支えてくれる人の存在

 結局、修の家族がバラバラに……いや、正確には初音さんだけがあの家から居なくなるらしい。原因はもちろん浮気で相手は俺が目撃したあの男だ。たぶんだけど神崎さんが何か噛んでいるんだろうなとは思ったが、母さんが聞かなくていいと念を押して来たので何も聞いちゃいない。


「……浮気すればそりゃそうなるか」


 修のことが気になるけど俺からはまだ何も連絡をしていない。実際にこういう時にどんな言葉を掛ければいいのか分からないからだ。むしろ落ち着く時間が必要かもしれないし……ったく、難しい話だこういうのは。

 ……それにしても、今日は母さんも用事があって家に居ないし絢奈も居なかった。いつもは居てくれる存在の不在、そしてつい先日の騒がしさを経験していると今一人で居るこの空間がとても広く静かに感じてしまう。あれ、俺ってこんなに寂しがり屋だったか?


「それだけ大切に想ってるってことなんだろうなぁ」


 ゴロゴロと天井を見つめながらそう呟いた俺だったが、少し外に出るかと考え立ち上がった。簡単に身支度を整え家から外に出ると、流石夏場だなと言わんばかりの暑さだった。額から流れる汗を感じつつ、俺は散歩がてら歩みを進め……そしてとある公園に差し掛かった時俺は見つけた。


「……修?」


 ベンチに座りボーっとする修は遠くを見つめたまま動かない。おいおい、いくら木陰とはいえ暑いだろうに。飲み物も持たずにそんなことしてるとキツイだろうに。俺は近くの販売機で二人分のジュースを買い、背後から近づくように修の頬っぺたにキンキンに冷えたジュースの缶を押し当てた。


「わひゃっ!?」

「おぉ凄い声だな」

「と、斗和……?」


 公園の入り口は修が見ていた先のはずなんだけどやっぱり気づいてなかったか……いや、それよりも心ここに在らずだったし仕方ないのかもしれない。ジュースを渡して隣に座ると、修は困惑していた様子だが小さくありがとうとお礼を口にした。

 プシュッと炭酸特有の音が響き、二人でジュースを飲んだ。


「……………」

「……………」


 しばらく無言の時間が続いたところで、修がボソッと口を開いた。


「……その様子だとやっぱり聞いてるんだ?」

「あぁ……その、大変だったな?」


 まあねと修は笑った。


「まさか自分がこんな立場になるなんて思わなかったよ。とは言っても、最近の母さんの様子から何かあるとは思ってたんだ。それが浮気とは思わなかったけどね」

「……………」


 それから修は教えてくれた。

 初音さんの様子が変だったこと、修がおかしいと思ったタイミングで二人の逢引きの写真が届けられたこと、単身赴任をしているはずの父親も何故か知っていたこと……そして、その男がどうなったかの一切が分からないこと。これに関しては初音さんも知らないと逆に驚いていたらしい。


「……それともう一つ、琴音があいつに犯されそうになったことも知った」

「え……」


 琴音ちゃんか、最近は全く会ってなかった……会おうと思ったこともないけど、なるほどそんなことがあったのか。俺にとっては初音さん同様に会いたくはない相手ではあるが、そんなことを修の口から聞くと凄く複雑な気持ちになる。


「涙ながらにそうだったことを教えられて……それも母さんを問い詰める切っ掛けになったんだと思う。ねえ斗和」

「なんだ?」

「前にも話したけど、母さんと琴音が君に酷いことを言ったことを知った。母さんはともかく、幼い琴音はそれが正しいと思い込んでしまった。もちろん結果論でありただの言い訳で、君からしたら消えない傷なのは分かってる。それでも僕は……琴音を守りたかった」


 もしかしたら修は俺が琴音ちゃんに対して罰を受ければいいとでも思っていたのかな。別にそんなこと思っちゃいないし、もう気にしてもいないのが本音だ。確かに傷ついた過去ではあるけど、何度も言うけどもう“終わった”ことなんだ。いつまでも過去を引き摺るような性格はしていないし、グチグチと恨みつらみを言うつもりもない。自分で言うのもなんだけど、俺はそんな器の小さい人間で居たくはないのだから。


「目の前で泣く琴音を見て、僕は兄として琴音を守りたいと思ったんだ。血の繋がった兄妹だからこそ守らなくちゃいけないって。僕同様に救いようのない部分があったとしても、あの時の僕はどうしても見て見ぬ振りなんて出来なかった」


 強く握り拳を作りながら修はそう言った。俺は一人っ子だからその辺の気持ちを完全に理解出来はしないけど、そうやって妹を守ろうとする姿はかっこいい兄の姿なんじゃないかって思うんだ。


「琴音ちゃんは幸せじゃないか? 修みたいな兄貴が居てさ」

「……はは、そう言ってくれると嬉しいよ」


 ……この様子だと大丈夫みたいだな。元気がないのは当然だけど、修の目にはあまり悲観のようなものは見られなかった。母親という存在を失ったとしても、守るべき存在が近くにあるからこそ強く立ち上がることが出来んだろうなと思う。


「……………」


 琴音ちゃん……か。確かに彼女に対して言葉にしようのない怒りを感じたことはあった。ふざけるなと、地獄に落ちろとも思ったことは確かにある。けどそんなことを考えても何にもならない、不毛なことなんだと今の幸せな時間が俺に教えてくれた。俺の中で燻っていたものを、今の幸福がかき消してくれたのだ。


「けど、もし何かあれば言ってくれよ? 力になるぜ」

「うん。ありがとう斗和」


 友人だからな俺たちは。

 ジュースを飲み終えて一息吐くと、おあつらえ向きに一つのサッカーボールが転がっていた。近くに誰も居ないし忘れ物か、或いは捨てられたかのどちらかだけどまあいいか。俺は立ち上がってボールの元へ向かい、軽くリフティングをしてから修の元へ蹴った。

 修は驚いたがすぐに立ち上がり、ボールをトラップして足元に落す。そしてそのまま俺に蹴り返してきた。


「ちっとばかし暑いけど久しぶりにどうだ?」

「いいね。じゃあ次は僕がジュースを奢るよ……あ、何ならアイスでもいいけど」

「そいつはいいな。じゃあ少し体を動かそうぜ」


 終わった時少なくはない汗を搔いているんだろうだなぁ……まあそんな心配をするのも今更だ。別に走ったりはしない、ただお互いにボールを蹴っては受け止めを繰り返すだけだ。こうやって修とサッカーボールを使って遊ぶのも何年振りだろうか……。


「ねえ斗和、何年振りかなこうやって遊ぶの」

「……何だよ俺と同じこと考えるなよ気持ち悪いな」

「ひどくない!? 怪我の原因は僕にあるけどさ、君の今の姿を見て感動した僕に失礼じゃない!?」

「ははは! 冗談だよ冗談! ほら!」

「! おっとっと」


 それからしばらくの時間、俺たちはいつになくはしゃいで時間を潰した。そんなに長い時間やっていたわけではないのだが、シャツが背中に張り付く程度には汗を搔いてしまった。これはお互いに早く家に帰ってシャワーを浴びないと気持ち悪くて仕方なさそうだ。

 これで解散、ということにはならず約束通り修と一緒にアイスを買った。二人して並んでアイスを食べていると、涼やかな声が俺たちに届けられた。


「修君に雪代君?」


 俺と修が振り向いた先に居たのは伊織だった。買い物の帰りか袋を持っているが……あ、修が頬を赤くして目を背けた。まあ気持ちは分からないでもない、僅かだけど胸の谷間が見えてるしな。っと、何でか分からないがこの炎天下の中変な寒気を感じたのでゆっくりと俺も視線を変えた。


「買い物ですか?」

「そうよ。そういう二人は汗そんなに掻いてどうしたの?」


 さっきまでサッカーボールで遊んでいたことを伝えると、伊織は困ったように笑った。


「運動するのを悪いとは言わないけど、こんな暑い日に無理すると熱中症になるわよ?」

「だからアイスを買って体を冷やしてるんです」

「それもそっか。ねえ修君……そのアイス美味しそうね」

「……お兄さん、もう一つください」

「まいどあり~!!」

「ありがとう修君!」

「……ハイ」


 本当にいいコンビだよなこの二人は。

 ……あ、そうか。修があまり悲観してなかったその理由にもしかしたら伊織も何か関係しているのかもしれない。相談したか、或いは修の様子から何か勘付いたのか……まあそれはあくまで俺の推測だけど、でもこう考えるとやっぱりみんな同じなんだと思う。

 辛い現実を前にしても、少しでも自分のことを想ってくれる、考えてくれる人が傍に居るだけでその辛さに向き合うことが出来る。あの時の俺にとってのそれが絢奈なら、今の修にとってのそれは伊織になるのかもしれない。


「ねえ修君、どうして顔を背けるの?」

「そ、それは……」


 なあ伊織さんや、無自覚なのもほどほどに……。


「あ」


 そこでアイスのクリームが胸元に落ちた。ドロリと溶けかけている液体が胸の谷間に向かって流れ、それを困ったように見つめて伊織は修にこんな提案をした。


「ねえ修君、ポケットにハンカチがあるの。取ってくれる?」

「あ、はい」

「ありがと。ねえ修君、今私は両手が塞がっています。拭いてくれる?」

「あ、はい……はい!?」

「今はいって言ったわね? ほら、遠慮なくお願い」

「じゃ、じゃあアイスを持ちますよ」

「ごめんなさい。アイスを離したら死んじゃうの」

「なんでさ!!」


 夫婦漫才は他所でやってくれよ。ほら、アイス売りの兄ちゃんも舌打ちしてるから。

 修のことに関してどうなるものかと思っていたけど、俺は目の前で繰り広げられる光景に笑いながら大丈夫だと確信を持つのだった。

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