第5話 楽しいお昼ごはん
稽古が終わって休憩に入ると、面を外した二村さんや透と話をする。
その傍らで各大学の剣道部員は道場内に点々とグループを作ってどっかりと座り、持参した弁当を広げて談笑しつつ食べ始めた……「どうせなら三人で食べないか」というお誘いを二村さんから受けたが、その隣からヌッと瀬瀬さんが現れつつ「すみません。拓志さんとは少しお話したいことがあって」と割り込んで来たのでご破算になった。「何かやらかしたの?」という透の台詞を否定しつつ玄関の緑の金属板へと向かった。
重い金属板を押し開けつつ外に出て、ムッとした道場内の空気から解き放たれた清々しさを感じつつ階段を下り切ると「ここにしましょうか」と先を行く瀬瀬さんがある一点を指差した。
「……桜の木の下、ですか?」
「はい。あそこなら木の幹が背もたれになると思って」
というが早いか、四方を古いコンクリートの棟で囲われた人工芝の中庭の更に中心にある、開花前の桜の木の下に向かってスタスタと歩いて行く。
その後ろにやや遅れて続き、クラブセンターの出入口を正面に据えた構図で人工芝に座ると、先に着座していた瀬瀬さん(座り方は僕と同じで胡坐(あぐら)だった)は道着の上に羽織っていた白色のウインドブレーカーの裾を両手で掴んでチャックを首元まで上げていた……確かに肌寒いな、とは感じつつも特に羽織る服は持参していないので、片手に提げていたレジ袋から弁当を取り出して人工芝の上に置いた。弁当は今朝ここに来る途中のコンビニで購入していた。
「いただきます」
と言って隣の瀬瀬さんは両手を合わせつつ一礼する。
僕も手を合わせてレジ袋から割り箸を取り出し、それを二本に割くと人工芝の上から弁当を持ち上げたのだが、隣で繰り広げられていた瀬瀬さんの食卓を見て仰天した。
というのも、瀬瀬さんが長方形の白の弁当袋からズルリと取り出したのは手のひら大サイズのジップロックだったのだが、その中身が異様そのものだったのだ……本来は透明色のはずだったジップロックは中身の物体によって全体をクリーム色にコーティングされており、そのコーティングの隙間からはピンク色、赤色、緑色の「何か」が部分的に浮き出している……食べ物なのだとしてもせいぜい調理過程の段階としか思えないジップロックの中身だった。
そのジップロックを開封し、弁当袋からプラスチックの白い箸を取り出して中に突っ込む。
そして口笛(交響曲第五番『運命』)と共に中から持ち上げたのは、クリーム色のネットリとした液体でコーティングされたピンク色の……鶏肉のような塊だった。
「……それは?」
弁当の蓋も開けないままに尋ねると、瀬瀬さんは左手でジップロックを掴みつつ右手の箸で肉塊を挟んでかぶりつき、ムグムグと咀嚼して呑み込んでから答える。
「茹でた鶏むね肉のマヨネーズ和えですね。鶏むね肉は疲労回復効果のあるイミダペプチドが多く含まれているので、重労働をしてクタクタになった日には必須の代物(しろもの)なんですよ。なので部活がある日の昼食では、毎回これを茹でて食べることに決めているんです」
「茹でた方が、その……イミダペプチド、の吸収効率が良かったりするんですか?」
「茹でるのは作り置きをするためですね。鶏むね肉三十枚を一気に加工して保存するには茹でるのが一番簡単だったので」
と言いつつ鶏肉をジップロックの底に溜まっている濁った黄色の液に浸けながら、
「ただ、この方法だと水溶性のイミダペプチドが茹でた汁の中に溶け出してしまうので、吸収効率の面ではあまり良い方法とは言えませんね。ですので、この時に出た茹で汁はちゃんと別に保存しておいて、茹で鶏をマヨネーズに和える時に混ぜ込むようにしています。汁気を多くすることで、時間がない時にはジップロック内でシェイクにして飲むことも出来ますしね」
と締め括り、弁当袋から七味の瓶を取り出してジップロックの中に八、九、十、十一回ほど振りかけていた……ジップロックに箸を突っ込み、次に出てきたのはマヨネーズや七味や鶏の脂に塗れたブロッコリーらしき形状の物体だった。
「…………」
今、僕たちが食事を取っている場所はクラブセンターの中庭である。
その正面に位置するクラブセンターの出入口では各種ユニフォームを着た学生が出入りし、四方を囲む四つの棟の廊下を渡る人々、右から左、後ろから前……といった具合に、正午過ぎのクラブセンターは人、人、人で賑わっている。
……にも拘らず、瀬瀬さんの箸に迷いはない。
ブロッコリーを食べ終わり、続いて魚の干物みたような物体をマヨネーズの液にトプトプと浸けてから引き上げて、「淋大は人が多くてにぎやかですね」と言って人目も気にせず口内に放り込むのだった。
「……西院大の生徒はどのくらい居るんですか?」
「五千人ほどですね。淋大からすると六分の一以下の数字になると思います」
「多すぎても良いことないですよ。登校する度に夏祭りみたいな人口密度の中で歩かされたり、生徒の私語で授業内容が聞き取れなかったりすることも少なくないですから」
という会話がしばらく続き、弁当も半分ほど食べ終わったあたりで瀬瀬さんは「そういえば」と言って箸を止めると、こちらを向いてペコリと頭を下げて言った。
「先日はすみませんでした。急に練習試合に呼び出してしまいまして」
「いえいえそんな。とても良い経験になりましたし、むしろこちらがお礼を言いたいぐらいで」
「それだと良かったのですが……」
と言って間が空き、マヨネーズの液から今度はたこ焼きのような形状の丸い物体を引き上げて続ける。
「ちなみに、妹さんとは例の件について何か話をされましたか?」
「……例の件、と言いますと」
「『兄貴が全部楽しめなくなったのは、私が全部真似したからなんだよね』……の件です。拓志さんは透さんのあの発言について、何か返事や反論はされたんですか?」
という抜群に似た声真似に驚きつつ、箸で摘まんだ唐揚げをナポリタンの上に置く。
すなわち、三年前に剣道をリタイアした僕が強豪校同士の練習試合に紛れ込んでいるのは、消化不良のままで終わった透との会話に終止符を打つためだった……兄の人生が退屈なのは妹である私のせいなのだ、と言い放って終わった妹との会話の続きをするべく、僕は奈良県の一戸建てから大阪の大学にまでやって来たのである。
……やって来て、しかし会話の続きは繰り広げられなかった。
両者は再会の直後に沈黙し、しばらくすると「今はまだその話をするべきではないな」、という暗黙の了解が取り交わされ、例の件についてはノータッチのまま前半の稽古を終えていた。
ただ、僕もこの一週間を何もせずに過ごしていた訳ではない。
体験入部を申し込み、防具類や道着などの整備をしつつ……実際のところ、俺は妹に対してどのような思いがあるのだろうな……ということを考えていた。
そもそも僕は、「妹のせいでこの趣味を諦めるのだぞ」……と決心したことなど一度もない。剣道は引退の時期が来たから引退しただけだし、ギターは一曲弾けた時点で満足したので以降は弾いておらず、絵は特に描きたいものもないので描かないだけであって、つまりそこには妹の影響などない。もっと言えば、剣道もギターも絵の制作も気分次第で再開出来るのだから、こちらとしては辞めたつもりもなければ諦めたつもりもないのだが……というのが僕自身の僕に対する考察だった。
つまり、この時点で「兄貴が全部楽しめなくなったのは、私が全部真似したから」ではないのだと僕は思っているのだが、得てして自己分析とは当てにならないものである……人の目は前方のみを見るように設計されており、自分のことを見ようと白目を剥くとたちまち真っ暗な視界になって何も見えなくなってしまうことからも自己分析の盲目さ加減は明白なので、僕自身の主観的な考察だけでは透の客観的な分析を完全に否定することは出来ないのである。
しかも、仮に僕の考察の方が正しかったのだとして、それをそのまま伝えて良いものだろうか……という懸念も同時に存在するのだ。
というのは、なぜ透は
「どう返事をすれば良いのか分からなかったので保留にしてしまいました」
という逃げの選択肢を取る以外に方法が無く、ナポリタンの上から唐揚げを拾い上げてモソモソと咀嚼するしかなかったのだった。
その一部始終をジッと観察していた瀬瀬さんはやがて「そうですか」と微笑んだかと思うと、ジップロックからニンジンの短冊切りを引き上げつつ「まあ、まだ後半の稽古もありますしね」と言って食べていた。ジップロックの中身の法則性は未だ見つからなかった。
「……ああ。そういえば以前仰ってましたね、竹刀越しでしか伝わらないこともあるかも知れないって」
「事と次第にもよりますけどね。ただ、何も語らずに黙って対戦をした方が互いに分かり合える場合もあるんじゃないのかと、そう思わざるを得ない場面は多々ある訳でして……ドラマでたまに見かける寡黙な親子同士のキャッチボールを通じたコミュニケーションなどは、まさにその典型と言いますか」
「実際、音音さんとも対戦を通じて何か分かり合えたりするものですか? あれほど壮絶な攻防をしていると、そこで取り交わされる以心伝心の程度も並大抵ではなさそうですけど」
「どうなんでしょうね。私たちは日常生活でも言いたいことは手当たり次第に言い合っている間柄なので、対戦をする以前に互いのことは知り尽くしている感がありますね。むしろ私たちの場合だと、そこでの対戦は『分かり合うための儀式』というよりは『分かり合えなかったことの憂(う)さ晴(ば)らし』なのではと思うことがしばしばあります。要はキャッチボールが行き過ぎた結果、ドッジボール大会になってしまったようなものじゃないでしょうか」
「憂さ晴らし、ですか……」
ごま塩のかかっている白米を箸で摘まんで食べ、「あの対戦にはそういう目的があったんですね」と返しつつ……なるほど、遠遠姉妹が相互に怪我をしてまで例の壮絶な対戦をするのにはそのような理由があったのか……なんと不健全な……と思っていたのだったが、
「とは言っても、憂さ晴らしが出来るような対戦は地稽古限定なんですけどね。通常の大会で仮に音音と勝負することがあったとしても開始直後に打ったいずれかの打突が一本になるでしょうし、剣道は二本先取のルールなのでどれだけ長引いても三手目には決着がついてしまう。たった三回だけ打ち合ったぐらいでは憂さ晴らしにはならないので、そういう意味でもあの子は公式の大会に出場しないのかも知れませんね」
という瀬瀬さんからの補足説明が入ると同時に、そういえば……と思い出したので質問する。
「あの、間違っていたら恐縮なんですが、音音さんと地稽古をする際の有効打突って……」
「相手を戦闘不能にするような一撃だったかどうか、が判断基準ですね」
「…………」
思いの外あっさりとした答え合わせが返って来つつ、更に掘り下げて尋ねる。
「他の方とは通常のルールで対戦していましたが、音音さんとの試合だけが例外なんですか?」
「音音だからというよりは、『音音とは実力が限りなく拮抗しているから』と言った方が正確かも知れませんね」
と言って茹で鶏をジップロックから取り出し、猟奇的にかぶりついて呑み込むと続ける。
「実力の大きく離れた者同士の地稽古はごく短い試合時間でササッと終わります。なぜなら、上達者が放った見事な打突は未熟者にとって文句の付け所がない『一本』でしかなく、加えてその打突をするに至るまでの駆け引きも両者の間には不必要なので、この場合は十秒もしないうちに勝敗が決してしまうことになります……が、これが反対だとどうなるでしょう」
「……実力が拮抗した者同士だと、ということですか」
「そういうことですね。すなわち、実力の拮抗した両者間では水面下でも白熱した駆け引きが繰り広げられているし、いざ一方の剣士が打突をしたかと思うと『今の残心は甘かった』だの『姿勢が悪かった』だのとケチをつけて打突を無効にしてしまい、そのまま対戦を続行する……ということが、本当に限りなく拮抗した実力の持ち主同士では起こり得るのです。明確に実力差の開いた相手に対して負けを認めることは容易くても、実力が拮抗している相手に対して敗北を認めることは屈辱この上ないからです」
「…………」
「では、そのような場合に勝敗はどうつければ良いでしょうか。三人の審判が同時に旗を上げるような客観的に完璧な打突にまでケチをつけ始め、互いが互いの打突を意地でも認めないとなれば勝敗は一向につきません。しかも両者はこの攻防で相当に苛立っているでしょうから、最終的にはヤケクソになって竹刀が大振りになりつつ……もう勝敗はどうでもいいから出来るだけ相手を痛め付けてしまおう……となっていよいよチャンバラ式の喧嘩が勃発し、正しい残心や姿勢などとは正反対のデタラメ打ちが延々と繰り出される暴力剣道の場が武道場の一角に形成される。礼節正しい神聖な武道場の片隅にうっかり剣道を知らない素人の二人組がチャンバラをしつつ紛れ込んでしまった、という構図になる訳ですね」
「……
半ば当てずっぽうの要領で言うと、瀬瀬さんは右手の人差し指をピンと上に立てつつ「まさにその通りです」と微笑んで続ける。
「そもそも剣道とは日本刀で敵を殺すための稽古法として開発された殺人の術です。戦場を駆け巡りつつ相手を片端から斬り捨てて行くための練習法として武士は剣道を学び、審判が不在の合戦の場では相手の首を取ることが勝利を意味していました。つまり、原初的な意味で言うところの『有効打突』とは相手を死に至らしめる打突のみを意味し、極論を言うと残心、姿勢、気合が伴っていなかろうが相手を殺せば勝ちだったのですが、このやり方を音音との対戦に持ち込んだところ思いの外マッチして。何せ相手を殺傷するつもりで竹刀を振っていれば、そのうちどちらかが動けなくなって強制的に勝敗が決まりますからね。『絶対に私は負けていないんだ』という虚勢も、片膝を地面に突きつつ言っているセリフならば存分に無視できる訳です」
「…………」
「ちなみに、音音との対戦中に中段の構えに戻したのもこれが理由ですね。竹の棒では相手を一撃必殺することは出来ないし、打突を受けた側は『まだ死んでいないぞ』というアピールのために速攻で反撃する必要がある。つまりこの対戦中は相手と距離を取る時間などなく、構えを元に戻す時間なども存在しないので必然的に中段構えになる訳です。……もっとも、ご覧になったように音音との対戦中では構えなど有って無いようなものですけどね。中段構え風、とでも言った方が正確かも知れません」
「……だから音音さんも上段構えにならなかったんですね」
「そういうことですね。ただ、両者とも衰弱して試合が落ち着いてくると上段に構える余裕も出てきますので、さっきの対戦の終盤のような展開にも時としてなったりする訳ですが」
「仮面ライダーが番組の終盤でしか必殺技を打たないようなものですか」
「敵がその予備動作を妨害できないほど衰弱しているから、という意味では確かにそうですね」
という所で一旦区切り、各々が各々の食事をモグモグと再開する。
……なるほど、遠遠姉妹の激戦にはそのような背景があったのか。
拮抗した実力のために中々つかない勝敗、その勝敗を明確にするべく設けられた「致命傷の打突のみが有効」という独自のルール、そのルール下で両者は自分の無事をアピールするべく生き生きと攻撃し続け、その絶え間ない激戦に対応するための中段構え風なのだな、と分かる。
ただ、パズルのピース式に色々と分かりかけている中、依然として分からないことがあった。
「少し疑問に思ったんですけど、瀬瀬さんが上段に構えて打ったあの逆小手は音音さんを戦闘不能にさせるつもりで打ったんですか? 本人からは『最も痛みを伴わない打突だった』とか、『表面的な痛みしか後には残らなかった』と伺っていまして」
遠遠姉妹の対戦が如何に暴力的であるのかが分かってくると同時に、その疑問がどうしても浮上して来て分からなくなっていた。
面を打つ時は相手の頭蓋骨を割るつもりで打っていたのだろうし、喉を突く時は相手の気道や脊髄などをズタズタにする意気込みで打っていたのだろうと分かった今、なぜ逆小手にだけは大したダメージを負わせなかったのか……ということが疑問だったのだが、
「あれはまあ、単体としては相手に致命傷を与える性質の打突ではありませんからね。あくまで相手の体勢を崩すための『技』であって、言うなれば決めの一手に繋ぐための布石ですから」
という説明を受けて、なるほど……と頷きかける。
ただ、それと同時に別の疑問が湧いて来たので続けて質問した。
「……その『技』も霞の構えと同様に、小野派一刀流から吸収したものだったりするんですか?」
すると瀬瀬さんは箸を止めてこちらを向き、「小野派を御存じなんですね。今度お会いした時には近世剣術の話でもしましょうか」と楽しそうに微笑んだ後、「実は透から聞いただけで」とこちらが訂正する前に続けた。
「ただ、あの技に関しては小野派どころか剣道とも無関係で、実はジークンドーという現代の中国武術から引っ張り出してきた技なんですよね。私たち姉妹は見ての通りの体格差で体重もかなり違いますから、何かしら工夫でもしない限り
「……ジークンドー、ですか」
と復唱しつつ、……確かジークンドーは空手やボクシングのような徒手空拳の格闘技だったはずだが、素手で相手と対戦するジークンドーをどのようにして剣道の中に組み込むのだ……その仕組みとは一体……と好奇心が増してきた表情を彼女は一瞥し、
「実演してみせましょうか。その方が幾分か分かり易いかも知れないので」
と例のハスキーボイスで言いつつジップロックの中に白い箸を突っ込むと、左手にそれを持ったままスックと立ち上がって逆光になりながらこちらを見下ろしたのだった。
……自分は一体、弁当を片手にどのような表情を浮かべていたのだろう…………。
などと気恥ずかしくなりつつ弁当を人工芝に置いて立ち上がると、瀬瀬さんはジップロックを持っていない右手の手の平を「お手」の要領で上に向けて出した。
「右手でも左手でも構いませんので、手を出して頂けますか?」
「……こうでしょうか」、と言って右手を瀬瀬さんと同じように差し出す。身長が三十センチ以上は違うので、地面と平行に腕を折り曲げただけで指先が相手の喉の高さになった。
「では、今から私は拓志さんの手を下に押すので、拓志さんは踏ん張って抵抗してくださいね」
瀬瀬さんはそう言い終わらない内に自身の右手を裏返し、妙に体温の高い小さな右手を僕の右手の上に置いた。
置いた、というだけだった。
手の平に伝わってくるのは小型犬の脇腹のような熱量だけであり、それ以外には何らの力も加わってこなかったので抵抗するまでもなかった……はずだったのだが、
「今、私の片腕の全重量を拓志さんの手の上に乗せました」
と彼女が言った途端、握り拳ほどの石が乗せられた重みがズシッと伝わってきて、僕の右手はゆっくり五センチほど下がってきた。
「これはジークンドーという技術の中でも中核と言っていいほど肝心な『脱力』という仕組みですね。今わたしの右腕の重量は一切の無駄なく拓志さんの手の上に乗せられていますので、私の体重の六・五パーセント……つまり二・三キログラム程度の重量が伝わっているということになります。ダンベルにしては軽い部類の重さですし、もう少し重くしても耐えられるかと思います」
と言っている間にも瀬瀬さんは手の平を浮かして五本の指だけで僕の右手をググッと押し、右手は更に五センチほど沈んで指先の位置は彼女の喉元から胸の辺りにまで下がっていた。
「物体が触れる表面積が減れば伝わる重量は反比例式に増えます。手の平の面積は全体の半分ほどですから、拓志さんの手に加わる力は単純計算で倍になったと思います。そして、」
の読点で一旦息継ぎをしつつ、瀬瀬さんは親指、中指、薬指、小指の順番に僕の手の上から浮かせ、いよいよ人差し指だけになってボタンを押すようにジリジリ四センチ沈めながら言う。
「これは他のことについても言えることですが、運動をする際には動作を止めずに動き続けることが大切です。大玉転がしなどがその典型で、あれは動かし始めこそ大人数を必要としますが、いざ転がり出してからは一人でも簡単に運ぶことが出来る」
そう瀬瀬さんが言い終わる頃には、肘と平行の位置にあった僕の右手は腰の位置にまで下がっていた。
途中からは本気になって瀬瀬さんの右手を全力で持ち上げようとしていたにも拘らず、彼女は涼しい顔で喋りながら緩慢かつ確実な重量でジワジワと僕の右手を抑え付けていた……のだが、彼女の解説が終わった直後から僕の右手は徐々に元の位置へと上がってきていた。
というのも、瀬瀬さんの解説が止まると同時に右手へかかる力が徐々に低下し、その一方でプルプルと震えながら惨めに手を持ち上げている僕の力が勝ってきたのである……会話と並行する形で「脱力」をしていた瀬瀬さんは、会話を中断すると同時にその威力を減少していたのだった。
「私が今していたのは、天秤の片方に重りを一つずつそっと置いていくようなことでした」
瀬瀬さんがそう言っている最中も、十五センチほど下がっていた僕の右手は元の高さへと戻りつつあった。
その高さが、三センチ、二センチ、一センチ……と縮まり、いよいよ元の高さにまで戻ってきた途端にビタッと上から抑えつけられる。
瀬瀬さんは青白い瞳を三日月形に細めつつ、皮肉ぎみのハスキーボイスで言った。
「そして今から私がするのは、たかだか二・三キログラムの重量を一気に上空から叩き落とすような振る舞いです」
次の瞬間、瀬瀬さんは棒立ちの状態から右手を一気に頭上に振り上げ、そのまま勢いよく振り下げて僕の右手を叩きつける。
すなわち、さっきまでは漢字の「吊」のような棒立ちだったのが、右手を天に掲げると同時に左足をサッと後ろに引いて武術式の構えになり、その直後に糸が切れたかのようにガクンと両膝が折れ曲がったかと思うと、その勢いで腰、胴体、頭が下がってきていよいよ本命の右手が振り下ろされる……瀬瀬さんが言うところの二・三キログラムが一瞬のうちに一メートルの距離を落下し、両膝が曲がって右手を地面スレスレまで叩き落としたころには「另」のような体勢になっていたのだった。
そして、その威力をマトモに食らったこちらの右手も当然タダでは済まなかった。
というのも、彼女の右手が振り下ろされた直後に僕は右手と右膝を人工芝の上に突いていたのだ……手の平に伝わった衝撃で肘が伸ばされ、肘が伸びた衝撃で肩が引っ張られ、肩が引っ張られた衝撃が……という具合に衝撃が伝播して、右手ごと右半身を叩き落とされたのだった。
「…………」
というだけなら「ただの力任せだったのだろう」で言い訳がついたかも知れない。
しかし、その短絡的な発想は僕自身の右手によって阻害されていたのだった……というのも、あれほどの威力をマトモに食らったはずの僕の右手からは、
「立てますか?」
と言って差し伸べられたミニチュアのような右手を触れるのさえも恐ろしくなっており、「いえ、自分で立てますので」と断って自力で立ち上がるほどには彼女に脅威を感じつつも、やはり一切の無理なく立ち上がれる健康体だったのである。
「すみません、まだ手加減が出来るほどには上達していなかったようで」
と頭を下げつつ(角度的に表情は窺えなかった)僕の右手を取って手の平を上に向けさせ、そのまま親指で手の平を撫でながら「中には入れなかったつもりでしたが痛んでいませんか?」と覗き込んでいたのに対して「大丈夫です」や「平気です」などで返してから尋ねる。
「……今のが、その……音音さんに使った『技』なんですか?」
「はい、そうです。『脱力』した右手を『飛ばし』の要領で振り下ろした……」
と言いかけてスルリと僕の右手を離し、「さっき拓志さんの右手をゆっくり押した時は手が痛んだりしませんでしたか?」と尋ねてきたので、随分と心配されてしまったな……と思いつつ「どこも痛くありませんでしたよ。ただ押されただけですので」と返す。
しかし瀬瀬さんは「今したのはそれの延長だったんですよ」と微笑して、つまり普段通りの様子にすっかり戻りながら解説をし始めたのだった。
「私は音音の逆小手を叩き落とした要領で拓志さんの手の平を叩きましたが、叩くという表現は厳密ではなくて実際は『押し飛ばし』ていた……つまり原理的には押し相撲の要領で突き飛ばしていたので、音音も『表面的な痛みしか後には残らなかった』と言ったのでしょう。押し相撲をして手の平が赤くなることはあっても、指の骨が折れることはまずありませんからね」
「……竹刀で叩いたとしても、ですか」
「女性の場合、大学生・一般の竹刀の重さは四四〇グラム以上という規定です。つまり腕全体の重量と足しても三キログラムにすら満たず、叩き落としたのならまだしも『押し飛ばし』たのであれば大したダメージになる重量ではありません。鉄パイプほどの重量であれば話は変わってくるでしょうけれど」
という物騒な単語にハラハラとしていると「座りましょうか」と言って瀬瀬さんが桜の木の根元に腰を下ろしたので、既に余韻の消え去った右手を突きつつ人工芝の上に座る。
「……凄いですね、剣道をしながらジークンドーまで習得しているとは」
「習得だなんて大層なものでもないですよ。さっきも手加減が出来ていませんでしたし、誰かに師事を仰いだ訳でもないので誤った学習をしている箇所もあるでしょうし、何より……」
と区切って瀬瀬さんは垂ネームに手を突っ込み、通常より一回り大きいサイズの目薬のような透明の容器を取り出して「こんなものでも飲まなければままならないですから」と摘まんで見せた。
「……クライナーファイグリングですか? ドイツのお酒ですよね」
「これもご存じだったんですね。ちなみに中身はウォッカと入れ替えていました。クライナーはこのサイズで二百円もするので貧乏学生には厳しくて」
と言いつつ摘まんだクライナーの容器を振っていたが、中に液体の気配はしなかった。
「いつ飲んだんですか? 練習試合が始まる前とかですか?」
「飲んだのは地稽古が始まった直後です。面を一旦外して道場を出てから女子トイレの個室で飲み干しました。道場に戻って来る頃には半分ほど効いていて、音音との対戦中に一気に回りましたね」
「……なぜ対戦中に飲酒を?」
「『脱力』を決まり易くするためです。人は意識して脱力しようとしても脱力し切れない部分がありますので、達人なら別ですが素人の私が全身の力を抜こうとするにはアルコールの力でフニャフニャになるしかないんですよ」
「なぜそこまでするんですか?」
食べかけの弁当と割り箸を置いたままにし、そう質問せざるを得なかった。
道場で瀬瀬さんの姿が見当たらなかったのはウォッカを飲むためだったのだと知り、彼女の妙に体温の熱い手の平を触った僕はその反応をせざるを得なかった。
なぜなら、彼女の高熱は熱中症か急性アルコール中毒のせいだろうと判断したからだ。
「音音さんは今回の試合中に気を失ったことを、日常茶飯事のような口ぶりで雑談のついでに言っていました。瀬瀬さんは音音さんのことを『体力の怪物』だと言って元立ちを交代して貰っていましたが、瀬瀬さんは音音さんとの対戦中に気絶したことはないんですか?」
「あります。一度や二度ではありませんね」
「…………」
声音も表情も普段通りのまま返され、こちらが間違っている気分になって黙ってしまう。
ただ、沈黙が続けば続くほどに懸念は確信に変わっていった……よくよく見ると三月中旬の肌寒い中で顔面はホンノリ赤くなっているし、青白い瞳は虚空を見つめるように据わっており、何より全身からは「芯」のようなものを感じられない。背中は猫背ぎみに折れ曲がって両肩はガックリと落ちており、呼吸の一つ一つも深すぎるように思えていた。
「……やっぱり分かりません。なぜそこまでするのかが」
気を取り直して言い、遠くを見るような目と視線を交わした気になりつつ続ける。
「実力が拮抗しているせいで勝敗がつかず、その勝敗を明確にするために『致命傷の打突のみが有効』というルールを作った……その理屈は理解しましたが、それを聞いた時の僕の正直な感想は『だったら対戦を避ければいいだろう』でした。飲酒した状態で試合に臨み、失神するぐらいの本気度で対戦するその理屈は何ですか。一度や二度ならまだしも、幾度となく対戦し続ける理由は……」
「
その時、僕の目の前で恐るべき錯覚が起きた。
すなわち、遠い目をしていた彼女の青白い瞳の奥にいつの間にか濃紺色の円形が生じている……濃紺色はインクが滲むように拡大しつつ青白い瞳の半分ほどの大きさで成長を止めると、こちらをジロリと睨み付けながら呟いた。
「三六三五勝一敗。
「私が十年の間で音音と対戦した回数、そして戦績の数字です」
ハスキーボイスが耳元で喋っている気分に倒錯する。
彼女の話を聞いていた。
「音音に負けたのは私が高校二年生の時でした。
「高校の武道場で部活をしていた時にいつも通り音音が単身で出稽古に来て、そして私を負かしました。
「癇癪のあまり彼女の防具以外の所を殴打して二度と剣道が出来ないような体にしてやろうかと思いましたが、疲労困憊のために立ち上がることも出来ず、行き場のない苛立ちがピークに達して左頬の内側を噛み千切って以来その場所に口内炎がよく出来るようになりました。
「人生十七年間で最大級の激怒は対戦から一時間経っても全く収まりませんでした。
「自転車で部活から帰る途中に商店街の外れに行き、ラインナップが四つしかないオモチャのような自販機でワンカップを十個買って帰ると、翌日の五時頃に自室のフローリング上で嘔吐物に顔を埋めたまま眠っていた自分自身を発見したので、ズキズキと痛む頭を抑えながら証拠隠滅を図り、学校を休んで半日間眠っていました。
「そして二日酔いも覚めやらぬまま部活に行き、何も知らないでノコノコ訪問して来た音音と対戦して勝った時にアルコールの可能性に気付きました。
「私がお酒にどっぷりハマったのはそれからです。
「以降は小野派一刀流やジークンドーを学習しつつ剣道に組み込み、妹だけには二度と負けるまいと修練し続けていました。
「次に私が音音に負けた時には、よりえげつない不幸がもたらされると知っているからです」
……そう彼女が言い終わった後に、眼前では別の錯覚が起きていた。
というのも、彼女の瞳の奥にあった濃紺色の円形が突如として成長を再開したのである……拡大した濃紺が青白い瞳を瞬く間に塗り替え、底の知れない深淵と化してこちらを覗いていた。
「……と、私の理由としては大体こんな感じでしょうか」
その一連の錯覚が収まったのは、彼女の「でしょうか」が言い終わった直後だった。
いつの間にか瀬瀬さんはクラブセンターの玄関の方を向いており、左手ではジップロックを持ちつつ右手の箸で挟んだ鶏肉にかぶりついていたのだった。
……生きたまま狼に食われているような気分だった。
人畜無害そうな子犬を腹の上に乗せて遊んでいたら、何の前触れもなく腹部を食い破られて腸を引きずり出された気分になった……濃紺色の円形にギョロリと睨まれ、全身が竦んだまま黙っていることしか出来なかったのである。
「ちなみに、音音の方がどうだかは分かりません。私という『姉』に勝ちたいのかも知れないし、あるいはそれ以外かも知れない。もっとも、一年半前ほどからやけに必死度が高くなってきたのを覚えていますので、その時々で理由は変わっているのかも知れませんね。要するに、少なくとも私ほど単純な理由でないということです」
「……妹には負けたくない、という理由ですか」
すると瀬瀬さんはプラスチックの白い箸をジップロックの中に入れ、弁当箱から取り出した七味の瓶の内蓋を取って中身の半分ほどをジップロックに流し込みつつ言う。
「拓志さんは先日、『妹が僕の真似をして僕以上の成果を出すのは、兄として誇るべきことでしかありませんから』と仰っていましたよね」
という自分の声真似を不意に聞かされて、第三者からすると僕はこんな声なのか……という発見を得ながら「言っていたと思います」と返す。
「果たしてそうでしょうか」
と、瀬瀬さんは淡白な瞳で言った。
「自分の弟子が何らかの功績を残したことについて誇りに思う……というのは確かに師匠の性(さが)です。自分という存在が稀代のアスリートを生み出し、自分が居なければ彼の優秀な人材は開花せずに生涯を終えたのだ……と思考することにより、師匠は自身の存在価値が証明されたと確信して大いに喜びます。生きていく意味を提示されないままに産み出された我々にとって、存在価値とはその答えになり得るものの一つだからです」
「…………」
「ただ、弟子が師を追い越してしまったら本末転倒ですから」
……と言ったきり、瀬瀬さんがその件について話を続けることはなかった。
特に補足や注釈もないままジップロックからたこ焼き(二個目)を摘まみ上げて丸呑みにし、クラブセンターから入って来る人の流れをボンヤリと眺めていた。
……多弁になりがちな瀬瀬さんにしては珍しく、多くを語らなかったな……と不思議になりつつ磯部揚げを取って食べると、瀬瀬さんは前を向いたまま言った。
「兄弟や姉妹というものは、一種の精神的な『檻』だと思うんです」
「……檻って、刑務所とかの檻のことですか?」
「はい。その檻のことです」
開放的な中庭の突き抜けるような空の下とは正反対の語彙だな……と思っていると、彼女は正面を向いたまま続ける。
「改めて尋ねますが、拓志さんは『妹のせいで』と思ったことは一度もないんですか?」
「…………」
僕は首を横に振り、一方的に瀬瀬さんの横顔を見ながら言う。
「ありませんね。僕が剣道やその他諸々を辞めたことについて、妹は全くの無関係です」
「揚げ足を取るようなことを言って申し訳ないのですが」
と前置き、瀬瀬さんはこちらを向いて淡白な青白い瞳で続けた。
「私は拓志さんに、『剣道やその他諸々を辞めたのは妹さんのせいですか』、とは尋ねませんでしたよ」
「…………」
口内が急速に渇き、粘膜がカサカサになって剥がれ落ちるような気がした。
三月の寒風が吹き、後方で何かが……カランカラン……と転がる音がした。
「あとはそうですね。拓志さんは、『妹が僕の真似をして僕以上の成果を出すのは、兄として誇るべきことでしかありませんから』、とも仰っていましたよね」
「……はい、言いました」
「それはつまり、『妹の成果は兄である自分のおかげ』ということにはなりませんか?」
「…………」
酒を飲んでもいないのに手汗が出てきた。
袖から侵入してくる冷気が腹部に到達してゾクゾクする。
「人間は必ずしも成長するべきとは限りません。
「生きる意味を持たずに産まれてきた我々は、成長する意味も同様に持たないのですから。
「ですが、
「…………」
「ちなみに、この言葉は私自身に向けての戒めでもあります」
と言って瀬瀬さんはこちらに微笑みかけ、再びクラブセンターの方を向いた。
「私は妹のせいで肝臓を悪くしました。体のどこかには常に剣道の怪我がありますし、大学を選ぶ時は剣道部が強いかどうかで決めてしまったために興味のない分野の授業を四年間受ける羽目になりました。卒業後はより剣道の実力を向上させるために警察官になって警察剣道をするのでしょうし、その上で妹に負けたなら公権力を傘に発狂するかも知れません」
「……そこまで音音さんの影響力は強いんですか」
「そもそも体格的なコンプレックスもあったのかも知れませんね。片やあのスタイルですが私はこの有様ですので」
と言ってジップロックからぶつ切りにしたキュウリを引き上げると、ボリボリと噛み砕いて呑み込んでから言った。
「檻の中の環境は劣悪です。いくら肉体を鍛えようがその閉塞感は徐々に精神を蝕んできます。収監者の末路は檻の中で与えられた物だけを摂取しながら死んでいくか、あるいは刑務作業で作った製造品を檻の外に投げ捨てて死ぬかの二つだけです」
「そんなことは……」
「ただ、拓志さんはその檻から脱出することが出来るはずです」
瀬瀬さんはジップロックの中に白の箸を入れて綴じ、弁当箱に収納しながら言う。
「まず、うちの場合とは違って妹さんからの束縛が緩い。『兄貴が全部楽しめなくなったのは、私が全部真似したからなんだよね』……という台詞を門出の日に言ったのがその証左です」
「……どういうことですか?」
前のめりになって彼女の言葉に耳を傾ける。
本来ならば円満に別れられたはずの会を掻き乱してまでなぜあの発言をしたのか……その答えが聞けるとなって食事の手は完全に止まっていた。
瀬瀬さんは弁当類を片付け終えると「筋道を辿って行きましょう」と言い、斜め上を見るような顔の角度になって人差し指を立てた。
「透さんが実家を出て一人暮らしを始めた理由は、剣道に専念するためです。
「実家が奈良で大学が京都ですので電車で通学する方法もあったはずですが、往復の通学時間で一日に三時間は潰れてしまうぐらいなら一人暮らしを始めて剣道以外に割く時間を減らしたかった……のかは分かりませんが、大学生活の四年間で一滴もアルコールを摂取しないという戒律を自分で敷くぐらいには、彼女の剣道に対する意気込みは本気でしょう。
「であれば、その一人暮らしの初日に拓志さんに言った『兄貴が全部楽しめなくなったのは、私が全部真似したからなんだよね』という台詞は、透さん自身が剣道に専念するための呪文だったのではないだろうか……と解釈することが出来ないでしょうか。
「つまり、透さんは割り切りたかったのです。
「透さんは自分が活躍するごとに怠惰になっていく兄の存在を認知していて、そのことに後ろめたさすら覚えていた……その後ろめたさを克服するための質問だったのでは、と思うのです。
「仮に拓志さんが『その通り』だと言い、自分の怠惰は妹であるお前の活躍のせいなのだ……と言ったら、透さんはその業を背負いつつ開き直って剣道に打ち込むつもりだった。
「反対に拓志さんが『違う』と言い、自分が怠惰なのはお前のせいじゃない……と否定したら、ならば何の気兼ねもなく剣道に専念出来るではないか……と毎日の稽古に励むつもりだった。
「これが透さんの『檻』であり、そしてそこから脱出する術でした。
「兄への後ろめたさのせいでどこか本気で剣道に取り組み切れないという『兄の檻』、そして妹の活躍のせいで気力を失って何もかも全力で取り組めないという『妹の檻』にそれぞれが収監されていることを透さんはいつからか気付いていて、それを打ち破るべく門出の日に言ったのが例の台詞だった。
「拓志さんという束縛から脱出し、自身も拓志さんに対する束縛を解こうとしたのがあの台詞だったのではないか……と、私にはそのようにしか思えて仕方がないのです」
……つまり、瀬瀬さんの主張はこうだった。
透は剣道の実力を買われて剣道のために大学に進学し、その道に専念することを選んだ……ただ、本当の意味で剣道に専念するためには兄という存在を割り切って後ろめたさを克服する必要があったので、本格的に大学での剣道が開始する三月のうちにあの発言をしたかったのではないか……ということだった。
「これは蛇足ですが、大学の剣道部に所属しているうちは酒を飲まないという戒律に関しても、果たしてその理由は剣道のためだったでしょうか。飲酒をすることで剣道のパフォーマンスを向上させている先輩が身近に居ながらその方法を一度も試さず禁酒の戒律を敷くというのは、何か剣道以外の理由があってのことだと考えられないでしょうか」
「…………」
「無論、これは蛇足がてらの邪推に過ぎません。しかし、透さんの戒律を彼女の兄妹関係と安直に結び付けてしまう時には、彼女は
「……しかし、それはまた別の檻に入っていることになりませんか?」
瀬瀬さんは「仰る通りです」と深く頷き、猫背で虚空を仰いで続ける。
「もう既に真似してしまっている剣道については開き直って打ち込み、飲酒やその他については一切の真似を禁じる。もし本当にそうだとしたら、これはいささか過剰な戒めと言うべきでしょう。人生をどこまでも不自由にする足枷なのですから」
「…………」
「だから拓志さん、あなたは透さんから解放されないといけないんですよ」
グリッと顔をこちらに向け、青白い瞳で訴えかけてくる。
「拓志さんが妹に真似されるせいでやりたいことが出来なくなったように、透さんもまた兄に気を遣って迂闊にやりたいことが出来なくなっている。なら、そもそも拓志さんが真似されることを厭わなければいい。そうすれば拓志さんと透さんとの間にある兄妹間の問題は、全てがたちまち解決するではありませんか」
「……その通りだとは思いますけど、どのように表明すれば?」
「簡単です。何かに打ち込めばいい」
瀬瀬さんは斜め上を見る顔の角度で人差し指を顎に添えて言った。
「一番分かりやすいのは、透さんに真似をされて辞めた活動を再開することでしょう。ギターやイラスト、あるいは剣道でもいい。とにかく活動を再開することです。そうすれば透さんは妹の影響力が無くなったことが分かって、しがらみなく生きていくことが出来るでしょう」
「…………」
「そして、その門出としてこのクラブセンターは、まさにお誂え向きではありませんか」
両手をバッと広げつつ、猫背をピンと立てて言う。
「美術部に軽音部に剣道部、その他あらゆる活動の場が一挙に集まるこのクラブセンターで、複雑な構造に迷いつつ拓志さんのやりたいことを探してみてはいかがでしょうか。その結果がどうであれ、その後のご兄妹の間柄はより良いものになるだろうと、私は確信しております」
「……やりたいこと、ですか?」
「義務感で活動に取り組むよりその方がいいでしょう。『どうせ妹に真似されて越されるのだ』と思って尻込みしていた
……透の戒律は、「二度と兄の真似をしない」という意思表示だった。
つまり、僕は妹に真似されることを無意識では快く思っておらず、妹に真似をされたことはすぐに引退し、それ以外についても「いずれは真似されて越されるだろう」と消極的になって全くの無気力になってしまっていたから、透は例の戒律を敷いたのだ。
であれば、その解決法はごく簡単に分かるではないか。
つまり、
……この簡単な解決法を、どうして今まで考え得なかったのか…………。
ともすると僕は、無気力で居続けたいがために妹を悪者にしていたのかも知れないぞ……という発想が頭をもたげていたので、その自己分析に入る前にまずは瀬瀬さんに「相談に乗って戴いてありがとうございます」と伝えることにしたところ、
「いえいえ、こちらこそ一方的に話し込んでしまって……しかも私のような立場の人間が言う言葉ですから、話半分に受け取ってください」
という返事が来て、今一つ「私のような立場」という言葉を解釈し得ずにいたのだったが、そうしていると瀬瀬さんから次のような補足が入った。
「というのも、私や音音は『檻』を自覚しながら克服できていない身分ですからね。私は音音に負けないために肝臓を悪くしてでも酔拳を続けますし、音音は私との対戦回数を増やすべく私と同じ学校に入学してきた。人生そのものが姉妹間のくだらない意地の張り合いに終始し、この人生の壊し合いは一生涯にかけて続くことでしょう。つまり、私は自分のとこの姉妹関係がまず破綻し切っているのですから、そのような立場の人間が他人様の兄妹関係に口出ししたところで信憑性はないのだということですよ」
「……克服しようと思ったことはあるんですか?」
というのは他でもない。
すなわち、「克服できていない」ということは「克服しようとはした」のではないか……今のままでは互いに良くないということを認識し合っていて、どうにか現状を脱却しようとはした……つまりそこには現状打破の意志があるはずで、だとすれば僕のような外野が助言することで案外どうにかなるのかも知れないぞ……と思ったのだったが、
「拓志さんは腕を折ろうとしたことはありますか?」
と言いつつ猫背で横から見上げてくる青白い瞳に圧倒され、大いにたじろぎながら「ありません」と答えるしかなかった。
「私はね、何度かありました。そうすれば音音との対戦を諦められると思ってね」
「…………」
「まあ、どれも失敗に終わりましたけれどね。本能的な拒否反応もあるんでしょうけど、腕を折ろうとする度に『そうしたら二度と音音に勝てないんだぞ』と思ってしまって……要するに、目的そのものが目的を却下する理由になっているわけです。どうしようもないことですが」
おもむろにウインドブレーカーの裾を捲り、露わになった細い左腕には部分的にあざのような斑点があるものの、それ以外には何らの縫い目もない真っ白い肌だった。
「……いっそのこと、誰かに折られたらすっかり諦めもつくでしょうけれどね」
と言って、ジッ……と僕の目を見てきた。
三日月形に細めた青白い瞳で静かに睨まれ、黙っていることしか出来なかった。
「……さ、そろそろ道場に戻りましょうか」
彼女はスックと立ち上がり、白の弁当袋を携えて振り返る。
僕は「そうですね」と答えつつ、唐揚げが二個、ごま塩のかかっている白米が半分、そしてハンバーグとナポリタンが丸ごと残っている弁当の中に割り箸を入れて蓋をし、枯れ木の下でゆっくりと立ち上がった。
「次会う時までには、きっと何かしらの方法を考えてきます。これだけ親身に助言を頂いたのですから、せめてそれぐらいはさせて下さい」
「私と音音との関係性を健全にする方法を、ですか?」
瀬瀬さんはクラブセンターの玄関の方を見たまま言い、僕は「そうです」と答えた。彼女は何度も見せた普段通りの微笑で、つまり期待など全くしていないという表情をしつつ、「では連絡先を交換しましょうか。でなければ今度会おうとしても難しいでしょうからね」と言って白のスマホを取り出した。
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