ウンディーネ

 エルカンドの会計士ナヴィドが記した、交易商人フォルーハルと、鳥の人レテの物語。


 西天連峰に雪が掛かれば、エルカンドも間も無く冬である。商隊は南に舵を取らねばならない。その年、フォルーハルとレテが戻ってきたのは、道にも冷たい風が吹きおろす夜だった。荷を解くのを手伝ってやり、レテは直ぐに暖かい毛布へ潜り込んでしまったが、フォルーハルには湯と毛織の寝着を用意してやる。贅沢ができるほど儲かってはいないが、小さな家を寒さから守るくらいの蓄えは有るのである。


 ソファ室にランプを下げて、所狭しと広げた貨物と記帳を確認していると、レテが間口から青白い顔を覗かせた。


どうした、寒いなら行火あんかを入れてやろう

風の音が泣いてるみたいに聞こえる


 いつの間にか強健に育ってしまった背中を丸めて、ソファの角に腰掛ける。どこかぼんやりとしているのは眠たいためか、何か思い出しているためか。秀麗な目鼻立ちをこちらへ俯き加減に向け、ぼそぼそと躊躇いがちに言う。


ナヴィドも寝よう


 私は呆れた。この家には寝室が二つある。来客用はフォルーハルの常宿だ。この養い子は、少年の姿の時から、私の床を占拠している。旅に出ている期間が長くなったので今のところ不都合は無いが、己れの図体を考慮してほしい。以前のように枕を並べては無理が有る。


俺はここでやることが有る。疲れているんだろう、早く休め

待ってる


 いつもなら眠気に勝てず、うつらうつらと床に入って、私のことなどお構いなしなのに、今夜は頑なである。伸びた前髪が、孔雀石の瞳にランプの影を落として、ゆらゆら揺れている。私は溜め息を吐いて、帳簿を閉じた。レテの隣りに座ると、あちらこちらに跳ねた癖毛をかき混ぜる。


大きな子供だな。野宿の方が余程恐ろしいだろう

違うよ、ナヴィド。帰ってきて、この家が暖かいから、いつか無くなってしまうのが怖いんだ


 冷たい頬で、レテは旅先の話をしてくれた。


***


 煤海バイカイを回り、スタインベルク高原を越えると、啓典同盟諸国の領域である。啓典同盟は、対術士・対騎士戦争のためヒトの国々が連合した地域共同体の一つだ。分裂と集合を繰り返すのが常であるヒトの国々のなかでも、かなりの長期間安定的に運用されており、そのため産業と文化がよく栄えていた。


ほう、バイマルには赴かなかったのか?

今回は眠海ミンカイに沿って移動したんだ


 バイマルは啓典同盟諸国の中心的な都市の一つである。宮廷が置かれ、華やかな文化施設が競い合う。眠海ミンカイ、私は呟いた。スタインベルク高原を北上したのか。啓典同盟諸国でも周辺の、独自の習俗がまだ色濃く残る土地である。積まれた書籍を横目で見、確かにあの辺りの伝承や研究書が多いな、依頼主たちに届ける前に読ませてもらおうか、と考える。フォルーハルが各地で商うのは書籍である。事務会計を手伝っている私は、誰よりも先に貴重な資料を見ることができるのだ。


それでは寒かっただろう

雪が降る前に引き返してきたから。空が澄んでいて、枯れ草が柔らかかった


 海岸は入り組んでおり、岩の多い入江やラグーンの波は穏やかだ。水は冷たく透明で、底に散らばった丸い石が陽光を弾くのまで見えるようだった。丘や崖には海風に耐える低木が閑散と立ち、痩せた下草が硬い地面を這っている。野生の山羊が風の中を跳ぶように駆けていく。歴史を紐解けば−この土地は狩猟と海産物の海上貿易に栄えた古代王国であった。だからこそ、豊かな伝承と民謡、多くの古跡、手工芸に優れた独自の文化を築いている。だが現在はこの複雑な地形と、啓典同盟の周縁であるために、前線から逃れてくる者たちの隠れ里のようになっていた。


 次の街まで暫くの旅程となり、海岸線を歩いて風の凌げる野営地を探していたところ、レテはその老人に出会った。


見ない姿だな。同盟の人間ではないな?


 燃料代わりの海藻を集めようと、小さな入江を歩いていると、岩場の陰で小舟を引いている老人がいた。潮風に洗われた白髪は縮れ、砂っぽい皮膚は深く皺が入り硬そうだ。青く膜が張って濁ったような目が、しかし、しっかりとレテの姿を捉えた。


同盟の者ではありません。ヒトでもありません

術士にしては威勢が無さすぎる。騎士にしては情が有りすぎる

牙も羽根もありません。そういうふうに生まれてきてしまった


 フォルーハルとレテが旅の商人であり、野宿をするつもりだと聞いて、老人は己れの小屋に招いてくれた。岩場に囲まれた草地に、流木と幌でできたその小屋はあった。風が防げて有り難いと、フォルーハルは礼を言った。老人は干し魚を焼き、ミルクのスープをご馳走してくれた。一晩の宿代に、他の国の話を聞かせてほしいと老人は言った。人里から離れた入江に住み、魚を獲って少しばかりの穀物を植え、時折村の市場へ干し魚や貝を売りにいく。それだけの生活だが、老人はフォルーハルの話を熱心に聞いた。


 ところがその晩から嵐になった。岩に囲まれているため小屋の周りは難を免れているが、丘陵では木々の枝も引きちぎられるような風が吹き荒ぶ。老人はフォルーハルとレテがその日も滞在することを快く承諾してくれたが、ごうごうと鳴る風にまるで魂を乗せて浮遊してしまっているように、虚ろな面持ちになっていった。


子どもが泣いているのだ、聞こえるか


 老人はレテに言った。こんなところに子どもがいる訳がない。レテはそう思ったが、小屋の霜ついた床板に敷かれている綿入りの布には、色褪せてしまってはいるが子どもの服の端切れが縫い込まれているように見えた。か細く揺れる蝋燭の光が、暗がりよりも遠くを見る老人の瞳に映っていた。


 翌朝は晴れた。あまりの静けさに、レテは陽も昇り切らないうちから起きてしまった。フォルーハルはいつも通り微動だにせず眠っているが、老人の姿が無かった。レテは訝しんで小屋を後にし、入江に向かった。肌に冷気がさらさらと流れ、平坦だが銀を撒いたように澱んだ水面には霧が揺蕩い、その中で老人が舟を出そうとしていた。砂利を踏んで現れたレテに驚きもせず、老人は乗るかね、と無表情に尋ねてきた。


 ゆっくりと小舟は漕ぎ出した。波紋が音も無く広がっては、霧の向こうへ消えていく。老人は舟頭で真っ直ぐに前を見ているが、視界はどこも白くもやがかっていて、レテには何も見えない。やがて舟は、入江に点在する小島の一つに着いた。島と言っても、岩のかたまりを僅かな草木が覆っているばかりだ。海鳥や海獣たちが巣を作っているが、嵐に流されてしまったのか、その時は全く生き物の気配がしなかった。舟を降りて岩場を上り、露を払って薮をかき分けると、足元に何かぶつかった。


誰かここに住んでいたのですか


 苔むした石が円形に並べられているものは、炉の跡だろう。潮風に朽ち果ててはいるが、流木でつくられた腰掛けかベッドのようなものも有った。黒く濡れて露出した岩肌に、規則正しく幾つもの刻んだ跡を見つけて、レテは凍える指先でそっと撫ぜた。


それは暦だ。北の地は昼と夜が曖昧だからな


 老人は傍の木の枝に括り付けられた編紐に手を伸ばした。幾つもの美しい貝が紐に通されており、冷たいもやのなかで鈍く光ってしゃらしゃらと揺れた。


毎年子どもが生まれた日を、こうして数えていたんだ


 優しくそれに触れて、老人は洞から湧くようなしわがれた声で、教えてくれた。


***


 その女は赤子を連れてやってきた。婚姻したばかりで夫は招集され、赤ん坊の顔を見ることも叶わず、騎士軍との戦いに駆り出された。女はそれでも僅かばかりの田畑を耕して家を守ったが、村は焼かれ、着の身着のまま赤子を抱いて逃げ出した。


夫を探しているのです


 岩場の影に座り込んでいる女を老人が見つけた時、赤子はもはや泣く力も無いようだった。母親は泥と垢で汚れた細い腕で子どもを抱き、乳を飲ませようとするが、肋骨の浮きそうな胸は冷え切っていた。


 老人は母子に魚のスープをつくってやり、二人は何とか息を吹き返した。女は村を出てから前線まで行ったが、同盟軍は敗退の色濃く、多くの兵士たちが負傷して後方に下げられているか、逃げ出していた。尋ねども尋ねども、夫の行方は分からない。打ち捨てられた屯所を渡り、塹壕をくぐり、急襲の警鐘と雷鳴の轟音に慄きながら、女は夫を探し続けた。誰かが、夫は眠海を目指して離脱したと言った。


 それから女は、入江の小島に身を隠して、海岸線を彷徨い始めた。波で洗われた岩場を裸足で歩き回り、小さな子どもを背に括り付けて崖を這い、草原を横切り、ラグーンに浸かって髪を梳き、やがて言葉も感情も忘れてしまったようだった。冷たく静かな海がそうさせるのだ。愛しいものへの思いだけをこごらせて、魂を嘆きに溶かしてしまう。


 赤がねに染まる地平の片隅から遠雷が聞こえ風が強くなり、老人は小島から母子を引き取り岸に上げようと舟を出した。海面は鳴動し、木々がざわめいてしなり、小島を取り巻いて海鳥たちが舞い上がりけたたましく叫んでいる。岬を割るような風の一閃に嬲られ、老人はいつもなら勝手知ったる入江の上で立ち往生した。鉛のようだった空は途端に暗く濁り、疾走する獣のような風が何もかも薙ぎ倒し、遠吠えに水が激しく震える。


ウンディーネ


 泣き叫ぶ子どもを抱えたまま、女は髪を振り乱して岩場を駆け降り、打ちつける波に踏み込んだ。近づくことのできない老人は驚嘆して目を見張った。女は、渦の中を脚から腰へと沖に向かって沈みながら、夫の名を呼びながら、水になっていった。白い肌が銀に透けて、榛の髪は飴のように崩れ、輪郭が波に混ざって風に煽られ水滴しずくを飛ばす。水の化身、ウンディーネ。愛されて初めて人になれる、愛を失えば水に還る。


戻れ、子どもを道連れにするな


 老人は我に返り、櫂を掴んだまま水へ飛び込んだ。女は、はためく水の中を躍るように遠ざかり、子どもの泣き声は次第に弱まっていく。老人は一気に潜って手を伸ばしたが、指の間を通り抜けるばかりで捉えられず、烟った水の向こうから響く子どもの啜り泣く声を聞きながら、遂に波に呑まれてしまった。


***


 隣りに座る私を頼りなげな視線で見つめて、レテは恐る恐る言った。


ナヴィド、俺の知らないうちにいなくなったりしないでね


 戦争でも自然災害でも病気でも貧困でも、人はあまりに呆気なく別れ別れになる。ずっと共にいられることをどれほど望もうとも、辿り着く先は誰にも分からない。二度と会えない大切な者を思い続ける苦しみこそ、地獄に違いない。


彼は一体誰だい?


 私の問いかけに、レテは目を瞬かせた。


彼って?

お前が話をしたのは、彼女を助けようとした老人じゃない。数えた子どもの歳は、幾つになっていた


 レテは、はっと気がついたように、私の腕を掴んだ。


そうだ、そんな以前のことなら、俺が会ったのは誰なんだ

……その女と子どもを思い続けて、老いてしまった男だろう?


 ああ、とレテは呻いて私に縋った。では、あれは誰の話なんだ。戦で夫を失った女の話か、戦から逃げ帰っても妻を取り戻せなかった男の話か、その子どもはどこへ行ってしまったのか。


 冷たい海は、誰にも知られず流された数多の涙でできているのだ、と伝説は言う。


 竦んでしまった頑丈な背を撫ぜてやり、大きな子どもに私は囁く。


残念だが、私もいつかは別の道をいく。お前は忘れていいし、思ってくれてもいい。ヒトはそうして生まれて消えるのだ。その無価値を知ることしかできず、変えることはできない。だがね、無価値で何が悪い


 私が記録するのもちょっとした悪足掻きだがね。さあ、早く眠れ。明日は一緒に市場へ行こう。声を弾ませてやっても、子どもはしがみついて立ち上がることもできない。


何をしている


 湯を浴びたフォルーハルが部屋に入ってきた。頭髪と髭を整え、歴戦と旅に鞣された体躯の熱が、ゆらりと揺れて見えるようだ。今宵もまた、生きて帰ってきて僥倖である。


なに、寝物語で怖がらせてしまったようだ


 私は動けないまま、苦笑した。フォルーハルは僅かに眉根を顰めて踵を返すと、寝室から毛布を抱えて戻ってきた。私の側に腰掛け、男三人の上に広げる。私は呆れて二人を交互に見た。


どうしたんだ、君もレテも。旅は君たちの生業なりわいだろう

今回は寒かったからな。仕方がない


 身長差があるため窮屈な腕を私の背に回し、フォルーハルは毛布を被って目を瞑ってしまった。私はなんとかレテを毛布の端で包んでやり、溜め息を吐いた。やれやれ、雑魚寝など軍時代以来である。


寒いと、昔ナヴィドが隣りで寝ていたことを思い出す。それが一番温かくなれる


 眠りに落ちながら、レテが呟いた。

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