第2話 妹のマンションにて
「頭痛い。どうにかして、兄貴」
助手席で眉をしかめつつ、恨めしそうに額を抑えて言う。
「初めての飲酒であれだけ飲めばそうなるよな。酒を飲んだのと同じ分量だけ水を飲めば二日酔いになりにくいから、今度からは適宜水を飲んで薄めた方がいい」
「最初に言ってよ、意地悪」
「二日酔いの辛さを知らない状態で予防策を教えても効果ないだろ。俺のカバンにヘパリーゼと水が入ってるから、今のうちに飲んでおけ」
現在、素知らぬ顔で両親とのお別れを済ませた後、クルマで出発した直後に交わされた妹との会話だった。
本人はアルコールのにおいをマスクで隠せているつもりだろうが、仮にそれは誤魔化せても酒飲みの振る舞いまでは騙せなかっただろう……父親と母親はポヤポヤとした娘については何も語らず、別れの言葉だけを言いながら至って感傷的に送り出したのだった。
なお、このクルマの後部座席は部屋から持ち出された物品の数々で完全に閉鎖されている。
すなわち、妹の引っ越しに際して同行出来るのは運転席の一人だけだったのだが、そこには僕が抜擢されたのだった……可愛い娘の独り立ちとはいえ共働きの彼らには仕事という用事があり、大学生の春休みで手が空いていた僕だけしか人員がいなかったのである。その予定は前もって聞かされていたので、現在僕の体からは完全にアルコールが抜けていた。
そこからの道中は、
「糖分は二日酔いに効くって見た気がする。兄貴、アイス買って」
「二日酔いとクルマ酔いの二重苦だから風に当たりにいこう」
「血行が良いとアルコールが分解されやすい気がするから足湯浸かろうか」
「UFOキャッチャーがしたい」
と言ってはサービスエリアのたびに停車し、結局クルマが引っ越し先に到着したのは予定の一時間遅れだったのだが、
「オーライ、オーライ」
と言って手を振る少女が、前方に見えた。
彼女の背後には引っ越し先の学生マンションが見え、その門を潜って駐車場にクルマを踏み入れたところだったのだが、まだバックもしていない時に正面から言われたので当惑する。
しかし、まさかイタズラでもないだろう……仮にも学生が住まうマンションの駐車場であり、問題行動を起こせば即大学に連絡がいくような場所なのだから……と思いつつ誘導のままにクルマを徐行して行き、両手を前に突き出して「ストップ」と言われたタイミングで停車する。
最終的な駐車位置はマンションの玄関先だった。
遠くから見ても綺麗な白色のマンションだったが、玄関先から見たフロントも黒色建材と黄色い間接照明でシックな具合に仕上がっており、学生マンションとは思えない豪華さだな……と思っていた時、「あ、着いた?」と言って隣の妹が目を開ける。結局のところ二日酔いには睡眠が一番効くのだ、という話の流れから熟睡していたのだった。
「荷物下ろすから出るぞ。さっきの人にも挨拶しないと」
「さっきの人?」
「ほら、そこに居る……」
と言って前方を見ると、それと同時に妹はクルマから飛び出して行ってしまった。
妹が少女に向かって頭を下げているのをフロントガラス越しに見つつ、大学の知り合いなのだろうか……いやそれにしては……と思い思い、僕も運転席から出る。昼下がりの車外の気温は大した寒さではなかった。
「こんにちは」
「どうも、初めまして」
深々とお辞儀をする彼女に対してお辞儀で返しつつ、妹に目線を送る。
「こちら、剣道部の先輩のエンドオさん。で、こっちは兄の拓志(たくじ)です」
「遠近法の『遠い』を二つ重ねて遠遠(えんどお)と申します。剣道部では主将をさせて頂いております。どうぞよろしくお願い致します」
「あ、それはどうもお世話になります。うちの妹が」
やや当惑しつつ、もう一度お辞儀の応酬をしながら思う。
彼女……遠遠さんは、この三人の中で最も背が低かった。僕や妹がそれなりに背丈のある方だからというのもあるが、平均的と比較してもかなり小柄な方だな……と思っていた。
というのは、剣道は基本的に高身長が有利の競技なのである。
すなわち、剣道には面・小手・胴・突き……といった打突が複数存在するが、実際に試合で旗が上がりやすいのは圧倒的に「面」であり、頭頂部への打突が最も有効である。そうなると一般的には相手の面を狙いやすい高身長選手が大会では勝ち上がりやすくなるので、基本的に能力の序列で主将が決まる剣道部においてはやはり高身長の選手が主将になりやすいのだ。
そういう意味で僕は遠遠さんについて、この低身長で強豪校の主将とはとんでもないぞ……一体どのような試合をするのだろうか……と頭の片隅で思考しつつ、三人で談笑しながら妹の部屋に荷物を詰め込んだダンボールを運び終わり、さてそろそろ帰ろうか……と額を拭いつつ思っていたのだったが、
「お手伝い頂きありがとうございます。飲み物を買って来ますので、少々お待ち下さい」
と言って妹が出て行ってしまい、ダンボールの散乱した無機質な空間には二人だけが取り残されてしまった。椅子は一つしかなかったので、二人とも直立したままその場に居た。
「……何が欲しいとか聞かないまま行っちゃいましたね、あいつ」
そう呟くと、遠遠さんはクスクスと笑いながら腕を後ろに回し、特徴的なハスキーボイスでにこやかに語った。
「いえ、私とお兄さんの好みは既に知っているから、ということなんだと思いますよ。確かにあの子はそそっかしいですけれど、それ以上によく気の回る立派な妹さんですから」
「妹……透(とおる)とは、以前から交流があったんですか?」
「はい。透さんは同年代の部員の中でも特に熱心で、受験が決まるとまだ定期券も発行できないうちからすぐに部活の稽古に加わっていましたので、ともすると半年近くのお付き合いになるのかも知れせんね。とても向上心のある妹さんです」
と言いつつ、青白い瞳を三日月形にウッスラと開けながら「そういえば」で繋げて言った。
「透さん、昨日お酒とか飲まれましたか? どこかアルコールの雰囲気があるなと思って」
ギクリとしつつ、返答に窮する。
これは不味い……妹が未成年飲酒をしたとバレたなら、ともすれば剣道部を追い出されることになるかも知れず、そうなれば推薦も入学も全てパアになってしまう……ここはどうにか誤魔化し方を考えなければならないぞ……と焦っていたのだったが、
「あ、別に何か意図があって聞いた訳ではなくて。私には部員を退学させる権限なんてありませんし、そもそも未成年飲酒ぐらい誰でもすることだと思っていますので」
と言って手をパタパタさせ、そのまま続けた。
「ただ、透さんは戒律みたいなのを自分で掲げていて。大学の剣道部に所属している間はお酒を飲まないぞと宣言していたので、何か心境の変化があったのかな……と思いまして」
「……透が、ですか?」
ええ、と頷いて微笑み、続ける。
「アスリートには割とありがちな理由というか、アルコールは筋肉を分解したり増量を抑制したりするので、その作用を嫌って飲酒しない選手は結構いるんですよ。透さんもその一人で、少なくとも私に剣道で勝つまではお酒を飲まないという戒律を掲げていました」
「……それは、初めて聞きました」
「まあ、私なんかはたまの飲酒ぐらいで劇的にパフォーマンスは落ちないとは思っているんですけど、妹さんはその点私よりもずっとストイックで。あの姿勢には先輩の身ながら見習うものがあるというか……」
「僕の監督不行き届きです」
そう呟くと、遠遠さんはキョトンとして首を傾げつつ「と、言いますと」と聞き返す。
「透に酒を飲ましたのは僕です。コンビニから帰ったら酒をせがんで来たので、そういうことをしてくるのは今に始まったことではないし、特に考えもせずに飲ませてしまいました」
「…………」
「透がなぜ酒を飲みたがったのかは分かりません。ですが、戒律と法律の両方を破ってまでの理由があったとするなら、兄として僕は透と話をするべきでした」
そう言いつつ、後悔の念がふつふつとせり上がってくる。
たった一度の飲酒で体質に劇的な変化はない……というのが気休めではない事実なのだとしても、自分で掲げておいた戒律を破ってまであの行為に及んだのならその背景には何らかの意図や理由があったのだと思うべきで、どうしてそこまで考えが及ばなかったのか……と自分を恥じていたのだったが、遠遠さんは顎に指を当てつつ「そうですか。お酒を飲んだのはそういう経緯だったんですね」と頷きつつ、続けて尋ねてきた。
「そのときは、拓志さんも一緒にお酒を飲んでいらしたんですよね?」
「……はい、そうですね」
「でしたら、透さんは別段、戒律を破った気なんて無かったんだと思いますよ」
「……それは、どうしてですか?」
単なる気休めの言葉でないということは、その言葉に込められた自信の強大さで分かった。
しかし、それは所詮「十分に自信を持って言った気休め」でしかないのだろうな……と思いつつ返事を待っていると、彼女は得意げに口角を上げながら言った。
「透さんはまだ大学に入学する前で、まだ正式な部員ではないからです」
「……正式な部員では、ない」
「順序が逆なんですよ。部活とはその学校に入学してから入部するものであって、その意味で透さんはまだ体験入部の段階に過ぎない。つまり透さんが言う『剣道部に所属している間はお酒を飲まない』という戒律は、実はまだ効力を発揮していないことになるんですよ。しかも、これを逆向きにして考える場合には透さんは『剣道部に所属していない間しかお酒を飲めない』ということになるので、これだけでも透さんがお酒を飲みたがった理由には十分なり得ます」
「…………」
「しかも、理由はそれだけでもないと思います」
「……他にも何か理由が?」
聞き返しつつ、この時点で遠遠さんが透を退部させるつもりがないことはほぼ確信していた。ただ透の意図に興味を示して調べているだけで、それ以外の他意はないのだな……と安心しきっていたのだが、
「あと二つほどあると思います」
そう前置きしつつ「まず一つは」と言って一本指を立て、次のように続けた。
「透さんは他でもないお兄さんと、拓志さんとお酒を飲みたかったんだと思います」
「……それは、どうしてそう思うんですか」
彼女の顔を見て尋ねると、例のハスキー式の声音と立てた人差し指をそのままに続けた。
「得てして下の子とは上の子に憧れるものです。表面上は敵対していても、弟妹のすることは兄姉の真似であることが多い。しかもその憧憬は親に向けられるものより強大なことさえあり、ともすると対抗心にまで発展することがある……うちの場合などは分かり易い例で、私の背を追うようにして剣の道に踏み入った妹は幾度となく私に剣道の対戦を申し込んできます。単身で大学の武道場に乗り込んで来ては地稽古を仕掛けてくる、といった具合に。それと同じ原理で、透さんは兄に憧れてお酒を飲みたいと思いつつ、一方で拓志さんと飲み比べをしたいとも思っていたのではないでしょうか。不躾(ぶしつけ)ながらお二方の様子を見比べさせていただきましたが、透さんの方が随分と飲まれているようでしたし」
「…………」
その洞察にただただ閉口していると、彼女は続けて尋ねて来る。
「ちなみに、ご両親はお酒を飲まれるのですか?」
「はい、よく飲んでいます」
「そうですか。しかしご両親は、透さんと拓志さんの飲み会には参加されなかったのでは?」
「……どうしてそれを?」
何もかもを淡々と引き剥がされて暴かれるような気分になりつつ尋ねると、「二つ目の理由ですが、その前に」と言いながら指を二本に増やして、続ける。
「拓志さんは、兄妹をどのような関係性だと思われますか?」
「……友達、みたいなものだと思います、うちの場合は」
「そう、兄妹というのは不徳を共有出来る関係性なんですね」
という飛躍気味の返事をしつつ、ごく自然な風にハスキーボイスで続ける。
「例えば食器を壊したり門限を破ったり、誰かと喧嘩したり物を無くしたり、あるいは未成年飲酒をしたり……といった際に、真っ先に相談する相手は父母でも友達でも、もちろん他人でもなく兄妹なのです。というのは、兄弟姉妹という間柄は父母のように恐ろしくはなく、友達のように信頼し合った仲でありながら同時に他人のように無関心でもある……といった実に不思議な関係性なのですが、この絶妙な関係性は不徳を共有するにあたって非常に都合が良い。相談するのは恐ろしくない相手がいいし、信頼出来る人にしか相談したくはないけれど、不徳の内容に関心を持たれてズカズカと詮索されるのも居心地が悪いからですね。現に透さんは、ご両親やご友人、そして他人よりも先に拓志さんを飲み会の相手に招待した」
「…………」
「つまり、纏めるとこうなりますね」
脳内で話の内容を反芻していると、彼女は両手を後ろに回しつつ半身に構えて総括に入った。
「要するに、拓志さんが気に病むことは何もないということです。この話はただ単に、兄の真似をしたがる可愛らしい妹さんが張り切りすぎて二日酔いになってしまった……というだけのことなんですから。少なくとも、同じ妹のいる身として私はそう思います。それに、透さんは拓志さんの背中を追って剣道をし始めたとも聞いていますし、今回の飲酒に関してもその一環だったんだと思いますよ」
「……本当にそうだったんでしょうか」
「それとも、何かにつけて自分の真似をしてくる透さんが、拓志さんは疎ましいですか?」
この遠遠さんの質問は、話の趣旨からはやや脱線したものだった。
しかし僕は次の瞬間、そんなことは無関係だという具合に相手の目を見つつ、ハッキリした口調で条件反射式の返事をしていた。
「いえ、それだけは絶対に有り得ません。妹が僕の真似をして僕以上の成果を出すのは、兄として誇るべきことでしかありませんから」
ただ、こう言い放った時の彼女の反応は意外なものだった。
すなわち、まるで動揺した素振りは見せない様子でニコリと微笑みつつも、どこか表情に影の濃くなったような……例の淡白な青白い瞳でジッと見つめられ、息の詰まるような感じが徐々にしてくる倒錯に見舞われていると、おもむろに彼女は玄関に振り向いて言った。
「もう出てきていいよ。ごめんね、入るタイミング無くしちゃって」
それを聞いて自分も振り向くと、そこにはバツの悪そうにこめかみを掻いている透が居た。
「すみません、随分前に買ってきてはいたんですけど……」
と言って目を伏せる透の左手には複数のドリンクが抱えられており、内容は無糖コーヒー、コーラ、……そしてひときわ異彩を放っている、細長い箱入りのユンケルだった。
「ヘパリーゼの次はユンケルって……そんなに二日酔いが酷いのか? それならもう病院とかに行った方が……」
「いや、これは私のですよ」
と言いつつ、隣からダボダボのナイロンジャケットがぬっと突き出してユンケルを取ると「ありがとうね」と言って代わりに千円札を透に渡す。お釣りを返そうとする透に対して遠遠さんはユンケルの箱を開封しつつ、「引っ越し祝いだから」と言って制する……のような応酬が繰り広げられていたのだったが、場違いの感じがしつつどうしても気になって尋ねる。
「ユンケル……を、普段から飲まれているんですか?」
「はい。ほぼ毎日飲んでいますね、ほぼ毎日お酒を飲んでいるので」
この発言について、僕は内心で首を傾げていた。
すなわち、自分自身がそうでないので確実なことは言えないものの、毎日の飲酒だけでは薬品の出る幕はない……実際に父は晩酌を毎日しているが次の日にはケロリとしており、何らかの薬を飲んでいる形跡も見ていなかったのだが、そうなると遠遠さんはそれ以上に…………と考察を巡らせていたのだが、
「ご心配なく。剣道が満足に出来る程度には正常な身体ですから」
と言い終わる頃には彼女は既にユンケルを飲み干しており、透を横切りつつ「箱と瓶を捨ててきますね。暫し兄妹でご歓談していてください」と言い残すと、ノンビリとした歩調で玄関から出て行ってしまったのだった。
「…………」
「はい、兄貴の分のコーラ」
そう言って透から手渡されるのを受け取りつつ礼を言うが、僕は玄関の一点を見たまま閉口してしまっていた。
すると透は察したように同じ方向を見つつ、「本人も言ってた通り、遠遠先輩は大丈夫だよ。酒乱ではないし後輩にも優しく接してくれるし、何より剣道の腕も確かだし。全国一位を取ったのも一度や二度ではないみたいだから」と言った。
「……後半はともかく、前半についてはまだ考察の余地があると思うけど」
全国一位というワードに驚きつつ返事すると、透は「どういう意味?」と顔をしかめながら尋ねてくる(見栄を張って無糖のコーヒーを飲んだからだろう)ので、前方に遠遠さんの気配がしないことを確認してから続ける。
「そもそも、遠遠さんがユンケルとか……ともすれば酒そのものであったりを飲んでいるのは、もしかしてお前たち部員のいる前でもそうなんじゃないか?」
「そうだけど……なんで分かるの?」
「ただ毎日晩酌するだけで薬は要らないからな。そうなると一日ごとの晩酌の量が多すぎるか、夜だけではなく日中も酒を飲んでいるかの二つしかない」
「でも、だとしてもそこまで変なことだとは私は思わないかな。世間的にはそうかも知れないけど、煙草を吸う人だって昼夜関係なく一日に何本も吸ってるんだし」
「そうじゃなくて、俺が言ってるのは……遠遠さんは酒を飲んでる状態がデフォルトなのかも知れない、ということなんだよ」
「…………」
「つまり、確かに遠遠さんは酒を飲んで暴れたりしないしむしろ優しいぐらいなんだろうけど、それが遠遠さんの正体ではないのだとしたら……酒を飲むことでむしろ普段の狂暴性を抑えていて、その効能が切れるとどうなるんだろうな……と思ったんだ」
と言い終えてコーラを飲むと、透は悩むように下唇を突き出してから返事をした。
「一理あるとは思うけど、そうなるといよいよ難しいね、お酒を止めるの。酒を飲んで狂暴になるならまだしも、酒を飲まない方が狂暴になる……となれば一概に禁酒した方がいいとは言い切れないし、かと言ってお酒が体に悪いのは間違いないもんね」
「そうなんだよな」
と言いつつ、自分から切り出しておきながら僕はこの話の収集の付け方を知らなかった。
ただ、それは透にしても同じだったのか、
「遠遠先輩といえば、先輩の妹さんもお姉さんに憧れる形で剣道を始めたんだね」
という具合に話を転換し、飲酒の件についての内容がそれ以降出ることはなかった。
「そういえばそんなことを言っていたな。どこの妹も考えることは同じか」
「兄とか姉がいて、全く影響を受けずに育つことなんてそもそも不可能じゃない? 赤の他人である芸能人から影響されるぐらいなんだから、それより身近な人間から何の影響も受けないなんてことはまずないと思うけど」
「やっぱりそうだよな。透は妹さんに会ったことはあるのか?」
「何回か練習で一緒になったことはあるよ。大学もこっちに進学するんだって。ただ、理由は分からないけど剣道部には所属しないらしいよ。あくまで体験入部のまま卒業まで通す、とかなんとか。折角強いのにもったいない」
「サークルぐらいの気分でしたいんじゃないかな。剣道自体はそれなりに好きだけど部活動に入るまでじゃない、みたいな経験者は結構いるから」
「兄貴とか?」
「そうだな」
という応酬をしつつ透は全く口を付けていないコーヒーの缶を睨んでいたのだが、ふと顔を上げて目線を合わせると「そもそも兄貴はなんで剣道始めたの? パパとかママは剣道未経験だったのに」と尋ねてきた。
「運動部に入れって言われたからだよ。自分的には部活に入ること自体が既に嫌だったけど、反抗するほどの気概もなかったから仕方なく剣道部に入部した」
「でも、その理由なら野球とかサッカーでもいいよね。あえて剣道にした理由は?」
「強いて言えば、剣とか刀に憧れたからかな。野球とかサッカーならしようと思えばいつでも出来るし、折角なら珍しい体験をしてみたかったのもあると思う」
「その割には中学校を卒業してからも高校で剣道してたよね。珍しい体験がしたいなら二、三年ぐらいで満足して別の部活に入りそうなものだけど」
「……まあ、惰性みたいなものだと思う。新しく何かを始めるのが大変なのは剣道で嫌というほど体験したし、そもそも校則で部活に入るのは強制だったからな」
「…………」
すると、そのまま両者は目線を合わせたまま沈黙が流れた。
相手の眉尻はやや八の字に下がっており、その表情でいることに自ずから気付いたのか目線を玄関の方に逸らすと、
「兄貴は、剣道をやっていて良かったことは何もないの?」
と呟くように言った。
「…………」
場つなぎ的な意味合いでコーラを一口飲むと、透の横顔を見ながら返事しようとする。
「私はね、剣道をしていてよかったと思ってるんだよ」
すると透はこちらの返事を待たずに言い、そのまま続けた。
「みんなと遊んだりするのが楽しかったし、練習して成長して勝ち上がるのが楽しかったし、その成果が進学にも繋がって嬉しかったから、つくづく剣道をしていてよかったと思ってる。もちろん私は自分を剣道に導いてくれた兄貴に感謝してるし、逆に兄貴は私を剣道に導いたことが誇りなんだと思う。兄貴は昔からそういう人だったから」
「……まあ、その通りだな」
「でも、ただそれだけなのかな、とも思ったんだよ」
まだ熱いコーヒーの缶を左右に持ち替えながら、伏せがちの目で続ける。
「さっきの話の繰り返しみたいだけど、私の指針になって満足なら中学で剣道をやめても問題なかったんだよ。惰性だからとか強制でとか言うけど、そんな理由だけで中高の六年間も同じことを出来ないはずだと思う。少なくとも私はそうだった」
「……何も剣道部の楽しさは剣道だけじゃないからな。部室に集まって遊んだのは楽しかったし、部活外でも同級生とか後輩と出かけたりしたのは楽しかったよ」
「でも兄貴、大学からサークルとか入ってないって前に言ってたよね。部活動まで厳しくないただ集まって駄弁るだけのサークルに、なんで兄貴は入らなかったの?」
「…………」
「ごめん、こんなに質問攻めにされても困るよね。ただ、この一つだけはどうしてもハッキリさせておきたくて」
と言い、
「結局のところ兄貴は、何をするのが楽しいの?」
顔を上げ、両手でコーヒーの缶を抱えつつ目を合わせる。
心の底から憐れむような瞳に、無表情の自分が意味もなく反射していた。
「昔はもっと笑ってたよね。剣道の県大会でベスト8になった時は笑顔で他の部員に自慢してたし、部屋で絵とか描いたりギター弾いたりしてる時はいつもニコニコしてた。それを見て楽しそうだったから私も剣道を始めたし、ギターを弾けば絵も描いた」
「…………」
「でも兄貴は最近、そういう遊びを全然しなくなったよね。小説読んだり動画見たりはしてるみたいだけど、前みたいに笑ってるところはしばらく見てない気がする」
「歳を取って昔ほど笑わなくなっただけだよ。誰でも二十歳を過ぎればこんなもんだと思う」
「それだけかな、本当に」
「…………」
この時、僕は透との話をどう自然に切り上げようか頭をこねくり回して考えていた。
すなわち、僕が予測する限りこの話の流れは非常にマズイ……ともすれば今後の兄妹関係に著しく溝を作ることになり、それを回避するにはどうにか彼女の発言を無効化しなければ……と冷や汗をかいていたのである。
しかし、その目論見は一足遅かった。
「兄貴が全部楽しめなくなったのは、私が全部真似したからなんだよね」
という、どこまでも簡単でシラの切りようがない台詞が、彼女の口から十分な深刻味を帯びつつ飛び出してしまったのだった。
ただ、幸か不幸かその深刻な雰囲気は、とある人物の登場によってたちまち払拭された。
「どうもどうも、遅くなりまして」
という幾らか打ち解けたような口調で遠遠さんが戻って来たのである……片手にはいつの間にか銀色のスキットルが握られており、その部分に注目していると「飲みますか?」と差し出してきたが、「帰りもクルマなので」と断った。
「あ、それで思い出しました」
すると遠遠さんはスキットルの中身をグイッと飲みつつ、トロンとした目つきでマンションの玄関の方を指差して言った。
「拓志さん、クルマを玄関先に停めたままじゃないですか。あれ、駐車場に移動しておいた方がいいかも知れないです。他の新一年生も引っ越して来ると思いますので」
「……あ、すみません。つい失念していました」
「いえいえ、言い忘れていた私側の落ち度です。では来客用の駐車場まで案内しますので……」
「いや、僕はもう帰ります。荷下ろしは済みましたし、あまり長居する訳にもいきませんので」
すると遠遠さんは僕と透とを見比べた後、「ではお見送り致しますね。ついてきてください」と微笑しつつ廊下に出た。その後に続くように僕と透も部屋を出た。
というのは、現段階で僕は透への返事を用意出来ていなかったのである……なので当初から予定していた通り、話をさっさと切り上げてしまうべくこの場を去ろうとしたのだった。
「……じゃあ、またね。兄貴」
消化不良の感がある表情になりつつ、透は玄関先で手を振って送り出す。
僕も手を挙げて別れの挨拶を返すと、隣の遠遠さんに頭を下げながら運転席に入る。
そしてシートベルトをし、エンジンをかけてギアをドライブに入れていざ出発……という時に、助手席の窓がコンコンと叩かれる音がする。
果たして何の用だろう……と思いながら窓を下げると、遠遠さんは外の冷えた空気を伴ったまま車内にヌッと首を突っ込んで来て言った。
「一週間後、透さんと一緒に拓志さんの通われている大阪
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