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199X年12月19日
レイノックス王国・迎賓館。
最も奥まった棟の最上階、ネイサンは警備責任者から詳しい説明を受けていた。
六年前のクーデター時、今の女王を守りきり、王宮を取り戻したネイサンの武勇は、近隣諸国に響き渡っている。今年、三十四歳になった彼は、その武勇に相応しい貫禄と迫力、そして老若男女問わず目を奪う男らしい魅力を兼ね備えていた。若い警備責任者は、間近で英雄と話せることに興奮し、また緊張して、顔を真っ赤にさせていた。
「警報装置はバルコニーの外に設置してありますので、バルコニーにはいつ出ていただいても問題ありません」
リビングの奥のサッシを開けると、外は大きなバルコニーになっていた。テーブルと椅子も設置され、最上階ということもあって景観もよく、ここでのんびり休むことも出来そうだった。
だが、バルコニーはリビングだけではなく、二つの寝室からも出入りできる構造になっていた。リビングを挟んで隣り合う二つの寝室は、ネイサンとエレインが使うことになっている。これでは、バルコニーを通ってすぐに彼女の寝室に行けてしまう。
(鍵をかけさせる必要があるな)
ふうと、ネイサンは密やかにため息をつく。警備しやすいように、ネイサンとエレインの部屋を隣接させるように命じたのは、ネイサン本人だ。
だが、ここまで近い部屋になるとは、思ってもみなかった。隣も隣、同じスイートルームの寝室だけが別だというのはあまりにも近すぎる。
(ここに滞在中、何時間熟睡できるか、非常に疑問だな)
扉二枚向こうにエレインが無防備に寝ていると思えば、きっと何時間でも扉を睨んでいることだろう。
「いかがでしょうか」
難しい顔で黙り込んでいるネイサンに、警備責任者の男は不安げに声をかけた。
「いいだろう。エレイン様を案内してきてくれ」
だが、安全という点ではこれが一番だ。
ネイサンはその事だけを考えるように、自分に言い聞かせなければならなかった。
部屋に案内されてきたエレインは、警備員が退室するのを待って、ネイサンに怒りと戸惑いの表情を見せた。
「どうなっているの? いくらなんでも、ひどすぎるわ」
「仕方がありません。エレイン様も、今回の出張の危険性はよくおわかりかと思いますが」
「だからって、こんな……これじゃ、ほとんど同室じゃない」
「ちゃんと鍵はかかります」
ネイサンは、いつもどおり冷静かつ平坦な声でエレインに応じている自分に安堵していた。エレインも動揺しているが、自分はそれ以上に困っているのだ。その理由を、エレインに知られるわけにはいかなかった。
エレインはネイサンの顔を見上げ、まだ何か言いたげな顔をしている。だが、言うのを我慢しているようだった。きゅっと唇をかみ、顔をそらす。
最近、エレインがこうした態度をとることが増えてきていることに、ネイサンは気がついていた。嫌味を言えば、むきになって反論してきたときもあったというのに、今はただ黙っている。
エレインに目をそらされるたび、ネイサンの心臓はぐっと鷲づかみにされたように痛む。とうとうエレインに嫌われた、愛想をつかされた、もう修復がきかないぐらい、二人の関係は破壊されてしまった。そう思えるからだ。
そう思われても当然のことをしているというのに、そうなればいいとさえ思っているというのに、いざそうなってしまったら苦しくて仕方がないのだ。
(俺は阿呆か)
内心で激しい葛藤をしつつも、ネイサンの冷静な表情は少しも崩れない。エレインが顔をあげてこちらを見てくれたときも、その美しい緑の瞳に心奪われつつも、エレインを冷たすぎる目で見つめ続けていた。
「私の部屋にテロリストが潜んでいるのに気づかず鍵をかけたら、助けてもらえなくなるでしょ。鍵はかけないでおくわ」
さすがに、ネイサンもとっさになんと答えればいいのかわからなかった。
鍵をかけろと強く言うのは簡単だが、それではエレインを一人の女性として意識していると認めてしまうことになるかもしれない。それは困る。
だからといって、鍵のかかっていない寝室の扉を前にして、自分の理性の限界に挑戦するのも、あまりに危険な賭けではないだろうか。
「晩餐会は六時から。五時五十分にここで待ち合わせね。それじゃ」
ネイサンの返事など待たず、エレインは手荷物を取り上げると、さっさと自分の寝室に入っていってしまう。
そして、ネイサンが祈るような気持ちでいくら待っていても、扉に鍵がかけられる音は聞こえてこなかった。
エレインの正式なドレス姿なら、ネイサンは何度も見たことがある。そして、見るたびに思うのは、前回に見たときよりもずっと美しくなったということだ。ここ数年、エレインは今まさに花開こうとしている柔らかな蕾のように、見るたびに美しくなっている。
今夜のエレインも、ネイサンにとって残酷なほどに美しかった。胸の大きく開いたドレスから、真珠のような白い肌が惜しげもなくさらされている。金色の柔らかそうな巻き毛は綺麗に結い上げられ、ほっそりとしたうなじにかかる後れ毛がなんとも艶っぽい。
一緒にいるのさえ苦痛だというのに、主賓であるエレインはホールの中央でワルツを一曲踊る必要があり、護衛兼エスコート役のネイサンがパートナーをつとめなければならなかった。
「久しぶりよね」
ゆっくりとホールドして、ステップを踏み始めると、エレインはネイサンの肩あたりを見つめながらつぶやいた。
「ネイサンと踊るなんて、どれぐらいぶりかしら? もしかしたら、五年ぶりぐらい?」
「……そうでしょうか」
「王宮に来たばかりの頃、ネイサンはとても優しかったわ。私は、あなたが大好きだった」
思いがけないエレインの言葉に、ネイサンは顔をこわばらせた。
「からかうのはおやめください」
「本当よ」
「…………」
「ネイサンに憧れていたわ。私には兄はいないけど、もしいたら、ネイサンのように慕っていたと思う。そういう好き」
エレインがそっとネイサンの顔を見上げてきた。
一瞬、二人の視線はからみあったが、すぐにネイサンのほうから視線を逸らした。
「それにネイサンも、私のことを妹のように思ってくれていたんじゃない?」
ネイサンは答えなかった。
だが、エレインは答えを待つかのように、ネイサンから視線を外さない。真っ直ぐな緑の瞳は痛いほど美しく、その責め苦から逃れるために、ネイサンは口を開いた。
「……恐れ多いことですが」
王宮に来たばかりの頃、エレインは十六という年齢以上に幼くあどけない少女だった。明るく開けっぴろげな性格と、あどけない笑顔が可愛らしいエレインを、近衛軍の男達は妹のように可愛がったものだ。
ネイサンもエレインを妹のように可愛がった。当時、殺伐として血なまぐさかった王宮の中で、エレインに会ってちょっとした話をし、明るい笑顔を見ることは、ネイサンにとって一服の清涼剤のようなものだった。
エレインに恋をしているなど、ネイサンは全く思っていなかった。六年前からすでにネイサンは気軽な恋愛を楽しんでいたが、エレインのように年の離れた初な女性を相手にしたことはなかったし、そのつもりもなかった。だから、エレインに恋をしていたマラカイを応援もした。
エレインとマラカイは、とても似合いだった。そして、二人の間にあるのは、とても淡い想いであることが見ていてわかった。女王も二人を黙認し、二人はゆっくりと淡い恋を確かな物に育てていった。
ネイサンが、エレインへの想いに気がついたのは、二年ほど前。マラカイとキスをするエレインを見てしまった時だった。マラカイの腕の中にいたエレインは、すでに成熟した女性の表情をしていた。理屈ではなく、エレインを抱きたいと感じた。そして、マラカイに対して、痛いほどの嫉妬を覚えたのだ。
「では、今は?」
過去を回想していたネイサンは、現実のエレインに質問を投げかけられて、はっと我に返る。
「失礼。なんでしょうか?」
「今は、私をどう思っているのかしら?」
思わず、ネイサンはエレインの顔を見直してしまった。悲壮なまでの努力を重ねて隠している自分の気持ちに、気づかれたのかと思ったのだ。
だが、エレインの表情を見る限り、気づかれている感じはない。本当にネイサンの本音がわからなくて、探っている顔だった。
「とても有能で魅力的な姫君だと思っております」
「嘘」
「ひどいですね」
「ひどいのはどっち? 気がついてないかもしれないけど、私、日頃のあなたの態度には、ほとほと嫌気がさしているのよ」
それについては、まるで弁解の余地がないので、ネイサンは口を閉ざした。ネイサンに言わせれば、それは仕方がないことなのだ。エレインを求める気持ちは、日に日に高まり、危険なほどなのだから。
以前は、できるだけ二人きりで会わないように心がけるだけでよかった。それが次第に、近くで顔を合わせないように気をつけるようになり、仲良く雑談するのも苦痛になった。
今やエレインの気配や香り、声を感じるだけで、全身の神経がぴりぴりと張りつめる。だから、馬鹿なことをしてしまわないように、必死でエレインとの間に距離を作る。それはもう、習慣のようになってしまった。
しかし、そんな自分の態度が、エレインから見れば非常に不躾で失礼に見えることは理解している。それでエレインが自分を嫌い、エレインのほうから離れていってくれることを、密かに願いつつも恐れているのだ。
ワルツの曲が終わる。二人は何もなかったかのように離れると、小さく一礼した。
「ひどい人ね」
にっこりと、エレインはそう言うと、ネイサンに背を向ける。ネイサンは、それにどう答えればいいのか、どういう表情を作ればいいのか、全くわからなかった。
幸いなことに、エレインはそれっきりネイサンを振り返らなかったので、表情を作る必要もなく、ただ優美な背中をじっと見つめ続けることが出来た。
(本当にひどいのは、あなたのほうだ。エレイン)
胸の中で一人つぶやくと、小さくため息をもらす。
それは自分でも驚くほど、切ないため息だった。
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