薊の頃

 エルカンドの会計士ナヴィドが記した、交易商人フォルーハルと、鳥の人レテの物語。


 書籍を扱う交易商人であるフォルーハルと養い子のレテがエルカンドへ戻っているうちに、次の旅の準備をしてやるのも私の務めである。


 庭で薬草を集めているとレテがやってきて手伝うという。お前、約束が有るんじゃなかったのか、と尋ねても、こっちの方が大切だから、と沸切らない態度である。顧客のお嬢さんに異国の本を読んでほしいと頼まれただけだから、いつでもいいんだ。私は呆れて、レテのいつの間にやら相当頑丈に成長してしまった背中を小突く。健気なことではないか、約束を反故にするなどもっての外だ。行っておやり。


 でもナヴィド、その草には棘が有って危ない。と、レテは私の手元から今掘ったばかりのあざみの茎を奪った。薊の根は止血薬になるのだ。馬鹿を言え、軍役で飢えた時には薊の根を齧ったものだ、フォルーハルだって知っている。取り返したはずみに棘で指を刺し、血が一滴したたって地面に落ちた。ナヴィドはもう兵士を辞めて大分経つんだから、俺に任せてくれればいいんだよ。レテが情け無い声を出す。あの頃から戦場では足手纏いにならないでいるのが精一杯だった。しかし若造に全て明け渡すほど、錆びてもいない。


昔、薊はみんな白かったんだ、知っているか

ナヴィドの与太話ならいいよ

薊の紅は、血の色だ。俺がこの目で見たのだから


 この世界は、盟主に忠誠を誓う翼の騎士たちと、帝国に仕える獣の術士たちが、人の国々を取り合ってできている。人々は己れの国を守るために連合したり、または人の国同士で争ったり、常にどこかで戦争が行われているが、騎士や術士よりも須く多く生まれるために、その運命はいつでも世界に消費されることなのだ。


 私が軍に志願したのは、ひとえに金のためである。大学で学んでいる最中に商人であった両親が亡くなり、無一文になってしまった。学費と生活費を得るために最も手っ取り早い方法が、軍隊だっただけである。フォルーハルとは軍で出会った。フォルーハルは多くを語らないが、彼が職業軍人であったのは、家系によるものらしい。一族より文武の手解きを受け、貴人を娶り、家を繁栄に導くのが使命であると教えられてきたが、その領地は戦火で失われてしまった。亡国の世子は、前線で初めて自由を得たのだ。


 そんな正反対の出自であったが、私はフォルーハルと親しくなった。その年の夏は、後々“黄海野(ホァンハイエ)戦役“と呼ばれる三つ巴の凄惨な戦いで、動員も武器も尽きかけた子午連合-人の国々が連合した場合、騎士や術士と区別してこう記される-はやむなく術士と共同戦線を張ることになった。


 人は、騎士よりも術士に近い生き物である、というのが定説である。ただし獣のような体力も牙も爪も嘴も無い。術士は錬金術と機械を使い、これは人にも理解できるが、多くの技術は帝国の奥底に秘匿されている。騎士は、背中に生える一対の翼以外、見た目こそ人に似ているものの、情緒と思考の異なる別の生き物、または生き物ですらないのかもしれない。美しい姿のため人の中には信奉する者もいるが、彼らは愚かさを蔑み、全能の盟主が世界を支配することで、王道楽土を築けるという誓約だけに忠実な畏ろしい者たちである。


 私たちの部隊は、黄海野平原の一農村に駐屯していた。低木と岩が目立つ斜面の中腹に位置しており、盆地をはさんで向こうの峰には古く小さな砦が立っている。黄海野は名の通り風が強く痩せた土地であるが、戦闘によって田畑は踏み躙られ燃やされ、その村の住人は多くが逃げ出すか極限の貧困状態にあった。一方部隊も滞りがちな補給と敗走に次ぐ敗走で疲弊し切っており、まだ若かった私も肉体の苦痛ばかりでなく、徐々に精神をすり減らしていたのだと思う。もとより荒地にも根付く薊だが、耕し手のいなくなった田畑にも牧地にも、盆地一面に白く細い花弁を振らせ、棘の有る古茎は無理だが、私もフォルーハルも口寂しさに蕾と根はよく喰んだ。


 そんな時、ある女性に出会った-ここでは“エルウェへ”と呼ぼう-彼女は村の書記官の娘で、年老いた父親を支えてよく働いた。私は中途に学生身分で入隊したためか、古参の兵卒たちから何かと用を言いつけられることが多く、野良作業やら会計やらをしているうちに、彼女とよく話すようになった。エルウェへは悲惨な状況のなかでも村の生活を少しでも改善することを考え、砲車に轢かれた薊の花をも愛おしむような優しく強い女性だった。私は彼女からいろいろなことを教わったし、彼女の眼差しに慰められていた。


 砦から術士が一人村にやってきたのは、我々の部隊と砦の共同作戦を協議するためであり、村を駐屯地として整備する目的もあったのであろう。術士は人よりも戦争技術に優れており、軍による占領地の見境無い搾取は、中期的な補給の確保にも、反乱を招く危険性からも、望ましくないことを理解していた。驢馬の獣人であった彼は、村の灌漑設備を直し、新しい農作物と牧畜の方法を導入し、古い武器を造り直すという仕事と対価を村人に与えた。


 彼女と彼が互いに好ましく思っていたことを、私は気付いていた。若かった私は運の無さに落胆し、己れの非力を疎んだが、どうすることもできなかった。日々を生き延びるだけで精一杯だったのだ。エルウェへはただ、砲火の下逃げ惑う私の、空腹と疎外にのたうつ私の、心の支えであった。


 しかし騎士との戦闘は激しさを増していった。部隊も人数を減らし、瀕死の伝令が運んでくるのは、他部隊の敗退ばかりである。遂にこの村と砦の戦域に、騎士軍の本隊が到達したのは夏の終わり、秋が招く大風の日であった。激しい風のなか、泡立つ波のようにごうごうと薊の花が鳴る。


 騎士は天空を駆け、雷の剣で人を貫く。風が強ければ奴らの武器は最大の力を発揮することはできない。子午連合も全ての兵力をこの盆地に召集し、本国から僅かながらも救援部隊を急派しているが、伸び切った前線を回収するのは容易でない。時間がじりじりと過ぎていき、砦と村に残された者たちは恐慌を過ぎた忘我の状態であった。


 戦端は開かれた。日が上る前の灰を振り撒くような薄暗い風のなか、騎士は峰を回り砦を包囲した。騎士にとって人は敵ではなく、保護し肥やし屠る家畜のようなものだ。我を通そうとし抗えば鞭打ち躾けるだけである。真に警戒しているのは術士であり、砦に中核となる術士たちがいることに気付いていたのだろう。翼を存分に伸ばせる空模様を待たず、隠れて砦に近付いたところを見ると、騎士軍にも余裕は無かったのかもしれない。人の抵抗は長く続き、術士と協力するとなれば、無残で見窄らしい戦いに陥るだろうからだ。奴らは己れの栄誉に傷がつくことを何よりも厭う。


 突撃の号令の代わりに、悲鳴が聞こえた。


 太陽が稜線から覗くと同時に、騎士の大群が盆地へ雪崩れ込んできた。だが我々の目を奪ったのは、光を踊らせる幾万という騎士の甲冑ではなく、火を放たれた砦であった。砦が包囲していた騎士の部隊に抗戦している様子は、村からも辛うじて見えた。投石機から放たれた石が乾いた大地を打ち付けて振動する。または人の戦意を削ぐ見せしめだったのかもしれない。


あの人を助けて下さい、お願いです……


 髪を振り乱し、割れた喉から絞り出すように、エルウェへは哀願し、村の小屋の間を破れて泥だらけの裾で駆け回った。我々は立ち竦んだ。命令は無い、誰もが保身と恐怖のために、砦に向かうことなどできなかった。砦の火は、高くなる日の光のなか一々刻々と勢いを増す。我々は、もう間に合わない、という口実で、友軍を見殺しにしたのだ。


ナヴィド様、ナヴィド様、お分かりでしょう、お願いです


 村から一人出ていこうとするエルウェへを、我々は閉じ込めた。狂った夜鳴き鳥のように金切り声を上げてエルウェへは我々を呪い、己れを呪い、人であることを呪った。なんという脆弱さ、何も救えはしないのだ。何も変えられはしないのだ。その絶望の分だけ誰かを愛そうとも、世界に何も叶えられない。何も、何も……


ナヴィド、彼女を解放したのはお前だな


 夕暮れの庭に長い影を落として、フォルーハルが歩み寄った。レテが小さく息を呑む。薊の花束を抱えて、私は微笑んだ。


お帰り、フォルーハル。君、あの頃から気付いていたんだろう


 私は、他の者たちの目を盗み、彼女を村から連れ出した。私の若い思慕が永遠に失われようとも、果たして善いことなのか悪いことなのかすら分からなかったが、そうすべきだと思った。彼女はひとしきり私の汚れた手を抱いて泣き、だが私が差し出した武器も馬も受け取らず、野辺の薊を毟り猛然と駆け出した。


 村の見張りが傾斜を駆け降りる彼女を見つけたが、引き戻すにはもう遅い。傷だらけの脚は獣をも踏み潰す動力機のように速く、薊の鞭を握る素手と最早涙も出ない慟哭の目からは血が滴って、炎を上げているようだ。盆地にとぐろを巻くように交戦し入り乱れる騎士軍と子午連合へと、咆哮して突き進む。燃え尽きた砦の塔が崩れ落ちた。やがて暴力の濁流に呑まれて、彼女の姿は見えなくなった。


彼女の跡に散った薊は、紅く染まっていた。そして今でも紅いのさ。


 レテは黄昏に烟ったなかで眉を顰めて私を見ると、今しがた棘で刺した指を取って撫ぜた。おや、少しは気が利くようになったのかい。早くお嬢さんに本を読んであげに行っておいで。私は平気だから。養い子のよく育った肩を叩き、私は笑ったつもりだった。


痛みは痛みのまま、俺に頂戴、ナヴィド


 黄海野が単なる歴史になっても、エルウェへもナヴィドも世界から忘れられても、この痛みが誰かの心に残っていれば大丈夫。紅い薊が風にそよぐのを見て、哀しいうちは、人は人でいられるだろうから。

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