はっと目が覚めて、エレインは自分が眠っていたことに驚いた。

 あれほど緊張して神経を張りつめさせていたというのに、よくも眠ることなど出来たものだ。


(私って、案外、図太いのかしら)


 何時間眠っていたのだろう。とにかく、捕らえられてかなりの時間が経過したことには間違いがなさそうだ。喉はひりひりするぐらいに乾いているし、お腹はぐーぐー鳴っているし、トイレを我慢するためには始終身動きしなければならない。そして、日が昇ったおかげで、真っ暗闇だった周囲の様子がわかるようになっていた。

 小さな山小屋のように見えた。エレインは部屋の中央近くの柱に、両手首を拘束したロープでつながれていた。ロープには少し余裕がもたれていたので、エレインは柱に這いよると、手首を縛っているロープを柱の角に何度もこすりつけ始めた。手首が血を流しだし、摩擦熱が耐えきれないほど熱く感じるようになった頃、ようやくロープが外れる。即、エレインは、部屋の奥にある扉に駆け込んだ。そこは、エレインの希望と予想どおり、トイレだった。

 差し迫っていた欲求を満たすと、エレインはようやく落ち着いて部屋の中を見回すことができた。

 息が白くなり、埃臭い空間に浮かび上がる。狭い部屋の中には、他に誰もいない。いた形跡もなかった。すべてにうっすらと埃が積もっていて、この小屋が長く使われていなかった事を証明している。

 そして、部屋の中はかなり寒く、眠っていたエレインの体は冷え切ってしまっていた。エレインは両手で薄物のドレスの腕を何度もこすったが、とってもそれでは暖かくはならなかった。

 外への扉だろう所から、細い光が射し込んでいる。エレインはまずその扉へ近づくとノブを回してみたが、扉はびくともしなかった。どうやら外から扉は固定されているらしく、内鍵をあけても変化はない。それなら窓をと思ったが、やはり外から固定されていて、中からは開けることは出来なかった。

 大きな暖炉は長く使われていないらしく、燃えかすさえもほとんどない。エレインは思い切って、暖炉の中に頭を入れて煙突の上を覗いてみた。ずっと上の方に、ぽっかりと四角く切り取られた空が見えた。そして、ひらひらと降ってきた雪粒が、頬について溶け落ちた。


「……雪?」


 冬もかなり深まってきているが、レイノックス王国王都で、ほとんど雪は降らない。


「ここ、どこ?」


 答えてくれる人などいないが、エレインは思わずそうつぶやいていた。



 ネイサンはひどく難しい顔で黙り込んでいた。腕を組み目をぎらぎらさせ、黙って座っているだけで、ネイサンには周囲を落ち着かなくさせる迫力がある。直属の部下でさえそうなのだから、素人の山岳管理人は目に見えておろおろとしていた。


「操縦は俺がやる。ヘリを出してもらおう」


 低い声でネイサンが言う。

 管理人は、脂汗を流しながらも、必死の面もちで首を横に振った。


「それは出来ません。ここはそれほどではありませんが、山の上のほうはすでにひどい吹雪なんです。ヘリは絶対に飛ばせません」

「俺なら飛ばせる」

「無理です」


 ネイサンに睨まれ、管理人はひるみ一歩後ろに下がった。だが、彼の職業意識はかなり高いようで、そこで踏みとどまると、自分を鼓舞するかのように強い口調で話し始めた。


「確かに、おっしゃられるポイントに山小屋は存在します。ですが、登山ルートが変更になった関係で、もう何年も使われていないんです。そこに山小屋があることを知っている者は、ごくごくわずかですし、ルートもかなり荒れています」

「だから、テロリストどもが目を付けたんだ」

「そうかもしれませんが、そうじゃないかもしれないじゃないですか。私は知らない可能性のほうが高いと思います。それにですね、何度も言いますが、現在、山頂付近は大荒れなんです。ヘリは絶対に出せません」


 ネイサンは再び黙り込んだ。

 エレインの秘書官サラが知らせてきてくれたのは、エレインがいると思われる位置の情報だった。こういった事態に備え、エレインは超小型の発信器を指輪に隠して持っている。発信された電波は軍事衛星がキャッチし、エレインの現在地を割り出す仕組みになっているのだが、まだまだ開発段階のそれは、精度があまりよくない。しかも、小型に作ったため電池の大きさに限度があり、発信は十二時間に一度だけなのだという。

 衛星が割り出したエレインの現在地は、レイノックス王国の山岳地帯だった。近辺を調べてみると、使われていない山小屋の存在が確認され、ネイサンはそこにエレインが監禁されている可能性が高いと判断した。

 テロリストがエレインのために防寒具を用意したとは思えない。そして、その山小屋周辺は朝からの吹雪で、かなり冷え込んでいる。遅くなれば遅くなるほど、エレインが凍死する可能性は高くなる。テロリストがアンドレアを脅したように、エレインはゆっくりと死へ向かっているのだ。


「ヘリが駄目なら、スノーモービルを出してもらおう」

「道を知らないのに、この吹雪の中、たどり着くのは無理です」

「やってみなければわからない」


 ネイサンはきっぱりと即答する。

 死ぬ気になれば、出来ないことなどほとんどない。エレインのために、吹雪の中出ていくことなど、どれほどのことでもない。

 このまま、彼女を見殺しにするようなことになったら、一生後悔し続ける。これほど欲しいと願った女性はいなかったし、これからも現れないだろう。


(それなのになぜ、俺はエレインを諦めようとした?)


 自分の立場や地位を考慮して? 後輩のマラカイに遠慮して? 世間の批判を危惧して? それとも、彼女の拒否を恐れて?

 日頃、周到に隠している自分の本性。仮面を取りさり、なりふり構わず必死になる醜い自分を、彼女に見られるのが怖かったからかもしれない。


(だが。この暗い感情こそ、どす黒い欲望こそ。……俺らしい俺なのではないか)


 黙り込んでいるネイサンの無言の圧力に、管理人は勿論、その場の者は誰もが緊張を強いられていた。その場の沈黙が重苦しいほどになった時、扉が大きな音を立てて開かれた。


「ネイサン様!」


 血相を変えて飛び込んできたのは、エレインの恋人、マラカイだった。

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