが無駄骨だったとは思わない」
それはどこか、自分に言い聞かせるようだった。
「だが、さすがに今回は……少し、くたびれてしまったよ。しばらくは休みたい。”救世主”の仕事も」
狂太郎は、肺に溜めた空気を、ふーっとゆっくり吐き出していく。その仕草だけで、普段よりも二十は老けて見えた。
確かに、百万円も払った結果がこれでは、彼も浮かばれまい。
精神汚染の影響があるなら、二度とあの世界に行く気にはなれないだろうし。
ベッドへ向かう狂太郎を見送りながら、
――もし私なら、一ヶ月は引きこもるな。
そう思う。
その後の展開は、筆者が想定した通りとなった。
一週間経ち。
二週間経ち。
さらに三週間、四週間経って。
そこまで時間をかけて初めて、彼は再び、同居人の前に姿を現した。
その間、ただの一度たりとも、部屋を出ていない。
ちなみにこれは、それほど珍しいことではなかった。
”救世主”になる前の仲道狂太郎は基本的に、引きこもりに近い生活をしていた。
最近の活躍の方がむしろ、例外的なことであったのである。
▼
ある日のこと。
「ドーナツ、食べに行く。誰か一緒に行くものはいないか」
突如として外出を決意した狂太郎がふと、こんなことを言い出した。
できたてのクリスピークリームのドーナツ。口の中で溶ける、円状の甘味。
今なら奢りで、腹一杯食わせてやる、とのこと。
これには、締めきりに追われていた私を除く同居人全員が参加を表明した。
狂太郎たちがぞろぞろ出て行くと、我が住処はひさびさにがらんとなって。
食堂には、私一人がキーボードをぱこぱこ打つ音が響くばかりとなった。
その後、私の仕事が一段落したくらいの頃合いである。
がたん、ごとん!
と、派手な物音が、無人のはずの室内から聞こえてきたのは。
「ん?」
驚いて、その音がした場所、――狂太郎の部屋へ向かう。彼の部屋は出入り自由となっており、そこには”救世主”としての仕事の報酬が、ざっくばらんに放置されていた。
――すわ、泥棒か?
そう思って扉を開けると、そこにいたのは……宇宙服を思わせる、珍妙な姿の女の子である。
それどころではない。
彼女の背後には、本来あるべきではないところに、業務用の扉まで出現しているではないか。
――あれひょっとして、《ゲート・キー》で創り出した扉か。
見たことはないが、直感的にそうだと判断する。
巨大な金魚鉢を頭に被ったような格好のその娘は、慌てたように両手をぱたぱたさせた後、
「~~~~~~~~~~~、~~~~~~~~~~。~~~~~!」
英語とも、日本語とも違う謎の言語を口にした。
――?
さすがに誰か呼ぼうかと迷ったが、言葉の節々に、
「キョータロー」
というワードが出てきたので、なんとなくその正体を察する。
私は、ガラスの仮面ごしにもはっきりとわかる、――その、端正な顔と、銀色の髪をじっと見て、
「シルバーラット?」
と、訊ねた。
すると彼女は、一生懸命な顔つきでこくこく頷き、両手でハートマークを作って見せたりして、必死に友好的な姿勢を示す。
私もそれに応えるべく、「キョータロー」と、ハートマークのジェスチャーを繰り返すと、彼女は得心したように頷いて、握手を求めてきた。
私はもちろん、喜んでそれに応える。
何せこちとら、異世界人には興味津々だ。小説の中の登場人物と出会って、感動しないわけがなかった。
普通のコーカソイド系の外国人にしかみえない彼女は、どうやら専用の”異世界探査スーツ”的なのを作成して、いまこの世界にいるらしい。
「でもきみ、どうやってこの世界に?」
訊ねると彼女は、絵付きの手紙のようなものを私に差し出した。
その内容を解読するに、
『レッドナイトが、全部用意してくれていた。
彼は”アイテム増殖バグ”を利用して、一度、奪った”ボーイ”のアイテムを増やしていた。
その時、もう一つ作っていた《ゲート・キー》で、俺は今、ここにいる』
とのこと。
さらに彼女は、こう付け加えた。
『それと。一つだけ、ドジソンの伝言がある。
”ボーイ”に、謝っておいてくれ、と』
「――謝る?」
彼女の手紙とジェスチャーを解読しつつ、不器用な会話は続く。
『”ボーイ”がずっと探していた《無》だが。
実はいつでも、”ボーイ”に渡すことが、できた。
《無》は実を言うと、我々の世界の人間ならば、いつでもどこでも、取り出すことができる(※30)。
”崩壊病”を引き起こすだけだから、誰もやらなかったけれど……』
「……ほう」
これには私も、ちょっぴり驚く。
そしてシルバーラットは、事前に用意していたものであろうそれを、……私にそっと、手渡した。
いや。
手渡した、という感覚は、少しおかしい。
強いて言うなら、「所有権を移した」という感じだろうか。
私の手のひらに在ったのは、――不思議と温かい、不定形の”何か”であった。
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(※29)
既に触れたとおり、精神汚染を受けた狂太郎の記憶は曖昧だ。
彼が
(※30)
一応、その具体的なやり方を聞いてみたが、訳のわからん儀式のようなもので、結局意味はよくわからなかった。
まあ、すでに修正済みの事象のようなので、わざわざここで語るまでもあるまい。
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