第二章

 199X年12月21日


 レイノックスの王子と歓談しながら、エレインは時折、ネイサンの姿を視界に捕らえていた。王族と大貴族、大物政治家だけのごく内輪の晩餐会のため、ネイサンも軍人としてエレインの警護をするよりも、隣国の貴族としての交流に励んでいる。

 十六になってから王家に迎えられたエレインと違って、生まれながら大貴族の子息であるネイサンは、隣国レイノックスにも知り合いが多い。彼の周囲には、すでに大勢の女性が人垣を作っていた。


(見慣れた光景じゃない)


 女性たちに礼儀正しく接しているネイサンの姿に、自分との扱いの差を感じて傷つきながら、エレインは自分にそう言い聞かせる。

 近衛の礼服がとてつもなくよく似合う、長身のがっしりした体格。大柄だというのに、彼の動きはいつも滑らかでどこか優美でもある。一見して黒に見える濃い赤の髪、鋭さを感じさせる濃い青の瞳。貴族らしく綺麗に整った顔立ちだが、決して軟弱さは感じさせない。

 その外見だけでもネイサンが女性にもてるのは当然だというのに、更に彼は女性には常に優しく紳士的。さらに自由恋愛を楽しむタイプだから、彼の恋人の座を狙って接近してくる女性は一向に減らないのだ。


「彼が気になりますか?」


 不意にそう聞かれて、エレインはどきりとした。

 レイノックスのウォルター王子が、いつの間にか間近からエレインの顔をのぞき込んでいた。


「べ、別に」

「顔が真っ赤ですよ」


 言われて、エレインは更に真っ赤になってしまった。そんなエレインを、ウォルターは好ましいという顔で見つめてくる。


「お気持ちはわかりますよ。公爵には人を引きつける輝きがある。男だって彼を無視することなど出来ないのだから、女性である貴女が見とれるのも当然というものですよ」


 こほんと咳払いをして、エレインは王族らしい落ち着きを取り戻そうとする。


「ネイサンは、確かに同じ軍人から尊敬の対象になっているみたいです」

「でしょうね。私も公爵には憧れます」

「本当ですか?」


 エレインは目を丸くしてウォルターを見た。

 ウォルターはネイサンよりだいぶ若いが、レイノックス王国の世継ぎの王子として内外から評価は高い。輝くブロンドの貴公子で、ネイサンに負けない美男子でもある。


「それに少し妬けますね。貴女にあんな風に見つめさせるのだから」


 ウォルターの社交辞令だとわかっていても、エレインはまたしてもさっと頬を染めてしまった。


「そ、そんな、なにも、ないんです」


 小さくつぶやいて、エレインは唇を噛んだ。


「それに、私、彼には嫌われていて……」

「まさか」


 ウォルターは即座に否定し、少し大げさに驚いて見せたが、エレインは苦笑して首を横に振る。


「というか、私はお子様すぎて、対象外って感じなんですよ」


 相手が隣国の王子だということを思い出し、エレインは言葉を濁す。


「実は、昨夜、ワインを飲みすぎてバルコニーで眠ってしまったのをネイサンに見つかって、怒られたばかりなんです」

「おや、それは気を付けないと。夜はだいぶ冷え込んできましたから」

「はい。気を付けます」


 うまくウォルターの興味をネイサンから逸らせたことにほっとしつつ、エレインは今朝ネイサンに謝罪した時のことを思い出して気持ちが沈む。

 エレインの謝罪とお礼に対して、ネイサンはこれ以上ないという冷ややかな態度で、エレインの行為の愚かさを指摘し、今後こういったことはないようにしていただきたいと突き放してくれた。彼の慇懃無礼な態度の奥には、子供のお守りはごめんだという本音が透けて見えていた。

 そもそも、ワインを飲みすぎてしまったのは、ネイサンに置いて行かれて落ち込んでいたから。認めてほしくても、ネイサンの拒絶は取り付く島もなく、子供のように拗ねて落ち込んでしまう。そして、ネイサンはそんな子供のようなエレインに対する評価を下げる一方だ。


(悪循環だわ)


 そっとため息をもらし、エレインは周囲にちらりと視線を移す。

 いつの間にか、ネイサンの姿が広間から消えていた。



「悪い人ね」


 ネイサンの腕の中、グラマラスな美女はくすくすと低く笑っている。


「私は、あなたの都合のいい時だけ、相手をするような女じゃないわよ」

「つれないことを言うなよ」


 ネイサンの顔が白くすんなりとした首筋にうまり、美女は甘い声をあげた。

 二人がいるのは、勿論、晩餐会会場ではなく、会場から出られる中庭の奥まった場所。ネイサンは晩餐会で久しぶりに再会した美女を腕に抱きすくめ、闇の中で情事を始めようとしていた。

 二年前、ネイサンの方から一方的に別れた女性である。別れるといっても、特に結婚を約束していたわけでもなく、お互いに束縛しない自由な付き合いだったのだが。


「ねえ。どうしたの」


 少々強引に外へと連れ出され、それだけが目的のように早速情事を始められ、美女はいささか困惑してつぶやいた。

 ネイサンには元々強引なところがあるが、今夜は強引というよりも、まるで十代の盛りのついた雄のようだ。


「ご無沙汰でね」

「嘘でしょ」


 だが、ネイサンの手は性急で止まろうとしない。


「ちょっと。それなら、部屋に行きましょうよ。こんな所では嫌よ」

「無理だ」

「どうして」

「俺はエレイン姫と同室なんだ」


 美女は軽く目を見張り、そして吹き出した。


「何がおかしい」

「やだ。あなたったら、もしかして欲求不満?」

「何を言って」

「護衛役が姫君に手を出すわけにはいかないわよねぇ。妾腹っていっても、あの姫君は女王陛下のお気に入りだそうだし。さすがのグウィン公爵も、そうそう簡単につまみ食いするわけにはいかないか」

「馬鹿なことを言うな」


 さっと厳しい表情になり、ネイサンは美女の二の腕をぐっと掴んで体を離した。

 本気で怒っているネイサンの視線を受けたが、美女は怯えるどころか、また小さく吹き出した。


「やだ。図星ね」

「クロウディア」

「ねえ。二年前、私と別れるなんて言いだしたのって、もしかしてエレイン殿下のため?」

「違う」

「あなたらしくない、そんな真剣な顔で否定されても、信じられないわよ。やだ。本気なの?」


 くすくすと笑い続けるクロウディアから手を放し、ネイサンはむっつりとそっぽを向いた。

 すっかり忘れていたが、クロウディアはひどくカンがいいのだ。


「違うと言っているだろう。それに、姫君には決まった相手がいる」

「あら。それじゃ、片想い?」

「いい加減にしてくれ」

「ますます、あなたらしくないじゃない。奪っちゃえばいいのに。決まった相手って、あなたが遠慮しちゃうような男なの?」


 ネイサンは大きく息をついた。

 クロウディアはさっきから嫌になるほど、ネイサンの痛いところばかり突いてくる。怒鳴ってしまわないように、本音をもらしてしまわないように、自分をおさえるのが苦しいほどだ。


「クロウディア。君は俺の好みのタイプをよく知っているはずだろう。エレイン殿下はまだ子供だ。大人の恋愛駆け引きなど出来はしない、初なお子様だ。俺がそんな相手を選ぶとでも思うのか」

「それはそうだけど」

「俺が彼女を落とそうとすれば、呆気ないほど簡単にいくだろう。そんな面白みもない、十代の子供のような恋愛を俺が喜ぶとでも?」


 ネイサンは乾いた笑いをもらす。言えば言うほど虚しく、自分が滑稽に思えてくる。

 実際、エレインは子供だ。恋の手練手管にたけた自分がその気になれば、マラカイのような若者から奪い取ることなど……。本当に簡単だろうか。

 エレインの前に立つと、自分がコントロール出来なくなる。あまりにも彼女が愛おしく恋しすぎて。乱暴に奪ってしまいたいと思う反面、彼女を傷つける者は誰であれ自分であれ許せないと思う。強すぎる自分の感情の波に洗われて、彼女の前に立つとむっつりとしかめっ面をしていることしか出来ない自分が、どんな手練手管を使えるというのだろうか。

 これではどちらが子供なのかわからない。どちらが愚かなのか、どちらが不器用なのか。

 少なくとも、エレインを馬鹿にする資格などないというのに、ネイサンはまるで自分を罵倒するかのようにエレインを馬鹿にし続けた。


「残念だが、俺は子供を相手にしない。子供が相手だと、面倒だし、つまらない。それに彼女は若すぎる。まだ子供のような体型で」

「ネイサン」


 ぐっと、クロウディアに腕をつかまれ、ネイサンはようやく口を閉ざす。そして、闇の中、呆然とした顔で立ちすくみ、こちらを見ているエレインの姿に気がついた。

 エレインは今のネイサンの罵倒を聞いていたのだろう。淡い月光の中、エレインの顔は蒼白で、緑の瞳は大きく見開かれ、涙に潤んでいるように見えた。

 そんなエレインの傷ついた姿に、ネイサンは思わず彼女の方へと腕を伸ばし、足を踏み出した。


「あっ……」


 びくりと、エレインが体を震わせる。ぎゅっと閉ざされた瞼の端から、涙が一粒こぼれ落ちた。そして、ぱっとネイサンに背を向けると、瞬く間に駆けだしてしまう。


「エレイン!」


 ネイサンは反射的にエレインの後を追って走り出していた。

 彼らしくない、全く余裕のない必死な形相で。

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