211話 風呂屋

 二人が再びチェシャの街への帰還したころには、――すでに日は傾きつつあった。


「今日は、この世界で一泊するよ」


 狂太郎が言うと、沙羅は目を丸くして、


「え? いったん帰らないの?」

「ああ」

「……でも、《ゲート・キー》があるなら、いつでも戻れるじゃん」

「わかってる。だがぼくは、《無》を取得するまで元の世界には戻らないつもりだ」


 というのも、一度元の世界に戻ったら、――いま、狂太郎たちが進めているイベントの状況までリセットされてしまう、……そんな気がしていたためだ。


「とにかく、こんな世界は前例がない。ことを進めるなら、慎重にやらなくては」

「……仕事に命、賭けてるのね、あなた」

「好きなんだよ。この仕事が。こう見えてね」

「ふーん」


 沙羅が、少しだけ興味深そうに狂太郎の顔を覗き込む。


「……ま、いいわ。それなら私も、付き合いましょう」

「いいのかい? 仕事は?」

「これも仕事のうちよ。会社には連絡済み」


 給料が出てないのは、どうやらこっちだけらしい。


「わかった。それじゃ、……」


 と、狂太郎は二人分の宿代を、ブラック・デス・ドラゴンに支払う。

 黒竜は、紅いルビーのような目で二人をじろじろと見て、


「男女で同じ部屋になるけど、それでよろしい?」


 女将の直感で、二人が恋仲ではないことに気づいたらしい。


「ああ、そっか」


 この世界、宿は一部屋しかないんだったか。……たぶん、制作者の都合で。

 隣を見ると、


「うふふふふ。私、男と同室とか絶対無理なので。そこはよろしく」


 と、さっそく暗雲が立ちこめている。


「……わかった。では、きみはここで寝る。ぼくは一つ前の街で寝る。それでいいかい」

「良い子良い子」


――言っておくがきみ、ここに来てからずっと、ぼくの足しか引っ張ってないぞ。


 内心、そんな文句を呑み込みつつ。


 やむを得ず、狂太郎は一人分の宿を取り、かつて四人の姫君を押しつけられたラビット城へ戻って、そこの宿で一晩過ごすことになる。

 一人、だだっ広い部屋に横になり、


――別に構わないがこの宿、……チェシャの街の宿と全く同じ構造だな。


 剥げた壁紙の位置から、軋む客室のドアまで、完全に一致していることに気づく。

 ことここに至って、ゲーム制作者の手抜きっぷりに嫌気がさしてきた。


「ベッドが柔らかいことだけが救いだな……」


 どうやらこのベッドだけ、「ちょっと使い込まれた」感じの素材が見つからなかったらしい。シーツも布団も、新品のように清潔だ。


 あとできれば、シャワーがほしいところだが。

 そこまで望むのは、贅沢というものだろう。


「たぶん、家に戻るころには、――すっかり汚れてしまっているだろうな……」


 同居人のみんなに、嫌われなければいいのだが。



 次の日の朝。

 夜明けとともにラビット城を出た狂太郎は、吹き抜ける風よりも早く草原を駆け抜け、――再び、チェシャの街へと舞い戻る。

 すると、宿の前に立っていたのは、なんだかほくほくした顔で、


「お風呂にいこうよ」


 と、誘う沙羅であった。


「……風呂?」

「うん。ゆうべ、ブラック・デス・ドラゴンの女将さんが教えてくれたの。近所に良い風呂屋があるから、夜明けの時間に行っておいでって。風呂は朝しか空いてないんだって」

「へー。意外だな」


 実際、中世ヨーロッパの都市部にもこの手の風呂屋は実在し(※10)、当時の市民は多ければ毎日、利用することができたという。


「仕事する前に、ひとっ風呂行きましょうよ」

「いいねえ。……これまでにきみがした中では、一番良い提案だと思う」

「でしょー?」


 そして二人、肩を並べて、チェシャの街のすぐそばにあるという水場へと向かう。


「……それで、女将さん、ついでにこんなこと、言ってたよ。『一日楽しく過ごしたければ風呂へ行け。一週間を楽しく過ごしたければ刺絡しらく(※11)せよ。一月を楽しく過ごしたければ豚一頭を屠り、一年を楽しく過ごしたければ若い妻を娶れ』ってさ」

「それなら似たようなの、ぼくも聞いたことがある。『一日幸せになりたければ酒を飲みなさい。三日幸せになりたければ結婚しなさい。七日幸せになりたければ豚を殺して食べなさい。一生幸せになりたければ釣りをおぼえなさい』。こっちは中国のことわざだったかな?」

「長くて一年、短くて三日って。……結婚の評価、低くない?」

「たしかに」


 独り身二人、くすくすと笑って。

 益体もない話をしている間に、二人は川縁にある石造りの施設に辿り着いた。

 以前利用した、ヨシワラのマッサージ施設に少し似ているが、流石にこっちの方が少しボロい。


 狂太郎は、もくもくと白い煙が上がっている風呂屋の扉を開き、


「あの。いまから二人。いけますか」


 訊ねる。

 すると、眉のふさふさした、人の良さそうな老人が愛想良く笑って、頷いた。

 二人分の使用料を宝石で支払うと、店の奥に案内されて、石造りの浴槽が三つ並んでいる部屋に通される。

 早朝であったためか、利用者は三人。うち二人は友人らしく、同じ浴槽に入っていて、空いているのは一つだけだった。


――思ったより立派じゃないか。


 これなら、二日分の垢を落とせるぞ。そう思っていると、すぐそばで沙羅が、まるで当たり前みたいに服を脱ぎ始めたので、狂太郎は大いに慌てる。


「きゃあ! えっち!」


 ちなみにこの台詞、沙羅ではなく狂太郎のものだ。


「ふざけてないで、さっさと入りましょ」


 そう言って、沙羅はタオルで身体を隠しつつ、浴槽の脇にある洗い場で、石けんを使って身体を洗い始めた。


――そういえば彼女も、ヨシワラの女だったか。


 あの町の風呂はそもそも男女で別れていなかったし、この世界でもそうらしい。

 なんだかこうなってくると、男女別の風呂がある世界の方が珍しいみたいだ。


――まあそもそもこの娘、裸みたいな格好だったし、そんなに気にならんのかな。


 思いつつ、沙羅の隣に座る。

 燃えるような赤髪が、泡でふわふわになっているのを横目に、


「すまんがその石けん、貸して貰っていいか」

「え、絶対厭だけど。きっしょ」

「……そう」


 異世界人の感覚って、時々よくわからない。



 その後、沙羅と二人で湯船に浸かっていると、


「やあ、旅人さん」


 と、先ほど軽く挨拶した、眉毛のふさふさした店主が木造のテーブルを運んでくる。その上には、赤ワインとチーズ、ベーコンを載せた盆が置かれていて、


「こいつはサービスだ」

「えっ。いいんですか」

「いいとも。――その代わり、ちょいと街の話を聞かせてくれないか」

「街の……?」

「ああ。どうも昨夜からまた、妙な事態になってると思ってね」

「妙な……」

「おうよ。俺たちみたいな”自由人”と違って、都市部の連中はほら……ときどき、おかしくなるだろ」


 一瞬、視線を泳がせて、


「例えば、……街の老婆がみんな、化け物に変身していたり、とか?」

「そう、それ!」


 店主は、テーブルをどんと叩いて、頷いて見せた。


「やっぱりか」

「……ちなみに、前回そうなったのは?」

「そら、二、三年くらい前よ。たしか、あんたらみたいな異人さんが、この辺でちょっとした騒ぎを起こして……その後のことだったかな。そいつも、あんたらみたいに慣れない調子で、うちに来たんだ」

「ほう」


 狂太郎はそこで、沙羅と視線を合わせる。


「ちなみにその人、この後にどこへ向かったんです?」

「そりゃもう、たった一言。『北へ』ってさ」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(※10)

 なお、中世の風呂屋は主に木桶を使った湯浴みと蒸し風呂の二種類があり、後者はパン屋と兼業していたらしい。というのも、パン焼き釜の真上に浴室が設けられていたためだ。客は、パンを焼く熱を利用して蒸し風呂を楽しむ。さぞかし美味そうな匂いの風呂であったことだろう。


(※11)

 経穴に針を刺し、そこから悪い地を直接取り出す医療法。

 たぶん、現代医学的にはあんまりやらない方がいいやつ。


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