二兎を追う者は……破滅あるのみ
「……斗和君のその様子だと見たのね?」
その問いかけだけで俺には理解できた。神崎さんとの買い物の途中、見るからに軽そうな男と腕を組んで人混みに消えて行ったあの女の人はやっぱり……。言葉を失った俺を見た星奈さんは顔を伏せながら教えてくれた。
「しばらく話をすることがなかったから分からなかったけど、偶然家の近くで二人が抱き合っているのを見たのよ。流石に見間違いだって思いたかったけど、斗和君も見たのだとしたら事実みたいね……」
力なく項垂れる星奈さんに掛ける言葉が見つからない。正直なことを言えば……かなり複雑な気持ちである。俺にとって初音さんは会いたくないとさえ思っている人だが、修の母親ということで完全に気にするなというのも無理な話だ。
「あんな人、斗和君は気にする必要ありませんよ」
傍に寄り添ってくれる絢奈がそう言ってくれるが、絢奈自身も俺の心の内は理解してくれているのだろう。ただの他人だと、そう切り捨てることの出来ない俺を優しい目で見つめていた。
「修と話をしなかったら分からなかったけど、またいつものように話すようになったからな」
二度目になるけど初音さんは会いたくはない、けれど修は友人だ。それでも、だからといって俺が介入して何かが変わるなんて傲慢なことを言うつもりはない。酷かもしれないけど、あの人に関してはもうその家庭の問題だろう。
「ま、それとなく修と話はしてみるかもしれない。俺に出来るのはそれくらいだろうから」
「はい。その時は私も傍に居ます」
「ありがとう」
「いいえ、妻として当然です」
「……………」
「な、何か言ってくださいよ!」
いやごめん、普通に驚いたというか不意打ちを食らったからだ。突然の妻発言に目を丸くしたのは俺だけでなく星奈さんも同様だった。でもすぐに顔を赤くした絢奈に二人でクスクスと笑う。確かに悩みの種を摘めたわけではないが、今はその考えは頭の外に置いておくことにしよう。
「星奈さん、とりあえず今は置いておきましょう」
「そうね……今更私が何を言ったところで届かないでしょうし」
……どうやら最近話をしてないということもあって、初音さんとの間で溝が出来ているのかもしれないな。それから星奈さんも母さんを手伝うためにキッチンに向かったが、そこで俺はずっと黙り込んでいた神崎さんに視線を移した。
「……ふむ」
俺たちが話している間、ずっと神崎さんはスマホを覗いて静かだった。時折画面を見ては手を動かしているので、誰かと連絡を取り合っているのかもしれない。俺の視線に気づいた神崎さんは顔を赤らめてこんなことを口にした。
「斗和坊、お姉さんに見惚れても何も出ないよ?」
見惚れたわけじゃないんだが……その神崎さんの言葉に俺よりも早く絢奈が答えた。
「斗和君が見惚れてる? 冗談もほどほどにしやがれですよ」
「……私最近思うんだけどね、絢奈ちゃんそっちの素質あると思うよ」
なんだそっちの素質って……。うふふと笑う絢奈に冷や汗を流す神崎さん、あれ……もしかして神崎さんよりも絢奈の方が怖い? いやいやまさかそんなことは……ないと思いたい。
「絢奈! ちょっとお皿を運んでもらえる?」
「分かりました。それじゃあ斗和君、座って待っててください。ついでに絵支さんも」
「ついでって酷い!」
「相手してあげるだけありがたいと思ってください」
「酷い!」
基本絢奈は他人に対してここまで言うことはない。普段は神崎さんに対しても柔らかい口調で接するのだが、やっぱりさっきの見惚れてる発言が気に入らなかったみたいだ。まあ神崎さん自身それは分かってるみたいだけど。
「あ、そうだ斗和坊」
「何ですか?」
神崎さんに呼ばれて振り返った時、俺は静かな焔を幻視した。別に物理的に燃えているわけでもなければその焔が見えるわけでもない、ただ神崎さんの雰囲気から俺はそれを見たのだ。言葉にしないような静かな怒り、それを俺は明確に感じ取った。
神崎さんは何に怒っている? もしかしてさっきの絢奈からの扱いに? そんなわけはないだろうと思いつつ、俺は神崎さんの言葉を待った。
「佐々木初音と連れ立っていた男、前島って男なんだけどさ」
「へぇ……は?」
「アレは“私たち”に任せな。斗和坊や絢奈ちゃんは何も気にすることはない」
「……えっと?」
神崎さんは一体何を言ってるんだ。ていうか前島って……状況が呑み込めない俺の肩をポンポンと叩きながら苦笑した。
「別に佐々木初音を哀れに思ったわけでも、斗和坊の友人が息子だからってのも関係ない。越えてはならない境界線、それを奴は越えようとしてるってわけ。私が何を言ってるか分からないでしょ?」
「……はい」
「それでいい。前の時はともかく、こうして事前に気づいた以上斗和坊や絢奈ちゃんは何も知らなくていいんだよ。大人の欲望に子供が巻き込まれるなんて、そんなことはあっちゃいけない」
結局、神崎さんが何を考えているのか俺には分からなかった。俺と神崎さんの間に出来た不思議な空気に母さんと星奈さんは首を傾げ、絢奈はまたお前かといった視線を神崎さんに向けて困らせて……そのままあやふやになった。
そうしてようやく準備が出来てすき焼きパーティが始まるのだが……やはり母さんは酒が回って盛大に酔っぱらった。いつもは俺を抱きしめてくるのだが今日は絢奈の日だったらしい。
「絢奈ちゃんは本当にいい子よね。美人で勉強も出来て家事もバッチリ、しかもおっぱいも大きくて抜群のスタイル、絵支を見ると神様も不公平って思っちゃうわ」
「姐さん、それ間接的に私を馬鹿にしてますよね?」
「……………」
母さんに捕まって遠くを見つめている絢奈には同情するが、ああなった母さんは暫く絢奈を離さないだろう。とはいってもおそらく、絢奈で満足したら次の矛先が向くのは俺だろうけどね……はぁ、お肉いっぱい食べて万全にしておこう。
「はい斗和君、お肉よ」
「ありがとうございます」
星奈さんが取り分けてくれたお肉を皿に運んで食べる……うん、美味い。
「はいお豆腐よ」
「ありがとうございます」
少し前のことになるのだが、今みたいにおかずを取り分けてくれる星奈さんに自分で取るからいいですよと言ったことがある。その時にこの世の終わりみたいな顔をされてしまったから甘えることにしたんだよな。
「お母さん?」
「ふふ、あなたが捕まってるんだもの。私の出番よね」
「……ぐぬぬ」
絢奈の視線を感じつつ、俺はすき焼きに手を付けていく。そして数分後、雪代家のリビングは地獄が広がっていた。
「……お酒って怖いね絢奈」
「そうですね。こんな大人にはなりたくありません……」
大人組三人がだらしのない姿を披露していた。母さんと神崎さんは寝っ転がってしまい、星奈さんは机を枕にするように眠っている……この部屋、凄まじいほどの酒の匂いだ。俺と絢奈は互いに目を合わせて溜息を吐き、この惨状をどうしようかと頭を悩ませるのだった。
雪代家ですき焼きパーティが幕を開ける少し前、どこかの飯屋で男の下品な笑いが響いた。
「はは、チョロイ女だぜ全く。だが体は良いし金もある……良い女なのは間違いねえな」
「流石ですね前島さん、その様子だと既に?」
「当り前だろうが。あれだけイジメてやればな」
「ひゅー♪」
下品な笑いに相応しい下種な内容だ。前島と呼ばれた男、その前島を慕う男は更に言葉を続けた。
「聞くところによると近所の母子も結構な美人親子らしいじゃないっすか。そっちは?」
「当然狙うに決まってんだろ。母親も娘も良い体してるし、更にあの家は相当な金持ちだ。手籠めにすりゃあ楽が出来るぜ」
「前島さんに目を付けられちまったら終わりだなぁ……ささ、今日は俺が奢るんでどうぞ」
「すまねえなぁ!」
気持ちよさそうに酒を飲む前島、そんな前島に酌をする男は気づかれないように前島の後方を見た。その場に居たのは一人の女だが、スマホを見つめてどこかに連絡をしている。女が小さく頷くと、男も頷き返して口を開いた。
「前島さん、次行く店は俺がよく行くとこなんすよ。酒がめっちゃ美味いんで」
「ほぉ~。んじゃ次はそこに行くとするかぁ!!」
本当に機嫌の良さそうな前島の様子……だが。
「……………」
その前島に対して笑顔を浮かべている男は密かに冷や汗を流していた。そんな男を女は見つめている……色っぽい視線ではない。下手なことはするなと、言う通りにしろと命令しているかのような視線だ。
恐れる男の内心を知ってか知らずか、女は手元に置かれていた冷えた茶を喉に通す。
「……お嬢、お怒りね」
その女がふぅっと息を吐くように顔を上げた。
端正なその顔の女性、本当についさっきのことだ。夕方に絵支と斗和が出会った際、握手を求めた女性だった。
斗和や絢奈の知らない場所で、密かに蠢く影はあるのだった。
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