「馬鹿にしないで! どこまでも子供扱いなの? いい加減にしてよっ」


 エレインが泣きじゃくり、どんどん興奮していく様子に、ネイサンは肩をつかんで落ち着かせようとした。


「はなして!」


 ネイサンの手を乱暴に振り払い、エレインはネイサンを睨んだ。エレインは興奮しているというより、激高していた。


「どうしてそんな思ってもいないことを言うの? 私が初めてだったから? 責任を感じて? 馬鹿にしないでっ!」


 そして、エレインが怒っている理由は、ネイサンが思ってもいないことだった。


「私はお子様じゃないわ。自分がしたことがなんだかわかっているし、ちゃんと自分で責任を持つわ。当然でしょう」

「エレイン様……」

「ネイサンが責任を感じることなんて、何もないわ。むしろ、今回のことは私が謝るべきなのよ。……ごめんなさい。凄く、反省しているわ」


 唇を震わせるエレインを、ネイサンは呆然として見るだけだった。あまりにも予想外の展開に、頭が話に着いていけない。


「私が初めてだなんて思いもしなかったでしょ? わざとあなたにそう思わせたんだもの。あなたを騙したのよ」

「……なぜ、そんなことを」


 エレインはとても悲しそうに、そして自嘲げに、口の端を上げて笑って見せた。


「わからないの? 簡単だわ。私、あなたに抱いて欲しかったのよ。初めてだって知っていたら、抱いてくれなかったでしょう?」


 ネイサンはひどく混乱していた。エレインが話している言葉は聞こえていたが理解できずにいた。


「本当にごめんなさい。あなたがこんなにショックを受けるなんて思ってもいなかったから」

「違う。謝るのは俺のほうだ。俺はあなたを愛していたから」

「もうやめて。そんな嘘、なんの慰めにもならないわ」

「違う」


 ネイサンはぶるっと頭を振ると、この事態を頭の中で整理しようと努力した。

 今、もの凄く大切な会話をしている。その自覚はあるのに、まるで頭が働かない。それがもどかしい。


「俺はあなたを」

「恋人がいるのに、他の男と寝るような女を愛しているの?」


 対して、エレインは冷静に戻りつつあるようだった。


「あなたが私を抱いたのは、私が一晩だけだと了解していたからよ。一晩だけの恋愛を楽しめる女だと思ったから。あとくされがないから。愛しているからじゃないわ」

「違う」


 否定しながら、ネイサンは自分の言葉がエレインに伝わらないもどかしさに、握り締めた拳を震わせる。


「心配しなくても、今後、あなたにしつこく絡むようなことはしないわ。勿論、誰にも言わない。今度のことで、あなたの迷惑になるようなことは絶対ないと保証するから」

「迷惑だなんて」

「それから、マラカイに対して罪悪感を持つこともないの」

「マラカイ……?」


 正直、マラカイに対する罪悪感などまるで持っていなかったネイサンは、なぜここにマラカイの話が出てくるのか、すぐに理解できなかった。


「私達、実はずっと以前に別れているの」

「……別れて?」

「別れたんだけど、ずっとまだ付き合っているふりをしていたの。そのほうが私に言い寄ってくる男性を牽制も出来るからって、お姉さまが。それに、マラカイって、王宮では人気があるでしょ? 私なんかよりもずっと。だから、付き合っていることにしたほうが、私に対する風当たりも弱くなるだろうって言われて。……マラカイも賛成してくれたから、私が甘えてしまったの。それで、お互いに好きな人ができるまでは、続けようっていうことに」

「アンドレアめ」


 ぐっと奥歯をかみしめて、ネイサンは怒りを抑えた。女王アンドレアは、エレインからネイサンを遠ざけたかったに違いない。大切な妹を、ネイサンに持って行かれる危険を少しでも減らしたかったのだろう。

 マラカイだって同じことだ。別れたといっても、マラカイは未だにエレインを愛している。二人ともネイサンの気持ちを知って、エレインを奪われたくなくて、共謀したとしか思えない。

 二人の策略にまんまとはまっていた自分が腹立たしい。悔しくてたまらない。エレインがフリーだと知っていれば、思いを抑えて焦れることもなく、抑えきれずに爆発することもなく、こんな風にエレインを傷つけることだってなかったかもしれない。


「そろそろ三十分たつわ」


 これで話は終わりだというエレインの態度に、ネイサンは我に返った。

 このままここを出たら、エレインとの関係は修復出来ないほど悪化してしまいそうに思える。今のままでは、ネイサンがエレインを抱いたのは、ただのちょっとした火遊びだったということになってしまう。


「エレイン、待ってくれ。俺は」


 だが、エレインに愛していることを信じて貰うためには、本当の本当を話さなければならない。それに気が付いて、ネイサンは躊躇してしまう。

 エレインが他の男を愛していても構わなかった。心が手に入らないなら、体だけ手に入れようと思った。極上のセックスをして、エレインに自分の体を忘れられないようにしようとした。そんな獣じみた、あまりにも醜い自分の本性を、告白しなければならないのだ。

 とてもではないが、出来ない。自分自身でさえ醜いと、最悪の男だと思っているというのに。この告白を聞いたエレインが、自分をどう思うか、想像するまでもないと思えた。

 だが、告白しなければ、エレインは絶対に愛しているという言葉を信じてはくれないだろう。


「ネイサン?」


 言葉を失い、呆然と立ちつくすネイサンを、エレインがいぶかしげに見つめる。

 何か言わなくてはと、ネイサンは場つなぎに適当な事を口にする。


「あなたは……、あなたは、なぜ、俺に抱かれたいなんて」


 エレインは驚いたように、軽く目を見張った。

 そして、ネイサンの顔をまじまじと観察し、ネイサンが本当にわかっていないことを確認すると、小さく吹き出した。


「あなたは、私に何もかも白状させたいのね」


 何もかも白状できない男は、その言葉にぎくりとした。


「私、あなたを愛しているの」


 まっすぐに自分を見つめてくるエレインの瞳を、ネイサンは信じられない思いで見つめかえしていた。

 緑の大きな瞳は、びくりともせず、ネイサンを見つめている。その瞳に嘘はないように思えたが。

 そんなことは、到底信じられなかった。

 ネイサンは自分の喉をつかみ、あえぐような声を上げる。


「……嘘だ」

「本当よ」

「あなたは……あなたは、何も知らないじゃないか」

「何を? あなたのポーカーフェイスに隠された本当のこと?」

「…………」

「私はすごく知りたかったけど、ネイサンは決して私に本当の顔を見せてはくれなかった。私に対して本気になってくれなかった。だから、抱かれたいと思ったの。そうしたら、あなたの本気を知ることが出来るかもって」

「本気?」


 それはこの、どろどろに黒い、醜い想いのことだろうか。


「でも、駄目ね。自分を偽ってこんなことをしても、うまくいくわけがないわよね。ますます、あなたに子供だって嫌われちゃったわ。感じなくてもいい責任さえ感じさせてしまって。ごめんなさい、ネイサン。本当に申し訳なく思っているし、反省してるけど、……後悔はしてない。私、昨夜のことは一生忘れないわ」


 エレインは落ち着いていた。冷静で、どこか開き直っているように見えた。

 対して、ネイサンは次第に速くなっていく鼓動に、額にびっしりと汗をかき始めていた。


「俺は、……汚い男だ。手段など選ばない、醜く」

「そして私は綺麗だと言うの? 手段を選ばないのは、私も同じだわ。自分の欲望を満たすためだけに、あなたを騙した。あなたを騙して、抱いて貰ったの」

「違う。俺が君をたぶらかして」

「たぶらかされてなんかない。私が望んだの。一度だけでもいいって。初めてはあなたがいいって」


 ネイサンは震える手で口を覆った。


「私のほうが、ずっと汚くて手段を選ばない、最低の女だわ。でも、そうしてでも、あなたを知りたかった。本当のあなたを」


 ぎゅっと、ネイサンは目を閉ざした。大きく息をつく。そして、目を開き、エレインをまっすぐに見つめる。

 だが、ネイサンが口を開こうとしたとき、遠くから騒々しい音が聞こえてきた。

 それが何の音か、ネイサンはすぐに察知すると、窓に走り寄る。


「なんなの?」


 緊張したネイサンの様子に、エレインが抑えた声で聞く。


「ヘリだ。こちらに向かってくる」


 こちらにヘリコプターを向かわせるという連絡はない。味方でなければ、こんな所にこんな天候でヘリを飛ばすのは、エレインを誘拐したテロリスト以外には考えられない。


「ここを出ます」

 そうエレインに告げ、ネイサンは手早く脱出の準備を始めた。

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