2
ネイサンは何も考えずエレインの後を追い始めたのだが、彼女を追って走る間に、冷静へと戻り始めていた。
時に強すぎる激情に我を忘れてしまう自分をコントロールしようと、長年かかって身につけた強い理性が、エレインを捕まえて何を言うつもりだと、さかんに警告を発していた。
今の言葉はすべて反対で、エレインをおとしめることで自分をおとしめていたのだと白状するのか。エレインの短所ばかりを言い募って、自分の中の燃えさかる恋情を少しでも冷まそうとしていたのだと。恋の手練手管などまるで関係ない、そんなものを楽しむ余裕などない、本気でエレインが欲しいのだと。
(どうしてそんな事が言える。俺は彼女に相応しくないというのに)
いつも、彼女の小さな羽を手折り、彼女の白い肌を貪り、自分のものにしてしまいたいと、そればかり考えている。夢の中で、頭の中で、何度も彼女を辱めた。彼女を思いながら、他の女を抱いたことさえある。
エレインには、年齢相応の恋愛を楽しめる、マラカイの方がずっと似合っている。清純で明るく、初々しい恋をゆっくりと育てていけるマラカイのほうが。
(愛しているにもかかわらず、彼女を汚し、貶めているばかりの俺よりも、ずっと)
「エレイン様」
走り続けるエレインの前に回り込み、肩をつかんで引きとめる時には、ネイサンはいつもの冷静さを取り戻していた。
「宮殿内とはいえ、一人で走り回るのは危険です」
じっと自分を見上げてくるエレインの濡れた瞳に、ネイサンは軽く息をのんだ。あまりにも美しくて、今にも壊れ落ちてしまいそうな儚さがあって。衝動的に抱きしめようとする自分を、必死の思いで押しとどめた。
「ごめんなさい。馬鹿みたいに逃げ出したりして」
平坦な口調でエレインはつぶやくと、肩にのったネイサンの手を振り払うように横を向く。
必死に冷静さを取り戻そうとしているのが、ぎゅっと閉ざされた瞳と、震える唇から見て取れた。
「申し訳ありません。言い過ぎました。彼女は古い友人で、からかわれたものですから。ついむきになって言い過ぎてしまいました。あれは決して本心ではありません。どうぞ、お許しを」
流れるような口調で謝罪し、礼儀の教本のような美しさで頭を下げたネイサンを、エレインは再び泣き出しそうな顔で見つめていた。
「許すもなにもないわ」
エレインは自分で自分を抱きしめながら、つぶやいた。
「あなたの言ったことは、すべて本当だもの。私が子供だということに、ネイサンが謝る必要なんてないのよ」
「そんな風には思っていません。エレイン様はすでに成人された立派な女性です」
「でもネイサンより十二も年下だわ」
「責任あるお立場にあり、同年代の女性よりずっとしっかりされている」
「まだ卵の殻が背中についてるようなひよこが、一人前みたいな顔して政務に携わっている姿は、とても滑稽でしょうね」
「エレイン様。そんな風には決して」
「もうやめて」
エレインはネイサンに背を向けた。
「あなたは国一番の貴族で、お姉さまの幼なじみ。将来はお姉さまの右腕になることが確実視されているし、軍人としての名声も高いわ。ぽっと出の、しかも妾腹の私より、ずっとずっと国の重要人物で血筋だっていい。そんなあなたが、私に敬語を使って、頭を下げる必要なんてどこにもないのよ」
「それは違います」
「いいえ、そうよ。証拠に、六年前、あなたは私をただのエレインと呼んでくれていたわ。妹みたいに接してくれていたのに」
「…………」
「私が成人して公務を本格的に始めるようになってから、あなたの態度は冷ややかになった。それって、お姉さまの可愛い妹としてマスコット扱いするにはいいけど、王妹として仕事をするには、私なんか相応しくないと思っているからでしょう?」
勿論、そんなことはない。だが、本当のことはとても言えない。
どうするべきか迷う間に、エレインはネイサンに背を向けたまま歩き出してしまった。
「エレイン様」
この場から立ち去ろうとするエレインの背中に、慌てて声をかける。
だが、エレインは足を止めなかった。
「遠くには行かないから。少し、一人にさせてください」
ネイサンは、力なく肩を落としたエレインの後ろ姿を、見送るしかできなかった。
エレインが振り返っていれば驚いただろうほどの、ひどく切ない表情で、彼女の去っていく姿を凝視していた。
自分の態度をエレインがよく思っていないことはわかっていた。いずれ修復不可能なほどに嫌われるだろうと覚悟もしていた。
だが、エレインはネイサンを嫌うのではなく、嫌われる原因が自分にあるのだと、自分自身を卑下し、傷ついていた。
エレインはもっと自分に自信を持っていると思っていた。女王の可愛い妹というだけではなく、エレインが頭のいい仕事の出来る女性であることは、王宮で働く者なら誰でもよく知っている。関係者の間では、容姿はまるで正反対だが、有能なところはさすがに女王の妹だと評判になっているのを、エレインは知らないのだろうか。ただのマスコット人形になど、今回のような重要で難しい仕事が回ってくるはずないと、どうしてわからない。
『あの子には居場所がないのよ。少なくとも、本人はそう思っているわ』
エレインの姉である女王の言葉を、ネイサンは思い出していた。
前の王妃は、気位の高い気むずかしい女性だった。時代錯誤的な血統主義者でもあって、平民の女が産んだ娘を王家の一員として迎え入れるなど、絶対に出来ないと公言してはばからなかった。
結局、エレインの母は産褥で死亡し、国王もエレインを認知することもなく、エレインはそのまま里子にだされた。里親の元で不幸だったわけではないが、そんな生い立ちを知れば、自分が生まれるべきではなかった邪魔者だとエレインが思ってしまうのも、仕方がないのかもしれない。
それに実際、前国王が正式にエレインを認知しなかったため、エレインの立場は今も微妙なのだ。現女王が正式に妹として王宮に迎え入れているが、それが出来たのもクーデター後の混乱状況だったからともいえる。だからこそ、エレインは必要以上に頑張って、王宮内で自分の居場所を確保したかったのかもしれない。
そして、ネイサンの冷たい態度は、エレインを王妹として認めていないからだと誤解させた。エレインの自信を喪失させているのは、他の誰でもない、ネイサンなのだ。
「ははっ……」
喉の奥で、ネイサンは低く嗤う。
エレインを苦しませるつもりなどない。
誰よりも愛おしい人を傷つけていると思うと、自分自身を抹殺したくなる。
だが、エレインの中で自分がそれほど大きな存在だと思うと、それだけの影響を与えられるのだと思うと、暗い喜びがふつふつと湧いてでてくるのを止めることも出来なかった。
「なんて汚い男だ、俺は」
エレインを思えば思うほど、自分がどんどん汚くなっていく気がする。なぜだろうか。エレインはあんなにも清らかで美しいというのに。
神が、彼女はお前には相応しくないのだと、警告してきているのだろうか。警告するぐらいなら、もっときちんと守ってやればいいのだ。あんなに美しい生き物を放置しておくほうが悪い。化け物に狙われるのも当然ではないか。
「!」
その時、エレインの甲高い悲鳴が暗い庭に響いた。
悲鳴と同時に、宮殿内から急を知らせる警報が高らかに響き始める。
ネイサンはエレインが歩き去ったほうへ、全力で走り出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます