第3話 激戦の幕開け

 淋漓(りんり)大学の正門を潜って敷地内を横断し、裏門から出る。

 すると今度は進行方向を左に折れ曲がって車一台が通れる幅の道路を歩き、大学の所有する会館を横切りながら更に奥へと進んで行くと、妙に人通りが多い古びた住宅街の中に出る。

 この人通りの殆どは、この地域に住む人間ではない。

 すなわち、彼らはこの住宅街に隣接する大阪淋漓りんり大学の生徒である。彼らは淋漓(りんり)大学の校章が入ったそれぞれのコスチュームを着て他府県から登校し、午前九時前の時間から眠たい目を擦りつつ淋漓大学の擁する総合クラブセンターに向かっているのだ。

 そして自分もまたその施設、すなわち体育会系と文化系の両方の活動場所が一挙に集積する、部活動のためだけに設けられた例のセンターに向かって、三年前から使っていない道着や袴、防具や竹刀の数々を携えつつ、寒空の下を薄着がちな恰好で歩いているのだった。

「…………」

 クラブセンターの正面に辿り着き、大荷物の運搬で噴き出た額の汗を手で拭うと、溜め息と深呼吸の中間のような呼吸をして動悸を落ち着ける。

 一週間前のあの日から今日に至るまで、特に決意めいたような過程はなかった。

 というのは、僕はただ遠遠さんに促されるまま練習試合に参加することにして、そのように思い立った当日中にダメ元で大学の剣道部に連絡をして体験入部を申し込んだところ簡単に快諾されてしまい、全てがトントン拍子に進んで行く中で三年間放置したままだった防具類や道着などのメンテナンスをしているといつの間にか一週間が経っていて、事の重大さを意識する間もなくこの場に立っているのだったが、

「やあやあ、ようこそお越し下さった。体験入部に来てくれた人だね」

 と言いつつ、クラブセンターの奥から道着に袴姿の好青年が大きく手を振りつつ歩いて来た……いかにも強豪校の剣士という具合で、体格の良さや溌溂とした発声、何より武道家特有の剣呑な雰囲気をふんだんに纏っていた。

「おはようございます。本日は急な申し出を……」

「いやいやとんでもない。剣の道に早いも遅いもないのだからね。では早速だけど行こうか、あと三十分もすれば相手校の方々がいらっしゃるんだ」

 と言い終わらない内にズンズンと施設内に引き返すので、慌ててその背中についていく。

 クラブセンターの玄関は、どこか小学校の校舎を彷彿とさせるような見た目をしていた……というのも、白の壁材で仕上がっている横長の建物は公立学校的な「普通」の外観で、大学の校舎の近代的なガラス張りとは大違いの様相を呈していたのだった。

 しかし、玄関型に穴が空いている手前の棟をそのまま奥に突き進んで行くと、その向こう側の光景はどうやら一味違っていた。

 すなわち、玄関先の警備室に会釈しつつ手前の棟を潜った先には、出し抜けに中庭的な空間が広がっていたのだ……テニスコートほどの面積に緑色の人工芝が敷き詰められており、その中央には開花前の桜の木がポツリと植えられている。その左側の棟の一階には食堂的なテラス、右側の一階には自販機と洗濯機が併設された部屋があったが、何より特徴的なのはこのクラブセンター全体の非常に入り組んだ構造だった……まず、左右の棟は全部で五階層だが前の棟は四階建てで五階の部分は屋上になっており、その屋上の奥にはもう一つの五階建ての棟があって左の棟と屋上伝いに接続している。他にもバルコニーのある階とない階、最上階まで上れない階段、果ては廊下の真ん中に立ち憚る壁など、どうもちぐはぐなデザインをしていたのだ。

 ……一体、なぜこのような不便な構造に仕上がっているのだろうか。

 本校舎はオフィスビルのような外観をした極めて単純な造りにも拘らず、なぜクラブセンターと本校舎とではここまで違うのだろうか……と思いつつキョロキョロしていると、二村(にむら)さん(垂ネームにそう書いてあった)に「こっちだよ」と手招きされたので左の棟の方に駆け寄る。

「クラブセンターに来たのは初めてかな? 随分と物珍しそうな顔をしているけれど」

「はい、本校舎からかなり離れているので……何というか、独特な構造ですね」

「うん、俺も初めて来た時には盛大に迷子になったものだよ。縦横無尽に見て回ればそのうち武道場に辿り着くだろうと思っていたのが、そもそも縦横無尽式に歩き回るのが不可能な造りだったのだから世話がない。まあ、道順さえ覚えればどうということはないさ」

 と言ってコンクリートの階段を進んで行く豪快な後ろ姿に、固唾を飲んで問いかけてみる。

「……二村(にむら)さんって、淋漓大学附属高校で剣道していましたよね、奈良県の」

「おお、俺のことを知っていてくれたんだね。東生駒(ひがしいこま)高校の垂ネームをしていたから、もしやとは思っていたんだ」

 笑顔で振り向いて大声で返事をしてくる覇気に圧倒されつつ、階段を上りながら続ける。

「僕たちの同期で二村さんのことを知らない人は居ないと思いますよ。淋(りん)大(だい)附属といえば奈良県大会で無敗の強豪校ですし、中でも二村さんは抜きん出ていましたから」

「同級生からそう言われるのはムズ痒いものがあるが、お褒め頂けるのなら光栄の至りだな。何せ俺なんかはその実、全く抜きん出てなどいないんだから。というのも、淋大附属が無敗の強豪などと言われていたのはせいぜい関西圏の内側だけでの話であって、他の七地方が一堂に会する全国大会では平均的な実力の学校でしかなかったんだからね。つまり、その淋大付属で大将を任されていた俺もまた、関西でお山の大将をしていたに過ぎないんだね」

「……関西で、お山の大将……」

 という凄まじい表見に圧巻されていると、二村(にむら)さんは上り切った階段から振り向いて言った。

「ここを左に曲がって突き進んだところに武道場があるんだ。屋上を経由する形だね」

 逆光で神々しくなりながら指差した方向を見てみると、そこからは一本の廊下が伸びていた。

「このあたりは如何にも淋大式という感じがするだろう? 取り敢えず建物を造ってみたら、その中に手当たり次第に何でも詰め込んでみるというやり方だ。ちなみにこの下の階には空手の道場、その下には柔道の道場、極めつけに一番下の一階には相撲部屋があるという始末だ。つまりこの棟は丸ごとで一つの『武道棟』ということになる訳だね。と言うと甘い香りがしてくるような響きだけれども……アッハッハッハッハッハッハッ…………」

 と言って一人で大笑いしながらズンズン進んで行く背中を、一寸遅れて追っていく。

 真っ直ぐに伸びている廊下の右側には蛇口やバケツがあり、左には黒いカーテンで向こう側から遮断されている教室二つ分ぐらいの部屋がある。更に進むと右側の手洗い場が途切れて、直角に隣接した棟の屋上が出現したかと思うとそこでは私服姿の人たちが木の板を各種工具で加工していた。どうやら文化部の人も活動しているようだな……と思いながら横切って行くと、廊下の突き当りにはまずスノコ板があって、その手前にある夥しい数の靴を見ながら……もう淋大の人は集まっているのだな、この具合だと恐らく全員が……と鳥肌がザワザワしつつ、その奥に構えている緑色の金属板をジッと見る。ガヤガヤと話す声が漏れ出していた。

「そろそろ掃除が終わった頃かな。これはちょうど良かった、体験入部生を待たせて棒立ちにさせておく訳にはいかないからね」

 靴を脱ぎながら言い、金属板の重たい扉を……ギィィ……と開くと、こちらを振り向きつつ「中に入れ」というジェスチャーをする。

 それから暫くは、万事流れるように事が進んで行った。

 すなわち、普段ならばまだしも今日は練習試合の日である……一般的な体育館ぐらいの面積の武道場には四、五十人ほどの道着姿の男女が居たが、「おはようございます」という息の合った挨拶が大太鼓級の迫力で繰り広げられた後はそのまま整列して準備体操を開始し、「更衣室で着替えたら竹刀だけ持ってあそこに混ざろう。準備体操しないと怪我をするからね」という二村さんの指南のもと道着に着替えて準備体操の最後列に参加し、一連の体操を掛け声とともに終えると次は竹刀を持って素振りを……といった具合に挨拶もそこそこに練習に混ざっていた。そして緊張感はすぐに疲労感に置き換わり、ゼイゼイとしながら隣の小柄な女子が重り付きの竹刀をブンブン振り回しているのを見て……彼女と対戦すれば間違いなく瞬殺に葬られるのだろうな、こちらは竹刀を五回振っただけで既に息切れしているのだから……と掛け声だけは辛うじて合わせつつワンテンポ遅れて竹刀を振っていたのだった。

 そして、その時は突然にやってきた。

「おはようございます、本日はどうぞよろしくお願い致します」

 という二村さんの声が背後からして、竹刀を振っていた一同が一斉に振り向く。

「アイヤ、構わず続けて下され。こちらもすぐ支度を済ませますのでナ」

 と言いつつ、開け放たれた緑の金属板の向こう側から、道着姿の老人が一礼して入って来た……丸坊主の柔和な表情だけ見れば寺の和尚さんのようだが、その痩身に迸る鬼のような青筋、竹刀袋と防具袋を運びながら老体とは思えないピンと立った姿勢……といった云々を見れば、彼が相当の実力者であることは明白だった。

 そして、そこからもう一歩視界を広げて……彼は相手校の顧問なのだな……ということも、殆ど同時に分かっていた。

 というのは、スタスタと道場内に這入って来る老人の背後……すなわち金属板の向こう側の狭い廊下には、竹刀袋と防具袋を携えた道着姿の男女が犇(ひし)めいていたのである……その先頭には遠遠さんの顔と[西院さい大]という垂ネームが見え、つまりこの集団は淋漓大学が招待した京都西院さい学園大学の剣道部に外(ほか)ならないのだから、従って遠遠さんの更に先頭に居たあの老人は同じく西院大剣道部の顧問に違いないのだった……と思っていると、不意にその群衆から遠遠さんだけがヌッと道場内に侵入し、道着に袴、そして垂の白色一式でニコリと微笑んだ後、

「礼。」

 と言って三十度の角度で頭を下げ、その後ろから「お願いします」というピタリと息の合った、それでいて妙に落ち着き払った挨拶に静かな圧を感じたので、僕はオズオズと会釈をする。

 そして黒白混合の道着を着用した剣士たちがゾロゾロと道場に入って来た頃、僕はようやく正面に振り返ったのだが、やはり遅れ気味に竹刀を振りつつ……これはとんでもない場違いになってしまっているな……と、名門大学のアスリート連中が揃い踏みで殺気を放ち合っている中に紛れ込んでしまった一般人の戦慄が湧いて来たので、その念を払い除けるように竹刀を振り回し、例の如くものの数本を振っただけで疲労のことしか考えられない頭になっていたのだったが、いよいよその誤魔化しが効かない事態が発生した。

 すなわち、面を被った打ち合いの稽古である。

 面の切り返しに始まり、竹刀の切り返し、各種打突部位への打突から返し技や引き技の様々……といった基本の稽古はもちろんのこと、流石は強豪校といったような独特のメニューの数々にも非常に驚かされたが、何より驚愕したのは部員たちの実力の高さだったのだ……竹刀の素振りだけでは分からないような打突の鋭さ、正確無比さ、気合の一つ一つに込める迫力の凄まじさ……それらを全身で感じると同時に、もはや白旗を掲げて降参してしまいたい気分になっていたのだった。……いっそのこと楽にしてくれ、というような恐怖心で…………。

 しかし、この恐怖もまた序章に過ぎなかったのである。

 というのは、示し合わせたように両校の稽古がピタリと中断したかと思うと(厳密には京都西院さい学園大学がこちらに合わせたのだろうが)、淋大側で指揮を執っていた二村さんの号令によって恐るべき地稽古が開催されたのである。

 すなわち、男女に学年、段位に実力、在籍する学校……といった区分の全てを無関係にして、ただ各々が試合をしたいと思う相手に駆け寄っては蹲踞(そんきょ)をして対戦する……という自由式の試合が道場の隅々まで使って窮屈な具合に勃発し出したのだったが、意想外にこれは大して苦ではなかった。

 というのは、強豪校が強豪校にわざわざ出向いて来るのだからその目的とは強者との対戦に外ならない……そして見るからに覇気の薄い僕は各アスリートの御眼鏡には適わず、たまに「連戦の息抜き」や「負けた腹いせ」といった具合で対戦を申し込まれるぐらいで、要は弱者であることを求められる対戦ばかりだったので随分と楽をさせて貰えたのだった。……もっと言えば、僕に限っては対戦を申し込まれずに待機している時間の方が長かった気さえした。

 その待機時間、僕がしていたことと言えば京都西院学園大学……つまり西院大の面子を確認するなどしていた。話によれば遠遠さんの他にも透、もしかすると遠遠さんの妹さんも淋大に来ているはずなので、その三人がどこかに居ないものか……と探していたのである。

 しかし、結局見つけられたのは遠遠さんの妹と思しき人だけだった。

 しかも彼女が、本当に遠遠さんの妹であるという確証はない……確かに垂ネームには[西院大][遠遠 音]と書かれていたが、逆を言えばそれ以外の判断材料はなかった。同じ大学の剣道部に「遠遠」という珍しい苗字の人が三人居ると考えるよりは「この人こそ遠遠さんの妹である」と思う方が自然だろうが、それでも確信するまでには至れていなかった。

 というのは、彼女の風貌が全く遠遠さんと似ていないからだった……まず、遠遠さんは身長が平均的よりも低かったが、いま道場の奥の方で淋大の男子部員と一言二言交わしている彼女はといえば相手と殆ど同じ背丈だった。この時点で姉の低身長とはまるで一致せず、道着や袴の一式を全て黒で統一しているところも真逆で抜かりがなかった。

 しかも、彼女は地稽古が開始すると同時に短い気合で威嚇しつつ左足を前に出して、初手で竹刀を振り上げていた……いわゆる上段の構えの使い手で、これは大体の場合高身長の選手が採用する構えだからこの点においても両者は違うはずなので、そうなるとやはり姉妹と考えるには共通点が少なすぎるな……とボンヤリ思っていたのだが、彼女は振り上げた竹刀を左手でブンと振り下ろし、相手の面に直撃させたかと思うとそのまま相手の横を通り抜けて振り向き、そしてゆっくり元の位置に戻ると蹲踞(そんきょ)して納刀したのだった。

「…………」

 地稽古の邪魔にならないように道場の左端に寄りつつ、そのまま観察を続ける。

 すると対戦相手がその場を離れた直後に入れ替わるようにして別の人……今回も男子だが身長は彼女より随分高くて痩身の……が彼女の前に近づいて互いに一礼し、蹲踞をすると気合と共に立ち上がる。それと同時に[遠遠 音]は竹刀を高く振り上げ、それをデコピンの要領で右手を離しつつ左手だけでブンと振り下ろすと相手の脳天にバコンと直撃し、そのままの勢いで隣を通り抜けて振り向くと元の位置に戻って蹲踞しつつ納刀した。

 この瞬殺が、五回連続で繰り広げられた。

 つまり、一人目はさて置き二人目以降は彼女の上段と初手面を知っているはずにも拘らず、何人もその対策をし得なかったのだった……面を防ぐべく竹刀を掲げながら立ち上がってもその竹刀の上から面が打たれ、面が来るタイミングに合わせて小手や胴で返そうとしても既に相手は面を打ち終えてその横を通り抜けている……という事態が相次ぎ、彼女の神速、剛力の一太刀にあえなく散っていくことしか出来なかったのだった。

 ……あれが所謂、天才なのだな…………。

 という具合に感嘆しつつ、面の内側で溜め息を吐いた……地稽古は一本先取の自己審判法、すなわち互いが互いの打突を審判して「これは間違いなく一本だ」と承認すればその時点で試合は決着するのだが、彼女の面打ちはその五回ともが文句の付け所のない一品だった……面の装着によって圧迫された耳にくぐもって聞こえる雑多な道場内の音、全身装備の防具で内側にこもる熱気と息苦しさ、そして久々の大運動による疲労感でボンヤリとしながら彼女の百人斬りを観賞していたのだったが、その彼女の前にいよいよ二村さんの雄大な背中が出現した。

 ……これは一体、どちらが勝利するのだろうか…………。

 これまで彼女は対戦相手に一撃だけで全勝を収めているが、対する二村さんの能力も伊達ではない。稽古の際に見た姿勢や打突の手本のような正確さは勿論、地稽古においても彼女と同様に全ての回を圧勝で終えていたので、戦績については[遠遠 音]と全くの互角なのだから。

「…………」

 今、両者は言葉も交わさない内に蹲踞をし、遠遠は語尾で音程を下げるような気合を、二村さんはごく単純な大声式の気合を出しながら同時にスックと立った。

 まず、遠遠は例によって上段の構えになる。二村さんは遠遠よりも背は高いが中段の構えで対峙し、しかし上段を相手にする時の定石である剣先を高めに保った構え……言うなれば変形中段構えになって臨機応変に対応していた。

 そして例によって初太刀の面が上段から振り下ろされたのだったが、これを二村さんは竹刀で軽く受けつつ距離を詰めて防ぎ、両者は鍔(つば)迫り合いのままで吼(ほ)え合ったのだった。

 ……この時点で、やはり二村さんは只者ではないのだと分かる。

 そして、そう確信したのは彼女についても同じだったのか、鍔(つば)迫(ぜ)りを後退で解除しつつ一定の距離まで離れると再び上段の構えになり、しかし即座に面を打つことはしなかった。両者は前後左右にジリジリとすり足で移動しつつ互いを牽制し、どちらかが仕掛けて来たらその竹刀を払うか避けるかしつつ接近しては例によって鍔迫りの状態にもつれ込む……といった、一見すると地味な攻防が繰り広げられていたのである。

 両者の実力は、彼らの戦績と同様に全くの互角らしかった。

 互いが互いの打突を見切っており、しかしその攻撃を辛うじて防御することしか出来ない……つまり反撃するまでの余裕は互いにないので、トライアンドエラーを繰り返しているのだ。

 しかし、この睨み合いの攻防は突如として劇的な展開を迎えることになる。

 すなわち、遠遠は手元が狂ったのか先ほどより随分と遅い速度で竹刀を振り下ろし、これに対して二村さんは距離を詰めて対応せず、むしろ後退して詰められた分の距離を取ったのだ……相手の攻撃に対して後退するのは定石のやり方とは言えず、極めて王道のプレイスタイルで臨んでいた彼らしくない手だな……と思いつつ見ていると、二村さんは後退しながら剣先で小さく円を描いて相手の刀身に纏わりつかせ、遠遠の剣先を地面にバシンと叩きつけたのである……片手で竹刀を振り下ろした彼女の姿勢はそれによって大きく崩れ、ただ竹刀の柄を握っているだけで何等の構えもしていない、ガラ空きの無防備な状態に一変したのだった。

 ……これでいよいよ、勝敗は決したのだな…………。

 というのは、彼らの攻防は思いのほか長丁場になっていたため、他の部員も僕と同様に道場の端に寄って休み始めていたのである……現段階で地稽古をしているのは十組二十人という具合で、およそ全体の八割程度が各々で休息を取っていたのだった。

 ……これは恐らく、強豪校であるが故の自由奔放な環境なのだろう。

 つまり偏差値の高い学校ほど校則が緩いのと同じように、運動に関してアスリート級に習熟している彼ら強豪校部員には自由に休むことが許されているのだ……彼らは僕と違って怠惰に休息しているのではなく、体力の限界まで地稽古をした後に次の稽古に備えて英気を養っているのだろう……とさっきまで憶測していたのだったが、ここで異様な出来事が起こった。

 遠遠がグルリと回すように振り上げた竹刀の剣先が、二村さんの脳天に直撃したのである。

「…………」

 これは、あまりにも遠遠の身体能力が桁違いなために二村さんが先に攻撃されてしまった……ということではない。彼らは身体能力と反射神経の程度まで拮抗しており、そのために双方が互角の長丁場が続いていたのだから。

 では、なぜ巻き落としを決めた二村さんが逆に面を打たれたのかというと……僕の動体視力で言っても確証はないのだが、二村さんは巻き落としから打突に入る際にしていたのだ。

 その理由まで推し量ることは、彼のことをロクに知らない僕には不可能である。

 ただ僕には、彼が完璧な巻き落としを決めてから打突に移行するまでの一刹那……さながら何かに取り憑かれたように動きが鈍くなり、そこへ棒でも振り回すような遠遠の投げ遣り式の面が決まったのだ……という具合にしか見えていなかった。

 しかも、妙なのはそこだけではなかった。

 すなわち、まず二村さんは元の位置に戻って粛々と蹲踞する。しかし遠遠はズンズンと二村さんの前に接近し、戸惑った様子で立ち上がった彼を見上げて二言三言したかと思うと、礼もしないままに彼の横を通り過ぎて道場の左端に来たのだった。

「変だね、色々と」

 という声が右隣からしたのに驚きつつ振り向くと、隣には全身黒の防具姿の透が居た。

「……いつから隣に居たんだ?」

「ついさっき。周りの音がうるさくて聞こえなかったんだろうね」

「…………」

 短い沈黙の後、僕は「そうだな」と返事をした。

 すなわち、マンションの一件で気まずくなったことはお互いに忘れよう、今はまだその話をする時ではないのだから……というのが暗黙のうちに了解されたので、ここからは切り替えて普段通りの調子で会話しようとしたのである。

「あの人は、遠遠さんの妹さんなのか?」

「そうだよ。音楽の音を二つ重ねて音音(ねおん)って名前。ちなみに遠遠先輩の下の名前は瀬戸内海の瀬を二つ重ねて瀬瀬(らいせ)って読むんだって」

「苗字の遠遠といい、そういう名前にする風習が家柄であるのかな」

「どうなんだろうね、聞けば分かるんだろうけど……そうじゃなくて、さっきの試合」

「ああ、お前も見ていたんだな。二村さんと音音(ねおん)さんの試合」

「どう見てもさっきの試合、二村さんが普通に面を打てば音音ちゃんに勝てたよね。あれだけ綺麗に巻き落としが決まったんだから、後は面でも突きでも打ちたい放題だったはずなのに」

「やっぱり二村さんは試合中に硬直していたんだな。お前の目から見てもそうなら間違いない」

「兄貴は二村さんと面識は? 確か同級生だよね、同じ大学の」

「面識はないな。二年間通っていて一度も見かけなかったぐらいだから、そもそも学科か学部が違うと思う。だから何が原因で二村さんが動きを止めたのかは、俺にもさっぱり分からない」

 すると透は、フーン……と相槌をし、道場の方を向いたまま言う。

「じゃあ、後で本人に直接聞いてみる?」

「……まあ、別にいいかな。ただ調子が悪かっただけかも知れないし、そこまで聞けるような間柄でもないから」

「仲良くなる予定はあるの? 二村さんと」

「どうだろうな。入部するかどうかも分からないし……」

 と言いかけている時、透はこちらを向いて「一人空いたよ」と言いつつ、僕を挟んで向こう側を小手で示した。

 その方向に振り向きながら、……空いたとはどういう意味だ、何かの列に並んでいる訳でもあるまいし……と思っていたのだが、そこで僕は自分が置かれている状況を理解した。

 というのは、大勢の防具姿の剣士が相互に激しく竹刀を打ち合って地稽古をしている……といった練習風景が広大な道場内では繰り広げられていたはずだったのだが、それがいつの間にかに切り替わっていたのである……すなわち、道場の向こう側にはそれぞれの大学の顧問や主将級の部員など十名の元立ちがポツポツと等間隔に並んで、その向かい側に居る僕たち八十人に順番に稽古をつけてやる……という構図がいつの間にか出来上がっていたのだ。

「…………」

 透とは反対側の方に詰め、透もこちらに詰めて来る。

 僕の右側には透を含めた二人、そして僕の左側では六人の剣士が元立ちの方を睨んで立っていた……その間に挟まれる形で、いつの間にか僕はこの「列」に並ばされていたのだった。

「そういえば、兄貴はまず瀬(らい)瀬(せ)先輩に掛かりに行くんだね。前会ってから気になってた?」

 という透からの問いかけに答えつつ、ようやく僕は今から自分が掛かりに行く相手を知って元立ちの方に振り向く。

 すると、先ほどまで姿を消していた瀬瀬さんがいつの間にか向こう側で竹刀を構えていた……[西院大][遠遠 瀬]の垂ネームに、赤々とした胴以外は全身白の出で立ちでそこに居た。

 そのことを確認すると、今度は彼女の独特な構えの方に注意が向いてくる。

 というのは、そもそも彼女は竹刀を左右の手に一本ずつ握っている二刀流のスタイルだったのだが、その構え方も一筋縄ではいかなかったのだ……右手に握った大刀は頭上で横一文字に構え、左に握った小刀は正面でやや立てて構える……といった具合に、ただでさえ珍しい二刀の剣士であるにも拘らず、その二刀でも特に奇抜なT字の構えをしながら相手をユラユラと下から威嚇していたのである。

「霞の構えって言うらしいよ、あの構え」

 瀬瀬さんの頭上に振り下ろされた竹刀が大刀で簡単に防がれるのを見つつ、透の解説を聞く。

「大刀で面を守りながら小手は裏向きにして、小刀では突きと左右の胴を防御することで全部の打突部位をガードする鉄壁の構え。もちろん、いくら通常の竹刀より軽いとはいっても片手で竹の棒を振り回す訳だから使いこなすには相当の錬度が必要だけど、瀬瀬先輩の霞の構えは見ての通り全く隙がない。反則でしか一本を取られたことがないって逸話まであるぐらいにね」

「……なんで瀬瀬さんは、その『霞の構え』を使うんだ? 前に聞いたけど瀬瀬さんって全国で一位を取ったことも何度かあるんだよな。それだけの実力があるのに何でマイナーな構えをするんだ? 上段とかならまだしも」

「マトモにやっても勝てないから、とは言ってたよ。瀬瀬先輩は背が低いから、普通に中段で構えていても相手がちょっと手首でスナップを利かせただけで面が入ってしまう。かといって上段の構えで面を防いでも今度は同じ高さにガラ空きの小手を晒すことになるし……という具合に、低身長の選手はそれだけで不利を強いられることになる。そして、その定説を打ち破るべく瀬瀬先輩が小野派一刀流から引っ張り出してきたのがあの構えなんだよ。つまり、低身長剣士のアドバンテージである『胴と小手の打ちづらさ』は維持したまま面と突きも大刀で防いでしまうことによって、低身長という性質をむしろ『守りに特化するための個性』として昇華した……というのが、瀬瀬先輩の執念の賜物なんだよ」

「執念の賜物……」

「また空いたよ、そっち詰めて」

 促されつつ一歩詰めて、透もこちらに詰めて来る。スタスタと向こう側に歩いて瀬瀬さんの前で一礼し、蹲踞が解けると同時に立ち上がったのは瀬瀬さんと比べておよそ四十センチ程度の身長差がある、長身の男子部員だった。

「元はと言えば、音音ちゃんに勝ち続けるために霞の構えを習得したんだって」

「……音音さんに?」

「うん」と頷き、足首をブラブラとさせつつ続ける。

「音音ちゃんと瀬瀬先輩って、大体三十センチぐらい身長が違うんだよ。昔はそこまで身長差はなかったらしいんだけど、音音ちゃんが中学に上がったあたりから徐々に抜かれだして、それから二年もすると今ぐらいの身長差になった。その前までは経験年数の差で先輩が勝ち越していたんだけど身長と身体能力が追い抜かれてから剣道の実力も互角になりかけてきて、そこで危機感を覚えた先輩は初めて妹に対して対策を練り出した。そして、そのうちの一つが霞の構えの習得だったんだよ。だから高校二年生の頃までは今ほど強くなかったし血の滲むような努力もしてこなかったんだけど、グングンと距離を詰めて来る妹に対して差を広げようと尽力した結果、西院大にも推薦で入れたんだって」

「…………」

 壮絶な姉妹同士の対決史に呆然としつつ眼前の稽古を見ていると、その霞の構えがただの奇策やお遊びの類でないということが確信に変わってくる。

 まず、瀬瀬さんは間延びした軽めの気合を申し訳程度に出しながらユラユラと緩慢に動き続ける。時たまに半歩詰め寄りつつ攻撃するようなフリをするが自分からは仕掛けず、痺れを切らした掛かり手が小刀を払って霞の構えを崩そうとする。しかし瀬瀬さんは半歩下がりつつ相手の竹刀を小刀で左に巻き落とし、戻ってきた竹刀を今度は右に巻き落としながらやはり半歩下がって相手の剣先を翻弄する。鍔迫り合いすら許さない絶対防御の隔たりが保たれ続け、ならば無理やり距離を詰めて体当たりで構えを崩してしまえ……という魂胆だったのだろう掛かり手の面打ちは大刀で簡単に受け、同時に小刀を前に突き出して相手の喉元に……チョン……とタッチすると、例の間延びした軽めの気合でゆっくり距離を取ったのだった。

 つまり、立ち回りの仕方が完璧に仕上がっているのである。

 一朝一夕や冗談では絶対に通らない、冷静な判断と余裕のある竹刀さばき、足捌き……というのを少し見ただけでも、如何にその構えが幾多の試合経験で洗練されたものなのかが分かる。掛かり手が潔く負けを認めつつ蹲踞して竹刀を納刀し、瀬瀬さんの元に駆け寄って師事を仰いでいる様を観ていると、その低い身長は実は老齢によるもので、防具の内側にはクルクル坊主の師範代が睨みを利かせているのではないだろうか……という気さえしていた。

「なるほど、確かにこれは執念の為せる技だな。動作の一つ一つに凄みがあるというか……」

「実際に対戦してみると分かるけど、その凄みだけで怯んじゃうんだよね。何を打っても全部防がれてカウンターが極められるんだと思うと、試合開始前から負けた気になるっていうか」

「特に激しく動いたり声を荒げてるわけでもないのにな。カンフーの達人みたいな……というか、今更だけどこれって掛かり稽古なんだよな。それなのに、なんで掛かり手は間合いを取りながら掛かっていたんだ? どうも見た感じだと、この稽古は掛かり稽古というよりは地稽古みたいだけど」

 掛かり稽古とは、打つ側と打たせる側とで明白に役割が決まっている稽古法である。

 すなわち、元立ちは各種打突部位をあえて相手に晒し、掛かり手はそこに打突を極めにかかっては弾き飛ばされ、間髪入れずに振り向いては次の打突を狙って竹刀を振り下ろす……という具合に常に動き続ける稽古法であり、地稽古のように一定の間合いや駆け引きを存分にしてからとっておきの一撃を繰り出し合う……といった静と動とが分かれている稽古法とは全く毛色を異にするもののはずなのだが、眼前で繰り広げられている稽古はどうも違う。全体でもトップクラスの実力者だけが元立ちの側で固定され、そこに列を作って順番に掛かりに行くという形式は紛れもなく掛かり稽古特有のはずなのに、なぜ実際はというと、……ジリジリ……からの、……ッターン……というような地稽古方式が行われているのだ、と首を傾げたのだったが、回答は極めて単純だった。

「うん、これは掛かり稽古じゃなくて地稽古だよ。もっとも、選べる相手は十人だけに減ったけどね」

 つまりはこういうことだった。

 まず、通常の地稽古が道場内のあちこちで行われる。すると次第に疲れが溜まって道場の隅で休憩を取る人間が出てくる。そして余裕を保ったまま圧勝を収め続けた実力者だけが道場の中央に残り、その選別が終わると休憩を終えた剣士達が少数精鋭の達人集団に地稽古をつけてもらうべく自発的に列を成して順番を待つ……ということらしかった。

 ……部員の疲労度合いまで、メニューの一環なのか…………。

 その斬新な稽古方法を目の当たりにして、僕はナルホドと感心していた……というのは、この「元立ちをその場で決める」という方法は、実はもっと多義的な意味があることに気付いたのである。例えば、この稽古方法を他校との練習試合に持ち込めば相手校の実力者が自動的に分かるし、また通常時の稽古の際に用いれば「その時点で誰が強いのか」も分かるのだ……体調の悪い者や能力の落ちた者はその場において選ばれず、現時点のトップクラスの実力者のみが可視化されるのだから良く出来ている……とボンヤリ思っていた時。

 瀬瀬さんが指導している相手越しにこちらの方を見て、かと思うと前屈みになって指導を受けていた部員に一言二言してから腕のあたりをポンポンと叩いて退場させる。

 一体誰のことを見ていたのだろう……と思いつつ首を左に振ると、列の先頭にいた全身黒の防具姿の剣士がいつの間にか試合場の端に踏み入れており、その人物は垂直に二回ほど飛んで勢いよく地面に着地すると同時に破裂音のような踏み込みを鳴らしたのである。

 その瞬間、道場内の空気がガラリと変わった。

 すなわち、このような気合の入れ方を試合の前にする選手は決して珍しくはないのだが、今は師と弟子とが稽古をし合う時間である。仮に師の側がそれをするならまだしも、弟子の側に立っている人物がするには明らかに無礼な行いであり、いくら自由な稽古の場とはいえそれはないだろう……という批判の視線が集まっているのだと思っていたのだが、

「さっき言った話だけど、例外もあるんだよ」

 という切り口で始まった透の解説を聞くうちに、その理由が分かった。

「向こう側に立っているのは圧勝を収め続けた実力者で、こっち側にいるのはそれ以外の人間……というのは大体そうだけど、中には向こう側に立つべき実力者にも拘らず、あえてこちら側に来る人もいる。例えば、瀬瀬先輩と試合をするためにこちら側に来た音音ちゃんなんかがそうだね」

「……つまり、こちら側にいるにも拘らず瀬瀬さんの前であの気合の入れ方をするのは」

「それが不遜にならないような立場と実力の人間、ちょうど姉妹なんかがそうだって訳なんだ」

 そうなると、観客のリアクションの意味合いも変わってくる。

 すなわち、この場に限り行われるのは師弟同士の稽古ではなく、姉妹同士のプライドを懸けた戦いである……しかも片方は上段、もう片方は二刀霞というもはや異種格闘技にも似た試合だというのだから、それを普段から見慣れているだろう西院大の部員ならまだしも淋大の剣士は、是非ともお目にかかりたい……と思って凝視しているのだな、そう納得していた。

 しかし、その考えは一部外れているようだった。

 というのは、瀬瀬さんは一旦試合場から出て向こう側の壁の前に跪き、二刀を揃えて置くと竹刀袋から何の変哲もない一本の竹刀を取り出して、柄に鍔と鍔止めを通し始めたのだ。

「……二刀は使わないのか?」

「二刀も上段も、今からの試合ではどっちも使われないよ」

 組み立てた竹刀を左手に持ち、試合場内に一歩進んで一礼する。

 それと同時に手前の音音さんも一礼し、試合場二つ分ほどの距離が離れていたのをスタスタと歩きつつ相互に接近し、中央に辿り着くと竹刀を抜きながら蹲踞して相対する。

 待機中の剣士の視線はその一点に集中し、心なしか他の地稽古中の剣士も横目で観察しているような気配さえする。

 左右で竹刀の弾き合う鋭い音や気合の吼えるような大声が響いている中、眼前の空間だけは茶室のように神妙に静まり返って、焦らされた喉が切られたように渇く。

 今、両者は全くの同時にスックと立ち上がって竹刀を中段に構える。

 その一挙動のまま、手前の黒い長身の剣士はイノシシが突進するような踏み込みで驚速の面打ちを振り下ろす。

 対する白の小人は振り下ろされる竹刀の下を潜り抜け、胴を真っ二つにする斬撃の一閃を左から右に走らせながらブレーキ音のような金切り声を叫んだのだった。

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