199X年12月20日


 翌日は午後からレイノックス王国軍の視察だったので、エレインはゆっくりと眠って、十時過ぎに起床した。昨夜の晩餐会は深夜まで続いたし、その後、エレインはなかなか寝付けなかった。ネイサンに対する自分のひどい態度が頭から離れず、ずっと後悔していたからだ。

 簡単に身支度して寝室を出ると、共有のリビングにネイサンの姿はなかった。ネイサンの代わりに、テーブルの上にメモが残されていた。

 メモにはごく簡潔に、今日の視察はネイサン一人だけになったこと。エレインには一日休養するようにと書かれてあった。

 エレインはメモをテーブルに滑らせると、大きく息をつきながら、ソファに座り込んだ。


「昨日来たばかりで、なにが休養よ」


 ネイサンの意図は明白だ。視察には一人で行きたかったのだ。

 エレインの同行など、彼は望まない。


「なんて露骨な人だろ」


 この仕打ちは、きっと昨日の仕返しなのだろう。


(確かに、昨日はちょっと……言い過ぎてしまったけど)


 つい、ひどい人だと非難してしまった。もしかしたら、ネイサンが自分を嫌うのには、正当な理由があるのかもしれないのに。ネイサンと二人きりで話せる機会があれば、その理由について聞いてみようと思っていたのに。

 昨夜のダンスは、そういった意味でチャンスだった。それなのに、ネイサンのいつもの冷たくて慇懃無礼な態度を前にして、つい本音がでてしまった。さすがに、彼は表情をなくしていた。

 もっと聞き方があったはずだ。昨日の自分のやり方は、あまりにも子供っぽすぎる。まるで、駄々をこねているようだった。

 それに、あんな人目のあるところで、ネイサンが簡単に本音を話してくれるはずもない。いつもどおり、慇懃無礼な態度を崩さないだろうことは予想できたはず。ずばり聞くのではなく、もっと遠まわしに、次の機会のために探りを入れるぐらいがよかったのだ。

 それなのに、ネイサンがあまりにもいつもどおりで、一人で腹を立てて、ひどい人だなんて非難してしまった。


(でも、謝る気には……なれないかな)


 今日、こうして置いて行かれたのは、きっと昨夜の仕返しだ。男らしくない、陰険なやり口ではないか。これならまだ、直接にはっきりと非難するエレインの方が正々堂々としている。と、エレインは自分に言い聞かせた。


「大嫌い」


 そうつぶやきながら、エレインはくしゃっと顔をしかめた。

 それが本心でないことは、自分自身、よくわかっていたけれど。



 午後十時。

 ネイサンは予定を一部キャンセルして、早めに帰ってきた。メモ一枚でエレインを置き去りにしたことが、やはりずっと胸にひっかかっていたのだ。

 扉を開けると、リビングは予想どおり明かりが消えていた。エレインが起きているとしても、絶対にリビングでくつろいだりしてはいないだろうと思っていたのだ。

 ネイサンはリビングの明かりをあえてつけず、暗い部屋の中をバルコニーのほうへと歩いていった。バルコニーは、リビングと二つの寝室につながっている。エレインの部屋の明かりがついているのなら、その明かりがバルコニーに漏れているだろうと思ったのだ。

 バルコニーを覗いたネイサンは、エレインの寝室からもれる明かりの中に、人影を見つけて表情をこわばらせる。一瞬、不審者かと思ったその人影は、エレインだった。

 ネイサンは、エレインに見つかる前に、部屋の中へ戻ろうとした。しかしすぐに、エレインが椅子に座ったまま、眠り込んでいることに気がついて、足を止める。


(あんな所で寝ていたら、風邪をひく)


 この王都はかなり温暖だが、山岳地帯に行けばもうスキーが楽しめる気候なのだ。ひどい風邪をひいて、明日からの日程が駄目になると困る。だから仕方なく行くのだと、ネイサンは自分に言い聞かせながら、バルコニーに出ていった。

 外は、思っていた以上に冷え込んでいた。しかも、テーブルには半分ほど空いたワインボトルと、ワイングラスが並んでいる。酔っぱらってこの寒空の下で眠るなんて、運が悪ければ風邪をひくだけではすまされない。


「エレイン様」


 ネイサンはエレインの肩に手を乗せると、軽く揺さぶった。だが、ぐっすりと眠っているらしく、エレインはぴくりともしない。

 無邪気な寝顔のエレインは、出会ったばかりの頃の、あどけないエレインを思い出させた。


(……もし、あの頃に戻れるのなら)


 ネイサンは何度そう思ったかしれない。

 戻れるのなら。


(絶対に誰にも渡さない)


 エレインの肩に触れている自分の手が、どうしようもなく熱く感じられてきた。いつの間にか、エレインを起こすために肩を揺らしているのではなく、彼女の細い肩に触れたいだけでそうしているように思えてきた。

 ネイサンはエレインを起こすのを諦める。このまま触れ続けてはいられない。それに、ボトルを半分も開けたのだ。お酒に強いとは思えないエレインは、簡単に目を覚まさないだろう。

 エレインの寝室につながるガラス扉を開けると、ネイサンは慎重にエレインを抱き上げた。

 こてんと、エレインの小さな頭がネイサンの肩に落ちる。今日は結っていない金髪が、ふわりとネイサンの肩にかかり、エレインの甘い香りが、ネイサンの鼻をくすぐった。

 ネイサンはしっかりとエレインを抱きしめると、暖かい部屋の中に彼女を運んでいった。ベッドにおろす前、ネイサンはエレインの髪に顔を埋め、一瞬だけぎゅっと強く抱きすくめる。そしてエレインを起こさないように、そっとベッドにおろし靴だけ脱がせると、少し冷えている体にシーツをかぶせた。

 恋愛は早い者勝ちではない。エレインの寝顔を見つめながら、ネイサンは思う。

 だが、自分を含め、エレインもマラカイも、特殊な場所で責任ある仕事をしている。自分の欲望のままにエレインを求めれば、周囲にどれだけ悪影響を及ぼすか。そして何より、マラカイにしっかりと釘をさされたことが、ネイサンの中で大きなストッパーになっていた。

 マラカイは、ネイサンが自覚するよりもずっと前から、ネイサンがエレインを思っていることに気がついていた。そして、自分の想いを自覚して狼狽していたネイサンに、はっきりと言った。

『エレインはもう、僕のものですから』と。そして、マラカイの目は、ネイサンともあろう男が部下の恋人を横取りするような真似をするのかと、そう警告していた。

 この出張に出る前も、マラカイはネイサンに釘をさしに来た。一週間もエレインとネイサンが一緒だというのだから、心配になるのは当然だろうが。


(これぐらいは、見逃してもらわないとな)


 そう心の中でつぶやくと、ネイサンはぐっすりと眠るエレインの薔薇色の唇に、そっと唇を触れさせた。


「おやすみ。いい夢を」


 ネイサン自身は、今夜はもう眠れそうにない。

 ほんの一瞬触れただけだというのに、エレインを求めて体中は熱く燃え上がっていた。この熱は、きっと朝まで冷めないだろう。だがそれでも、ネイサンはエレインにキスしたことを、ほんの少しも後悔していなかった。


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