夜の二人

瓶底眼鏡

夜の二人

 ふと目が覚める。自分の体温が広がるベッドの中から窓があると思われる方へ顔を向ける。カーテンの隙間からは歩行者信号が点滅する光が、うっすらと暗い部屋の中に差し込んでいる。まだ日の出前なのだろうか。枕元に転がっているスマホを手探りで探し、電源ボタンを押す。光を求めるため拡張していた虹彩に、画面の光が飛び込んできて、思わず目を細めた。午前4時。その時間表示とともに、メッセージの受信を知らせるアプリの通知が主張している。


『こんな時間によく起きてたね』


 メッセージの送り主は、こちらの返信を受けて白々しくもそう言った。


『あんたのメッセージで起こされたんでしょ。で、用件は?』


 実際のところ、画面の通知を見るまでメッセージの存在に気が付かなかったのだが、この非常識な人物へは皮肉の一つや二つ言いたい気分だった。現に時刻は午前4時。普通の人ならぐっすり眠っていて、メッセージや電話で起こされようなら怒られてもおかしくない時間帯だ。


『いや、ちょっと散歩に誘おうかなと思って。夜の散歩。いいと思わない? 』


また突飛なことを。この人はいつも唐突に予想しないことを言い出して、私や周りの人を巻き込む。終わった後の尻ぬぐいは大抵私の仕事で、当の本人はあっけらかんとしている。いつもならその予想だにしない行動を諫めたり、止めたりするのだが、こんな時間に目が覚めてしまって、私自身少し散歩に出たい気分だった。


『いいよ。で、どこ行くの?』


 玄関を開けると、2月の冷たい空気が暖房で温められていた頬を刺す。思わず首筋に出た鳥肌を自分の手の温かさで落ち着かせる。


「さっむ」


 鳥肌が落ち着いたところで、両方のポケットに手を戻し、意を決っして外に出る。まだ寝静まったままの冬の町は、あまりにも静かで少し不安になった。結局彼女は散歩の目的地は教えてくれず、ただ駅前に集合とだけ返信が来た。指定された待ち合わせ場所まで夜空を眺めながら、ゆっくりと歩いた。その間もすれ違うのは、朝の搬入をするのだろうトラックが数台だけだった。いつも賑やかな駅前もシャッターが閉められていた。その前では、よく見慣れたファーが付いた鶯色のコートを着た長身の女性が、たばこを吹かしながらシャッターに体重を預けている。彼女の白く細く長い指がこれまた細い煙草を挟み、その端麗な口元に運んでいる様子を遠くから見ていると、すぐに声をかけずにしばらく眺めてしまう。少し離れたところから顔の良い連れをしばらく眺めていると、彼女のほうもこちらに気づいたようで、半分は残っているだろう煙草を携帯灰皿へそそくさと捨て、こちらへヒラヒラと手を振っている。


「また、私の顔見てたでしょ。ほんとに●●は私の顔好きだよね」


 駆け寄った私の顔を悪戯っぽく覗き込みながら、彼女はにやっと笑った。170㎝以上もある彼女に対し、私は160㎝くらいしかなく、彼女が私をからかうときは決まってこうしてくる。


「別に、たばこ吸ってるあんたに近づくと、匂いがうつっていやなだけ。で、散歩ってどこ行くのよ」


 図星を突かれたのを悟られないように、冷静にあしらいながら続ける。あしらわれた側の彼女もいつものことと肩を上下に動かしながら、スマホを操作して表示された地図をこちらへ向けた。その画面には、少し歩いたところにある日本庭園が表示されていた。確か前に見たバラエティ番組で紹介されていた覚えがある。


「でも、まだ4時よ? 開いてるわけ──」


 今は日の出前だ。ここに来るまでもコンビニ以外のほとんどのお店は閉まっていた。文化財なら尚更開放はされていないだろう。しかし、彼女は私の言葉を遮って画面の下の方を指さしてみせた。彼女の示す先に目を運んでみると、「午前4時~午後8時」と書かれている。


「大丈夫。開いてるみたいだよ」


 よく読んでみると、オーナーさんの意向で日の出によって見られる幻想的な風景を見てもらうため、早朝から開放しているとのことだった。


「ね、行ってみようよ」


 その目的地は徒歩30分ほどのところにある。だれもいない町を二人でゆっくりと歩いていく。特に会話があるわけでもなく、黙々と歩を進める。私の少し前を歩く彼女の背中は大きいながらも薄く、目を離したら風に飛ばされてどこかに行ってしまうのではないかと思うほど、夜の光に当てられ儚く見えた。その背中を追いかけているうちに、あっという間に目的地に到着した。地図アプリの言う通り確かに日本庭園は解放されていた。こんな時間に来る客はほとんどいないのだろう。入り口に設置されている詰所に警備員がいるが、今にも眠ってしまいそうなほど瞼が重たそうだった。そんな警備員の横を通り過ぎ、二人で庭園の中へ入っていく。こんな時間だ。もちろん客は私たち以外にはいないようだった。


「やば、貸し切りじゃん」


 あまりの荘厳さに思わず声が漏れた。池も滝も草木も、月の光に照らされてゆっくりと揺れるだけで、ヒトの手で育てられた彼らが唯一自然を取り戻せている時間のように思えた。


「ねえ、こっちにも何かあるって」


 看板の前の彼女の声に誘われた。彼女の横に移動し、看板を見る。確かに彼女の言う通り、庭園の反対側に枯山水があるらしい。流れで見ていけばそのうち見ることになるだろう枯山水を、わざわざ知らせてきたということは、彼女の興味が惹かれたのだろう。そんな思考を巡らせながら、彼女が示した地図に従い、二人並んでゆっくりと庭園を進んでいく。枯山水があるとされている周囲は漆喰の塀に囲まれていた。雨風にさらされ所々ささくれ立っている敷居をまたぐと、そこには門構えからは想像できない水景色が広がっていた。苔むした大小の岩と、整えられた砂紋が描かれていた。


「すごいね」


 京都などで見た時と同じ感想が口をついた。正直、歴史的価値や芸術的なすごさはあるのだろうが、私は何となくその深みにハマれなかった。そうして絞り出した感想は、とても薄っぺらに感じた。彼女はこれを見て、何を考えているのだろうか。隣に並んで横顔を伺う。彼女はじっと、柵に肘をついたまま庭の方を見ていた。彼女にとってこれはそれほどまでに、押し黙るほどに目を奪われるものなのだろうか。私は踵を返し、別の場所へ移動しようとした。


「来た」


 後ろでした彼女の声に思わず振り返る。枯山水を囲う塀の縁、さらに向こうの地平線から朝日が顔を出してきていた。いつの間にか日の出の時間を迎えていたのだ。先ほどまで今にも凍りそうな寒さとともに冷たさを演出していた砂利の庭が、朝日の光をキラキラと乱反射させている。まるで、本当に島の間を水が美しい輝きを放ちながら流れているようだった。どこからかせせらぎの音すら聞こえてくる気すらする。


「ね? 来てよかったでしょ」


 目を奪われていた私の顔を見下ろしながら彼女が悪戯っぽく笑った。恐らく彼女はこの日の出の時間まで計算し、私をこの庭園へ誘ったのだ。


「うん。よかったかも」


 素直にそう言った。これを美しいと感じたことを否定したくなかった。しばらく綺麗な庭を眺め、二人は帰路についた。また黙々と歩く。しかし行きの寒々とした感じとはどこか違い、なんだか心がポカポカしていた。一度通った道で慣れた、と言われてしまえばそれまでかもしれないが、帰り道はあっという間に家についてしまった。彼女には駅まででいいと断ったのだが、こんな時間だからと家まで付き添ってくれた。朝4時に呼び出しておいて今更な気もするが。自宅のマンションの階段を冷たい靴音が二つ上っていく。


「今日は誘ってくれて、ありがと」


 家の扉の前で彼女に言った。日はすっかり地平線から離れて、見上げる高さまで上がってきていた。その太陽がちょうど彼女の頭の後ろにあり、彼女の表情が見えない。その隠れた表情を伺い見ようと目を細めていると、次の瞬間、彼女の顔が私の視界を遮った。私はそのまま目を閉じる。唇に触れる柔らかい感覚。しばらくその温かさに身を任せる。彼女の顔が離れた。特に何も言わず、しばらく目線を交錯させる。


「じゃ、おやすみ」


 彼女がそう言って去ろうと階段のほうを見る。私も何も言わない。が、私の指はしっかりと彼女の鶯色のコートの襟を掴んでいた。かかとを精一杯上げて、彼女の唇を奪う。私の行動に驚いたのか、彼女は数秒目を見開いていたが、すぐに目を閉じて私の背中へと手を回した。活動を始める街とは対称に、私たちはベッドで眠りについた。

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