翌日の地獄

 翌日の朝、やっぱり俺と絢奈の思った通り三人は頭を抑えてリビングに現れた。星奈さんは比較的軽そうだが、母さんと神崎さんは今にも吐きそうなくらい辛そうである。


「……っ……ちょ、ちょっとトイレ」

「あ、姐さん……私が最初に……ぐふっ!?」


 あ、母さんが神崎さんに腹パンしてトイレに駆け込んだ。腹と口を抑えている神崎さんを見て……これはヤバそうだなと思いビニール袋を渡した。それから目を背けた瞬間、苦しそうに何かを吐き出す効果音が響き渡る。


「……やれやれ」

「あはは……大変ですね」


 本当だよ全く……。


「私みたいに程々で止めておかないからよ」

「……はっ」

「絢奈、なんで鼻で笑ったの?」


 いや……ねぇ? 俺も思ったよ。アンタが言うなって。彼女の母親だけどたぶん表情にも出ていたんじゃないかな。呆れたように星奈さんを見ていたと思う。でも……この様子だと“昨日”のことは覚えて無さそうだ。


「ちなみにお母さん。昨日のことは覚えてますか? 寝てから起きた後のことです」

「え? お手洗いに起きたことは覚えてるけど……特に何もなかったと思うわ」

「ふふ、そうですか。ええその通りです何もありませんでしたよ~」


 ニコニコと朝食の準備を再開した絢奈に星奈さんも流石に変に思ったのか首を傾げていた。まあ俺も安心したというか、何を言われるかビクビクしていたのも嘘じゃない。絢奈に並んで手伝いをする中、隣でふぅっと溜息を吐いた絢奈に思わず苦笑した。


「……覚えて無さそうで安心しましたよ」

「だな。だってバッチリ見られてたし」

「なんなら会話もしましたからね」


 こんな会話をしていると何があったか察してくれる人も居るだろう。でも星奈さんが覚えていないのならこれ以上考える必要はないだろう。相変わらず星奈さんは訝し気に俺たちを見ているものの、俺たちは誤魔化すように朝食の準備を進めるのだった。


「……良い焼き加減ですね」

「こっちも味噌汁出来た」

「分かりました。えっと……お皿とお椀と……」


 朝食にあまり凝った物を作っても仕方ないからな。よくある朝食として塩サバと目玉焼き、そして味噌汁と日本人の魂である白ご飯……うん、美味しそうだ。

 トイレから戻った母さんは顔色はまだ悪いけど少し楽になったみたいだ。反対に神崎さんが今度はトイレに駆け込んでしまったけれども。それから何とか朝食を済ませると、神崎さんはやることがあるからと帰って行った。


「……うあああ……生き返るわぁ」


 そして再び伸びた母さんだった。

 俺の膝を枕にするようにして横になった母さんはすぐに寝息を立てて眠ってしまった。こうなると俺が動けなくなるわけだが、偶にはいいかと思い母さんの好きにさせる。絢奈はともかく、星奈さんの方ももう少しゆっくりしてから帰るみたいだ。


「それにしても……う~ん」

「どうしたんですか?」


 何かを思い出そうとするように腕を組んで考え始めた星奈さん。しばらくう~んと唸り、そして思い出したように口を開いた。


「……実はね、昨日起きた時に斗和君や絢奈と話したような覚えがあるようなないような」

「夢でも見たんじゃないですか?」


 間髪入れずに絢奈がそう答え、ピトッと俺に抱き着くように星奈さんが身を寄せて来た。昨日とは違い酒の匂いは感じさせず、程よい香水の匂いが仄かに香る。


「うぅ絢奈が冷たいわ……」


 娘に冷たくされるも、その理由は分からないだろうし気持ちは分かる。でもこうやって俺に抱き着くことはやめてほしい。何故かって? 絢奈の瞳孔が開いているからだ。正直なことを言えば見慣れているような表情だけど、普通に怖いんだよなぁ……。

 目をカッと見開き、星奈さんをこれでもかと睨みつける。その目に星奈さんが気づいてさらに怖がり俺にもっと強く抱き着くのもまた予定調和だ。


「絢奈が怖いわ斗和君!!」

「あぁはいはい」


 過去には色々あったけどもう星奈さんとも長い付き合いだ。何となく扱い方というか、どんな風に接すればいいのかがもう分かってきた。膝は母さんに取られ、腕は星奈さんに取られ……それならばと絢奈は立ち上がって俺の後ろに回った。


「なら私はこうやってギュッとしますから」


 背後から腕を回すように絢奈が抱き着いて来た。……あれ、こんな感じの構図が前にもあったような気がするけど気のせいか。首を傾げる俺を見てかどうかは分からないが、クスッと何かを企んだ絢奈は俺の耳を舐める。


「ちょっ!?」


 ペロッと湿りのある舌でいきなり耳を舐められたら誰だってビックリする。おそらく絢奈の仕返しみたいなものだろう。左腕に星奈さんが抱き着く形になっているので、右の耳を舐める絢奈の顔は見えないのだろう。


「どうしたの?」

「どうしたんですか?」

「……いえ」


 不思議そうな顔をした星奈さんと一緒に絢奈も何食わぬ顔でそんなことを言う。特に何もなさそうと思ったのか星奈さんは再び前を向いた。チラッと絢奈を見ると、べーっと舌を出して再び俺への悪戯を再開させる。耳たぶを舐め、そして耳の中にまで舌を侵入させてくる。首に誰かが顔を寄せた時にとてつもないくすぐったさを感じることがあると思うが、あれの強力バージョンと言っても差し支えない感覚が俺を襲っていた。


「……ふふ、可愛いですよ斗和君」


 楽しそうにそう言う絢奈に後で絶対に俺も仕返ししてやると心に決めた。


「そう言えば……斗和君と絢奈は喧嘩とかはしたことないの?」


 唐突ではあったが星奈さんにそう聞かれたことで、流石に絢奈も俺への悪戯をやめた。それにしても喧嘩……か。特にした覚えはないしそれに近いこともしたことはない。ちょっとした意見の食い違いで言い合いをしたことくらいはあるけどそのくらいかな。


「喧嘩はないですよね。私と斗和君は昔からずっと、そしてこれからもずっとラブラブなのです」

「……ふふ、そう。いつも仲が良いのは分かってるから少し気になっただけよ」

「心配しなくても大丈夫ですよお母さん。仮に私たちが喧嘩をしたとしても、たぶんですけどすぐに仲直りすると思います」

「……確かにそうかもな。むしろ絢奈と大喧嘩することになるとしたら何があるのか逆に気になるくらいですし」


 そんな俺の言葉に星奈さんはそうねと顎に手を当てた。そして……。


「斗和君が浮気したら流石に絢奈も――」

「そんなことはありませんよお母さん斗和君が浮気? 浮気って外国の言葉ですかそれとも宇宙人の言葉ですか何ですかっていう冗談は置いておいて、そんなことは絶対にありえませんよ天地がひっくり返ってもありえません」

「あ、絢奈?」

「斗和君は私のことが大好きなんですその逆も然りです絶対にそうですそうじゃなきゃいけないんです……そうですよね?」

「あ、はい……」


 傍から見たら物凄い形相の女に詰め寄られる男に見られるかもしれないけど、事実絢奈の言っていることは間違ってないからなぁ。こんな風に詰め寄られても可愛いなとしか思わない俺はどれだけ絢奈のことが好きなんだって話だ。


「というかお母さん、いつまで斗和君に抱き着いてるんですか?」

「落ち着くのよ凄く。絢奈の気持ちが分かるわね……絢奈が大好きになるのも理解できるわ」

「そうでしょうとも! いいですかお母さん! 斗和君はですね――」


 そこから俺を挟んで話し込み始める二人……とりあえず絢奈さん。星奈さんがうちの娘ちょろいわみたいな顔をしてるけど気づいてるのかな?


「とにかく優しくて! でも時折見せる強さもキュンキュンしちゃうんです! なんなら冷たい表情も最高なんですから!!」


 ……気づいてないですねこれは。

 小さく溜息を吐きつつ、俺は絢奈と星奈さんの親子の語り合いを眺めるのだった。






 そして、それから数日後――その知らせは突然だった。


「……え?」

「……私もビックリしました」


 修の家での出来事、初音さんと旦那さんが離婚することが決まったと。

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