第4話 至上最凶の姉妹喧嘩

 その大迫力を真正面から浴びせられ、至近距離で落雷したような衝撃が駆け抜けて来る。

 それほどまでにピタリと合った、打突・踏み込み・気合の一致……竹を打つ音と床板を弾く音、そして死ぬ間際の猿が最後の力を振り絞って奮起する時のような絶叫が寸分の狂いもない正確さで同時に繰り出され、その正面に棒立ちしていた僕は音圧なのか迫力なのか、とにかくその絶大無比な「気」に全身を殴打されたことによって頭が真っ白になっていた。

 そして次に気が付いた頃には瀬瀬さんは音音さんの横を通り過ぎ、クルリと転回して両者の立ち位置が逆になっていた。

 この時点で勝敗はついたものだと思われたが、しかし試合は継続した。

 すなわち、クルリと振り向いた瀬瀬さんの脳天にはハンマーのような一撃が叩き落とされる……それと同時に音音さんは暴風雨のような、……ズアァ……という掠れた雄叫びをあげつつ勢いのままに体当たりし、それをマトモに食らった瀬瀬さんは弾き飛ばされて盛大によろめきつつ着地する。しかしそれでも攻撃の手は止まず、ダンダンダン……と連続して竹刀が振り下ろされ、瀬瀬さんは竹刀で受けつつ後退する。すると瀬瀬さんは試合場二つ分以上もある武道場の隅にいよいよ追い詰められ、あともう一つ追撃が来れば僕たちも巻き添えを食らってしまうぞ……というところまで接近して来ていたのだが、ここで瀬瀬さんが反撃に打って出る。

 というのは、もう背後には逃げられない……というギリギリのところで、瀬瀬さんは屈伸しながら横に避ける。瀬瀬さんが居た場所には音音さんの竹刀が空を切って振り下ろされ、その竹刀を上から叩きつけて無防備な喉元を例の甲高い絶叫と共に突いたのである。

 だが、これでも勝負は終わりにならない。

 すなわち、音音さんは突きが直撃すると同時にグッと前に出て、竹刀の剣先をむしろ押し返したのだ……その力に押し負けて瀬瀬さんは剣先を喉元から横にずらしてしまい、惰性で前に倒れ込んだところを体当たりで横に突き飛ばされ、その衝撃で右手を柄から離してしまった瞬間を見逃さずに音音さんが反撃の突きを打ったのである。

 しかもこの突きというのが、ただの突きでは全くない。

 まず、その「長さ」が尋常ではない……吹き飛ばされた瀬瀬さんは音音さんから三メートルほど離れていたのだが、体を捻じりつつ右足を大きく踏み出して柄の端を持った左手をグンッと突き出すと、その剣先は一瞬のうちに相手の眼前に到達する……ただでさえ高い身長に長い手足、そして発射された剣先から足先までピンと伸びた一直線が突きの距離を最大限まで伸ばすことによって、三メートルという距離が危険地帯の間合いと化す。

 ただ、やはり瀬瀬さんも為されるままにはならない。

 体当たりで竹刀から片手を離してしまった彼女は、咄嗟に頭の位置を下げて対応したのだ……突きは喉元に接触した場合のみ有効なので、面の前側で受けることで無効化を試みたのだ。

 そして、ここで発揮されるのが音音さんの突きのもう一つの特徴である、突きの「力強さ」だった。

 というのは、音音さんは足先から剣先まで三メートルの突きをして、そこで終わりではないのだ。……半ば地面と平行になるような無理な体勢に倒れ込むことで三メートルという距離を稼ぎ、その代わりに無理な体勢のせいで突きの威力は弱まっているはずにも拘らず、それでも瀬瀬さんは面(めん)金(がね)に直撃した剣先の衝撃でとうとう尻餅を突いてしまったのである。

 ……いよいよ決着がつくのだろうか…………。

 といっても、この間に経過した時間はわずか二十秒にも満たないだろう……ただ、両者が放つ一撃一撃が全て審判の満場一致で一本が上がるような最上級の逸品にしか見えず、その意味でここまで試合が継続して決着がつかないのが不思議だったのだ。

「まだしばらく続くと思うよ、いつも通りだと」

 という呟きが横から聞こえて来た直後に、音音さんは追い打ちをかけるように駆け寄って倒れたままの瀬瀬さんに竹刀を振り下ろす。

 しかし瀬瀬さんは横に転んで攻撃を躱し、その勢いで体を起こしつつ座った状態で頭上の胴に斬撃を加えたのだった……そして透が予言したとおりに打ち合いは続き、猿の絶叫と暴風雨の雄叫びが竹刀と踏み込みの破裂音と一緒くたに道場中に響き渡っていた。

「…………」

「初めて見たらビックリするよね。ただ、先輩と音音ちゃんが対戦する時は毎回こうなるんだよ。もっとも、淋大は道場が広いから普段よりも更にアクロバットな試合になってるんだけど」

「……他の人と対戦してる時とは全く意気込みが違うな。本当の意味での真剣勝負、というか」

「うん、これ以外の対戦では二人とも全力の半分も出してないよ。特に音音ちゃんは上段の構えを『当たれば確実に一本が入るし、外れたら一本取らせて自然に負けられる』とか言って、試合を一瞬で片付けるための方法として採用していたところがある。つまり先輩と対戦する時のために体力を温存しておきたくて、それまでの試合は長引くだけ体力を消耗するから動きも最低限で済ませていたんだよ」

「二村さんとの試合の時もそうだったのか? あの勝負はすぐには片付かなかったけど」

「あれは演出だと思うよ。いわゆる『一筋縄ではいかなそうな相手』が来たから、実力が拮抗しているフリをして試合を長引かせた。一人を相手にジリジリと攻め合う方が、複数人を一撃で仕留め続けるより総合的に打つ本数が少ないと判断したんだろうね。地稽古が始まると同時に瀬瀬先輩はどこかに行っちゃったから、先輩が戻るまでの時間潰しにそうしたってだけだよ。で、極めの一本を打つ体力も惜しかったから軽く竹刀を振って巻き落とされて負けようとした」

「……つまり二村さんは、本来ならもっと簡単に負けていたと」

「そのはずだよ。試合を見てれば分かるけどあの姉妹は、地稽古みたいな実戦剣術の場では他の追随を許さないぐらい強いから。大会の会場ならまだしも、この場では負けてたと思う」

「…………」

「しかも、本気のあの二人は攻撃の時に躊躇は絶対しないしね。一撃一撃が相手を戦闘不能にする意気込みで打たれるから、トドメの面を打ち損じるようでは熱量の時点で負けてると思う。二村さんは確かに強いけど、二村さん自身が本気になれない限り到底敵わないんじゃないかな」

「……熱量、か」

 と呟きつつ、道場内を縦横無尽に駆け巡りながら絶叫し咆哮している二人から目を離して、その右側……すなわち玄関の附近に、そんなことはお構い無しの具合で通常の地稽古に取り組んでいる二村さんの巨体を発見する。

 パッと見た限りでは、どうやら互角の対決のようだった。

 まず、白と黒を組み合わせた防具の火祭(かさい)さん(垂ネームに[西院大][火祭]と書いてあった)がユラユラと揺れながら剣先で様子を見る。火祭さんはフクロウのような落ち着いた気合を、二村さんはごく普通の大声を人間離れの声量で出しつつ相互に威嚇し合い、同時に仕掛けては両方とも防御して鍔迫りをする。その最中も極めて近距離のなかで体当たりの攻防をし、睨みを利かせつつソロソロと後退、再び竹刀を振りながら衝突……、という繰り返しだった。

 そして、この膠着状態を展開させたのもやはり二村さんの一手だった。

 すなわち、火祭さんの舞うような一撃が二村さんの脳天に振り下ろされようとした刹那、彼は後退しながら円を描くように竹刀を振り下ろし、火祭さんの剣先を地面にバシンと叩きつけたのだ……同じ稽古の中で二度も実行して成功しているのを鑑みると、二村さんにとって巻き落としとは必殺の決め手なのだろうな……、と思った。

 ただ、不可解なことにそれからの展開もまた、前回の試合と同様の帰結を辿った。

 というのは、相手の剣先を床板に叩きつけ、後は煮るなり焼くなり式の状況まで持ち込んだにも拘らず、二村さんはまたも硬直してしまったのだ……その隙に剣先を復帰させた火祭さんの華麗な喉元一突きによって勝負が決し、両者は元の位置に戻って蹲踞したのである。

 しかも、二村さんの位置は向こう側でなく、こちら側……つまり「非実力者側」だったのだ。

「…………」

 とはいえ、二村さんが即「非実力者」になるのかといえば違うだろう。音音さんのように、何らかの目的があってこちら側に居るのかも知れない。

 ただ、彼は稽古の際に淋大側で指揮や号令をしていた、大阪淋漓大学剣道部の主将である……まだ一回生にも満たず、正式な剣道部員でもない音音さんならまだしも、主将が指導者側の立場から離れるにはそれなりの理由が必要のはずだ。そうなると、もしやその理由こそが彼の「トドメの面を打ち損じる」謎の解明に繋がるのではないだろうか…………と。

 そのように憶測していた時、隣から透が小手でチョンチョンと小突きながら、

「そろそろ終わりそうかも、瀬瀬先輩と音音ちゃんの試合」

 と報せてきたので道場内をキョロキョロと見回すが、すぐには見つからない。……あれだけ激しい攻防が繰り広げられていたにも拘らず、こうも見つからないものだろうか……と広大な道場を端から端に探していたところ、「あそこだよ、あそこ」と透に真正面の方を小手で示され、ようやく僕がその姿にピントを合わせられた感想が次である。

「……満身創痍だな」

「あの二人のことだから防具以外の所に外したりはしてないと思うけど、その防具の部分に関しては打ち身でもしてるかもね。それだけ二人は全力でやってるから」

 ……道理で、あれだけ探しても見つけられないはずである。

 というのは、彼女たちは僕から見て真正面の少し離れた位置で左右に分かれて対面していたのだが、いずれも憔悴し切って竹刀を構えたままその場で睨み合っており、ゼイゼイと肩を上下させる以外には何らの動きもしていなかったのだ。ひたすらにアクロバット式の「動」の攻防しかしていなかった両者が疲労で「静」の状態に切り替わったことにより、地稽古をしている他の人たちの背景と同化してしまって見付からなかったのだな…………と。

「…………!」

 その時、僕の右側と左側とで同時に、あるが起こる。

 勿論、その間に挟まれて同じ方向を見ていた自分にもその理由は分かっていた。

「……上段?」

 と思わず口に出した僕の呟き声も、左右の人物にはどよめきとして聞こえたことだろう。

 すなわち、瀬瀬さんは右足を引いて左足を前にしつつ、竹刀をググッ……と上に掲げて上段の構えになったのだ……音音さんがしたならいざ知らず、その構えを瀬瀬さんが取ったという事実が我々の驚愕を呼んでいたのだった。

 しかし、対する音音さんは全く動揺した素振りを見せなかった。

 あるいは今までの瀬瀬さんとの対戦で既に経験していた展開の一つとでもいうのだろうか、彼女は特に反応をすることもなくスッと剣先を右にズラして、相手の逆小手を牽制し始めたのである……上段の相手は頭部を竹刀でカバーするため面は狙いにくく、その代わりに左小手が面の位置に上がってきて打ちやすくなるので、ここを攻めていくのが対上段のセオリーであることは間違いないのだが…………。

「音音ちゃんがちょっと手首のスナップを利かせれば入る位置だよね、あの逆小手」

 そう、そもそも瀬瀬さんが二刀霞の構えをしていたのは、低身長のために「普通に中段で構えていても相手がちょっと手首でスナップを利かせただけで面が入ってしまう」からであり、「かといって上段の構えで面を防いでも今度は同じ高さにガラ空きの小手を晒す」ことになるからと考えた結果に導き出されたのが霞の構えだったはずである。

 ……それがなぜ、よりにもよって対戦の最終局面で上段に構えるのか…………。

 そもそも、この対戦が始まる直前から既に可笑しい部分はあったのだ……すなわち、元はと言えば瀬瀬さんは日々成長し続ける妹に勝ち続けるべく霞の構えを習得したはずだが、実際にその構えで試合に臨んでいたのは相手が音音さん以外の時だけではないか……これだけ熾烈な戦闘を繰り広げているのだから手加減のためではないのだろうが、だとしたらなぜ逆小手を相手に晒すような構えを…………。

「ただ、もし仮に音音ちゃんが手首の動きだけで小手を軽く打ったとして、それが一本になる試合だと思う?」

 という問いかけが、真正面を向いたままの透から繰り出される。

「……どういう意味?」

 そう問い返しつつ、透の方を向くべきか試合に注目すべきか迷う。

「つまり、」

 透の返事が聞き取れたのはそこまでだった。

 というのは、彼女の返事の続きは本日一番の絶叫と咆哮……すなわち瀬瀬さんと音音さんが大音量で威嚇合戦をするのに掻き消されて、僕自身の視線もまたその方向に吸い寄せられたのである。

 ……やはり、聞いているこちらが卒倒しそうになる気迫だった。

 暴風雨が無機質にアスファルトを叩きつけるような音、その跳ね返った雨粒が猿の絶叫に震え上がって音波を拡散し、耳を圧迫する面のフィルター越しにその音を聞くとあまりの臨場感に総毛立つ……雨風に全身が打ちのめされつつ今にも獰猛な山猿が襲いかかって来るような気分がして、冷や汗をかきながらハラハラとしてしまっていた。

 やがて、両者による威嚇合戦は示し合わせたかのようにピタリと止む。

 耳の奥が余韻に震えてボーッとなり、そこから聴覚が徐々に冴えて来ると竹刀を打ち合う音や気合の大声が周囲からクッキリと聞こえてくる。

 その中央で静まり返っていた二人のうち、最初に仕掛けたのは音音さんの方だった。

 すなわち、何の変哲もない小手打ち……もちろん打ったのは右手の方ではなく、これ見よがしに高く掲げられた左手の逆小手だった。

 そしてこの瞬間に、僕は透が言いかけていた返事の続きについて……なるほど、透はこのことを言おうとしていたのだな……と悟っていた。

 というのは、音音さんは逆小手を打とうとして竹刀を振り上げたのだが、その振れ幅がややオーバー気味だったのだ。単に一本を取るためだけであれば剣先を必要最低限だけ持ち上げて表面を弾くような打突をすればよかったものの、わざわざ魚でも釣り上げるみたくグンッと剣先を上げてから勢いをつけて竹刀を振り下ろしたのである。流石は達人級の腕前なのでその速度は尋常ではなかったものの、打突までに無駄な時間がかかっている感は否めなかった。

 ……しかし、そうではないのだ。

 彼女は無意味に竹刀を大きく振り上げ、無駄に時間をかけて振り下ろしているのではない……音音さんはこの対決に勝利するべく、戦略上の理由でそうせざるを得なかったのだ。

 ただし、ここでいう勝利とは通常の地稽古の場合でいうところの一本先取とは異なり、対戦相手を戦闘不能にするという暴力的な意味でなくてはならない。

 というのも、いわゆる一般的な地稽古では竹刀で相手の防具の表面を軽く弾いただけでもその打突が奇麗で残心が決まっていれば一本になるが、彼女たちの対戦は防具にのみ攻撃が可能という剣道の審判規則は遵守しつつも、その実は二人の武士による死にもの狂いの一騎打ちである……つまりその対決における勝利とは「相手を戦闘不能にする」ことのみを意味し、求められるのは武芸の質ではなくて打突の殺傷力であるから、その原則に従うと「手首の動きだけで小手を軽く打ったとして」もそれは戦闘不能にはなり得ないという意味で無効なのである。だから遠遠さんは通常の試合よりも余分に竹刀を大きく振り上げつつ、もしこれが竹刀ではなく真剣であればお前の左手首は斬り落とされているのだぞ……という意気込みで必殺の一撃を打たなければならなかったのだ。

 ……そして、透はそのことを既に知っていた。

 すなわち、透は西院大の道場で姉妹の対戦を幾度か目撃している……アクロバットとまで形容したその試合を興味深く観察していくうちに、……彼女らの対戦における勝利条件とは相手を戦闘不能にすることであって、そのために常に大振りな打突を繰り出しているのだな……と分かってきたので、その調査結果を何も知らない僕に共有するべく話そうとしていたのが例の威嚇合戦によって途中で打ち切られたのだ。

 実際、音音さんの逆小手の威力は凄まじいものだった。

 というのは、上段で竹刀を握っていた瀬瀬さんの左手はその殺意級の打突によって叩き落とされ、その勢いで……ガクン……と腰を落としてしまったのである。高く掲げた右手には辛うじて竹刀が握られているが、その様子はむしろ自分の手首が斬り落とされたことに気付いていない手負いの武士そのものだった。

 ……が、対する瀬瀬さんもやられたままではない。

 すなわち、瀬瀬さんは逆小手の威力によって腰を落としてしまうのと同時に、残った右手を上段から振り下ろして音音さんの逆小手にカウンターしたのである……それを食らった音音さんもまた、強制的に竹刀の柄から左手を離してしまった。

 しかも、それだけではなかった。

 というのも、叩き落とされた音音さんの左手は床板に接触していたのだ……瀬瀬さんより遥かに背が高く、逆小手の位置も三十センチ以上高いところにあるはずの音音さんの左手は地面に叩きつけられ、その勢いで腰を落としてしまうどころか片膝までも床板についてしまったのだった。

 今、左手と左足を地面に突き、這う這うの体になっている音音さんの眼前で……瀬瀬さんは、これ見よがしに左肘を前に突き出して竹刀を振り上げる。

 片や構えも何もない有り様、片や今にも相手の首をぶった切ろうとせんばかりのどっしりとした構えで向き合い、位置的な上下関係は完全に逆転する。

 両者は睨み合ったまま、しばらくそのままの体勢で佇んでいた。

 将棋の最終局面においてウンウンと唸りながら打開の一手を模索するように、もしくは打開の一手が皆無なまでに詰んでいることを呑み込んでいたのかも知れない。

 やがて音音さんは右膝も突いて膝立ちの姿勢になり、右手だけで持っていた竹刀の柄を両手で握ると左腰に納刀し、ピンと背を立てて正座すると同時に竹刀を床に置く。

 左手、右手の順番で八の字型に両手を床に突き、静かに深々と頭を下げて座礼する。

 対する瀬瀬さんは彼女の前で蹲踞して納刀し、スックと立ち上がると音音さんをそのままにしつつ試合場から出て、向こうの壁際で二刀に持ち替えると別の列に並びに行ってしまった。

「…………」

 その爆(は)ぜるような激闘が終わった後は、万事が惰性のままに過ぎて行った。

 まず、音音さんはゆっくり立ち上がると道場の向こう側……すなわち瀬瀬さんが立っていた位置まで行き、こちらを振り向きつつ悠然と蹲踞して待つ。列に並んでいた我々は何事もなかったかのように瀬瀬さんの代役を務め始めた彼女に当惑しながらも、先頭から順に彼女の元に行っては蹲踞して地稽古をつけてもらう。

 僕の順番が巡って来たのは、それから二分もしない内だったと思う。

 すなわち、例の初手上段の構えから左手で面を打ち、そのまま相手の横を通り抜けて振り向くとゆっくり元の位置に戻って蹲踞、納刀して立ち上がると一言二言のやり取りがあって次の相手……といった流れ作業が立て続けに四回繰り返されて、激戦の余韻の冷めやらぬままに手負いの剣豪の前に放り出されたのだ。

 ……手負いとは言っても、油断をする気は毛頭ない。

 音音さんの余力がまだまだ残っていることは、その彼女に呆気なく敗退した先駆者の四人が体現しているのだから……と思いつつ一礼して数歩進み、蹲踞して立ち上がる。

 そして、油断していたところで結果は同じだったのだろうな……ということを、対戦開始の直後に悟っていた。

 そもそも、なぜ彼女の対戦相手はその殆どが一撃で敗北するのだろうか。

 試合が開始すると同時に上段に構えて、その次に面が打たれる……という展開を知っているのなら、竹刀で防ぐなり間合いを詰めるなりすればいい。それすらもせずになぜ彼女の対戦相手は棒立ちのまま面を打たれてしまうのか…………。

 その答えは、実際に彼女の前に立ってみればすぐに直感することが出来た。

 すなわち、彼女の全身から発揮される「剣豪の凄み」である。

 これに当てられたが最後、こちらの剣先はピクリとも動かなくなってしまう……相手が竹刀を振り上げた途端にその覇気は格段に増し、急速に喉が渇いて気合の声すら出なくなる。

 そしてガラ空きとなった脳天に上段からの面打ちが炸裂しつつ、語尾で音程を下げるような最低限の気合と共に僕の横を通り過ぎて行った……のだが、ごく簡単に一本取られてしまったことについてはさて置き、彼女の面は表面を弾くだけで脳が揺れるようなことはなかった……後に痛みが残るようなこともなく、しかし今の打突は確実に一本だったな……という自覚だけが脳天でジワジワと尾を引いていた。

 ……暴力的な打突をするのは、姉に対してのみということらしい。

 それ以外の対戦相手については一般的な剣道の規則に従って、ただ一本を取るためだけに打つ……戦闘不能にする意味はないので、与える痛みを最低限に留めるということらしかった。

 試合が終わるとまず蹲踞して、納刀してから立ち上がると音音さんのところに駆け寄る。

 この様式に関しては中学と高校の剣道部で学習していたので自然にそうしたが、妹の同級生に駆け寄るというのは中々恥ずかしいものがあるな……と思いつつ立ち止まって一礼する。

 顔を上げると、どうやら身長そのものは殆ど変わらないようだった。

 ただ、竹刀を納刀してもなお彼女からは剣豪の凄みが発揮されており、その凄みが最も発揮されている彼女の両目を直視することが出来ない……せいぜい僕が見ていられるのは相手の高い鼻ぐらいで、同じ身長にも拘らず倒錯的な身長差を感じていた時。

「透さんのお兄さんですね。姉から伺っております」

 という澄んだ声音で話しかけられ、「あ」とも「え」ともつかない声が出る。

「申し遅れました。私、透さんの同級生の遠遠音音と申します。妹さんとはいつも仲良くさせて頂いております」

 そう言って彼女は深々とお辞儀をしたので、僕の方も「いえいえ、こちらこそ妹がいつもお世話になって……」と頭を下げて返しつつ、依然として目は合わせられないまま口先で挨拶の応酬をしていたのだが、途中からは話の内容よりも彼女の澄んだ声そのものを聞いていた。

 というのは、彼女の「澄んだ声」とは「浅瀬の海のように濁りがない」のではなく、「深海のように底が見えない」という意味で澄んでいたのだった……いずれにしても不純物のない透き通る声音ではあるのだが、彼女の礼節正しい言葉遣いの内側には沖合(おきあい)特有の深刻さが海底一万メートルまで広がっており、その絶対的な奥深さに足を取られていたのだった。

 そして、その海底一万メートルの最下層まで攻略したいと思うダイバー式の心理が働いたのだろうか、

「さっきの瀬瀬さんとの試合は凄かったですね。普段もあれぐらい激しく打ち合っているんですか?」

 という質問を、つい音音さんの方にしてしまったのだった……対戦に勝利した瀬瀬さんに聞くのならまだしも、彼女に聞くのは無神経だったな……と、言ってから気付いた。

 しかし、その失言を受けても彼女の深海式の声音は一切の波紋を起こさず、

「ご覧になっていたのですね。お恥ずかしい限りです……そうですね、姉と地稽古形式で対戦をする際には、毎度あれぐらい動き回って試合をしております」

 と返しつつ顔を横に向けながら、「ただ、今日は一段と激しい試合になっていたかも知れません。淋漓大学の道場は西院大の道場より倍以上広いので」と冷静に続けたのだった。

 ……どうやら、対戦の結果についてはそこまで気に病んでいないらしい…………。

 そもそも、透の発言からして遠遠姉妹の対戦は一度や二度ではない……その中で勝った対戦もあれば負けた対戦もあるはずで、そうなると今回の敗北そのものの悔しさは僕が思っていたより少ないのかも知れないな……という考えが湧いてくる。

 ……ならば、もう少し掘り下げてみても構わないだろうか。

 姉妹間であれだけ闘争心が剥き出しになり、負傷を目的とした対戦を自明かのごとく簡単に始めるその心境について……と思い、手始め的な部分から恐る恐る質問する。

「……あれだけ激しく打ち合っていると怪我をする時とかありませんか? 防具に当たっても打ち身になりそうなぐらい力強い打突に見えたので」

「目立った外傷は特にありませんが、面を打たれて脳が揺れたり喉を突かれて息が出来なくなったりすることは頻繁にありますね。小手に関してはあまりに青あざが絶えないということで小手下サポーターを着用し始めたら、それからはたまにしか青あざが出来なくなりました」

「…………」

 淡々と吐き出される強烈な語彙の数々に翻弄され、たまらず閉口してしまう。

 ただ、今はあくまで稽古中の時間であり無制限に話せる訳ではないので、すぐに口を開いて質問を続行する。

「さっきの試合でも逆小手をかなりの勢いで打たれていましたけど、あれもサポーターで保護出来ていたんですか?」

 すると音音さんは首を横に振りつつ、例の波立たない深海の声音でこう返した。

「いえ、むしろさっきの対戦ではあの逆小手が最も痛みを伴わない打突だったので、恐らくあれに関してはサポーター無しでも無傷だったと思います。……系統的にはビンタに近い要領で、表面的な痛みしか後には残らなかったので」

「……上段からの逆小手が一番痛くなかったんですか?」

「はい、不思議とそうでしたね。……逆にあの試合で最も殺傷力の高かった打突は、竹刀を叩きつけられてからの突きだったと思います。さっきの試合中で意識を飛ばされたのはあの一回だけでしたから」

「……試合中に気を失っていたんですか?」

「恐らくは頸動脈洞性失神のごく軽度なものだと思います。つまり姉の剣先を喉元で押し返していた時の私は、実は気絶して前に倒れ込んでいただけだった……ということになりますね」

「…………」

 この時点で、僕の深海に対する評価はほぼ確定しつつあった。

 すなわち、これ以上深入りするのは危険である……流れのない穏やかな深海を潜水していく内にいつの間にか水圧で鼓膜が破られてしまう予感がしたので、これ以上の調査は中断するべきだと判断していた。「意識が戻ったのは剣先が喉元から外れた瞬間でしたね。あのままだと姉もろとも列に突っ込んでしまうところでした」から始まった彼女の謝罪に「いえいえそんな」と応じつつ、ある最も深刻な質問を最後に投げかけたら会話を終わりにしようと思った。

 すなわち、

「どうしてお二人は、互いに怪我をしてまであのような対戦をするんですか?」

 という質問を最後にしたのだったが、音音さんの返事がなかったので続けて尋ねる。

「姉妹だからですか、それとも……」

「拓志(たくじ)さん」

 この時、初めて音音さんから名前を呼ばれた僕はつい彼女の目を見てしまった。

 従来のような鼻だけを見る目線がグルンと上に滑り、対戦開始の時点から直視出来なかった彼女の両目を初めて目の当たりにしたのだったが、

「……あ……」

 という声が出てしまいそうになり、その寸前で唇を閉じつつギョッとした。

 ……というのは、スルリと線を引いたような上品な二重瞼に仕舞われている眼球の凄まじさに声が出そうになったのである……狐面式に白目の両端を染める充血の痛々しい赤色、その中心に鎮座している底の知れない真黒(まっくろ)の瞳と正面から対峙した途端に、……彼女とは生物としての「格」が一段も二段も違うのだな……と思い知らされて横隔膜が音を上げそうになったのだ。人ならざる妖しさと剣豪の恐ろしさに、内臓のドン底まで縮み上がってしまったのだった。

「次の方が待っておられるようですので……」

 と言いつつ、音音さんは縮み上がった僕の背後を逆小手で示す。

 後ろを振り向いてみると、そこでは全身黒の装備をした透が垂直に飛びつつ準備体操をしていた……目が合うとピタリと地面に着地し、「そろそろどいて」のジェスチャーをしてきた。

 ……透は透で侮れないな、今から音音さんと対戦するのに溌溂(はつらつ)としているのだから…………。

 と思いつつ、ここは素直に撤退することにした。長話をしてしまった謝罪をしてからその場を去り、さて次はどこに並ぼうか……と当てもなくさまよっている内に道場の入り口側の壁に到達したので、その付近で地稽古をしていた火祭(かさい)さんの列に並ぶことにした。

 そして、透と音音さんとの試合はどうなっただろうか……と思って探していると、

「透さんと音音ならあそこで試合をしていますよ。随分向こうに行ったみたいですね」

 という声が隣からしたので、さっきの恐怖心の名残(なごり)でビクリとしつつ振り向く。

 声の主は瀬瀬さんだった。

 全身白の防具と道着類に胴台(どうだい)の硬い部分だけが赤々としている日の丸のような格好で、大小二本の竹刀を左手に携えつつ僕より前に並んでいた……面を被って狭くなった視野のために見落としていたようだったので、今更ながら挨拶をしつつ彼女が指した方を見る。

 瀬瀬さんが言った通り、二人は初期の位置から随分と奥の方に移動しているようだった。

 両者とも全身黒一色の装備で、上段と中段に構えつつ睨み合っていた……のだが、その姿を捕捉した直後に彼女たちは相互の面を同時に打っていた。遠目なのでどちらの打突が早かったのかは分からなかったが、対戦後の振る舞いを見た限りでは音音さんの面打ちが一本になったらしかった(透の方は天井を仰いでからウンウンと頷いていたので)。

 その一連を観測しつつ、一方の僕はというと道場の隅で「流石だな」、と感心していた。

 すなわち、透は音音さんの初手の面打ちを凌いでいる……それは最初の位置から二人が移動していることから明らかであり、しかも音音さんの防具に竹刀を打ち込めた人間は透以外だと瀬瀬さんしかいないので、透は現段階で既に西院大屈指の実力者になっているのかも知れないぞ……と思い始めていたのだったが、

「…………?」

 という具合に横から視線を感じて振り向くと、瀬瀬さんがニコニコと目を細めつつこちらを見上げていた。

 ……流石だな、と呟いたのが聞こえていたのだろうか…………。

 そう悟ると同時に、ゴワゴワとした道着で痒くなってきた左腕を上から掻きつつ……この痒みは談笑でもして誤魔化さなければ……と確信し、「火祭(かさい)さんの列に並んでいたんですね。もう今日は向こう側に立たないんですか?」という質問をする。

「はい。さっきの対戦で体力を消耗し切ったので、あとはこちら側でゆっくりしておこうかなと思いまして」

 瀬瀬さんはそう返事をするとグッタリ腰を曲げつつ、「音音は見ての通り体力の怪物ですし、二刀霞と上段とでは後者の方がずっと稽古になるので……対戦が終わり次第、彼女にはすぐに代わって貰うようにしています」と溜め息の混じったハスキーボイスで続けた。

 ……確かに、瀬瀬さんの方が格段に疲労困憊しているようだった。

 声音の落ち具合に姿勢の曲がり加減、そして普段に増した動作一つ一つの緩慢さ……といったどれを取って見ても音音さんには無かった特徴で、ともすれば会話をすることさえ一苦労のコンディションなのかも知れないな……と思っていたのだが、

「稽古が休憩になったら一緒にお昼でもいかがですか。色々と積もる話もあるでしょうから」

 と向こうから切り出して来たので快諾し、……休憩を挟むということはこの後に後半の稽古が残っているのだな……と軽く絶望しつつ、それからはポツポツと積もらない話をしていた。

 道場の真ん中で音音さんと二村さんが蹲踞しており、立ち上がったと同時に上段の構えになった音音さんの面打ちがいとも容易く決まったのをボンヤリと眺めていたりもした。

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