紐解かれた記憶

「……っ」


 窓から僅かに漏れ出した光が瞼越しに伝わり俺は目を覚ました。そして反射的に腕、腰、足に手を回して軽く摩る。


「……夢か。だよな。でも覚えている」


 夢で見た全て、修を庇い事故にあってサッカーを断念しなくてはならなくなった出来事。ゲームでは語られなかった一つの真実を俺は知った。その夢の影響かどうかは分からないが、どこか今まで自分は斗和に憑依しただけの別人という考えが薄れ、まるで最初から斗和であったかのような……まるで魂そのものが同化しかけているような感覚だ。

 だからこそ、あんな思いをする原因になった修やその家族に対し憎しみのような感情が溢れ出そうになる。しかし、やはり“俺”という意識は残っている。斗和だけの意識なら分からないが、少なくとも俺の意識がある以上憎しみは残るが我慢できないほどではない。


「……飯食べないと」


 ベッドから降りて簡単に身だしなみを整え、母さんが待っているであろうリビングに向かう。タイミングが良かったみたいでちょうど朝食が並んでおり、母さんも降りて来た俺を見て柔らかく微笑んだ。


「おはよう斗和」

「おはよう母さん」


 母さん――雪代明美、俺が言うのもなんだがとても高校生の息子がいるとは思えないほどに若々しい。母さんと共に席に着き、朝食を食べ進めていく。うん、今日も美味しい。


「本当に美味しそうに食べてくれるわね。母親として嬉しいわ」

「実際に美味しいからな。ありがとう母さん」

「どういたしまして」


 数週間前は少し慌てた会話だったというのに今ではこんなものだ。話をすることに違和感はないし、寧ろこうして話していたのが普通だと感じている。

 熱々の味噌汁をふぅふぅと冷ましながら味わっていると、母さんがふと口を開いた。


「……本当に元気になって良かったわ」

「母さん?」


 朝食を食べる手を止めて俺を見つめる母さんの目はとても優しかった。とはいえジッと見られるのは家族と言えど恥ずかしいモノがある。非常に食べにくいし……何と言うか照れくさいのだ。そんな様子の俺を知ってか知らずか母さんはクスクスと笑う。


「……どうしたんだよ」


 流石に口を挟む。

 母さんはごめんごめんと言いながら続けた。


「サッカーを辞めてからのあなたは元気がなかったから。私の前では気丈にしていたけど、あれ結構バレバレよ?」

「……分かりやすかったの?」

「うん」

「即答かい」


 ……不思議だな。

 母さんとの会話で選ぶべき言葉が分かっている。そして段々と霧が掛かっていた記憶が晴れていくような感じもする。夢で見たあの出来事から今に至るまでのこと、それが紐解かれていくように全部。


「でも、あの出来事があってから絢奈ちゃんが家に来てあなたは元気になった。あの時の絢奈ちゃんには本当に感謝してる。ねえ、何があったの?」


 ニヤニヤしながら聞いてくる母さんに俺は何と言えばいいのか言葉に詰まる。恥ずかしいと言えば恥ずかしいこと、しかしあれは同時に苦い記憶でもある。だがようやく理解できた。どうして絢奈が俺をご主人様などという名で呼んだのか、どうして俺の言葉一つにあそこまで不安定になったのか、どうして俺に対しあそこまで献身的に尽くしてくれるのか。

 考え込んだ俺に母さんが慌てたように口を開いた。


「そ、そこまで考え込むほどなら聞かないから! ほら、無理をしない!」

「お、おう……」


 母さんの声に思わず考えを中断した。俺としてもあのまま母さんの声が聞こえなかったら延々考え込んでいた気がするし助かった。気を取り直して再び味噌汁を啜る。あぁ美味しい、朝はやっぱりこれに限るな。


「ごちそうさま」

「お粗末様でした」


 食器を流し場に置いてリビングから出ようとした時、母さんに俺はこんなことを言われた。


「絢奈ちゃんのことだから大丈夫とは思うわ。でも時々話してて気づいたんだけど何か思い詰めているような気がするのよね。だから斗和、しっかり見ていてあげなさい」

「……うん。了解」


 言われなくてもそのつもりだ。俺の答えを聞いて母さんは満足そうに頷いた。そして食器を洗い始めようとしたその時、思わず聞き返してしまうことをボロっと母さんは口走ったのだ。


「絢奈ちゃんから病院での出来事を聞いてね。思わずバット持って殴り込み掛けようかと思ったのよね~」

「……やってないよね?」

「当然じゃない。ただあなたに内緒で絢奈ちゃんに橋渡しをしてもらった時に『アタシの息子にふざけたこと抜かしたらしいな? 締めるぞクソババア』って言っちゃったわ」

「聞いてないんだけど!?」

「言ってないもの。いやね、ついヤンキー時代の名残が出ちゃって」

「……いってきます」

「いってらっしゃい~」


 ……まさか母さんの過去がヤンキーだったとは新事実だ。昔の写真とかちょろっと見た記憶があるけど、確かに普通の人に比べて派手だった気がする。あぁそうか。時々家に来る母さんを慕う女の人たちって舎弟とかそういう? 何だろう、あまり知りたくなかったなぁ。


「しっかり見ていてあげなさい……か」


 二度目になるがそのつもりである。しかし……妙なんだよな。こうして斗和と絢奈のことまで思い出せたけど、まだ何か喉元に出かかっているモノがある。それが何なのかまだ分からないけれど、絶対に思い出さなければいけないと俺の中の何かが訴えている。


『……えげつないな。絢奈がやばい』

「……え?」


 一瞬、俺とは違う別の声が響いた気がした。だがひどく懐かしく、幼いころから聞いていたようなそんな声だ。周りを見てみても当然俺以外その場には居ない。ならば気のせいか、と流そうとしたが以前サッカーについて関係ないかと流したら案の定隠されていた真実だった。だからこそ俺の身に起こること、小さなことから何でもいい……気に掛けて行こう。そうすればきっと何かに辿り着けるはずだ。







「……どうして、どうして抵抗してくれないんだよ」


 一室に苦しそうな男性の言葉が響く。

 男性は一人の女性を押し倒していた。ぱっと見では男性が女性に対し襲い掛かっているようにも見えるが、女性の様子がそれを否定しているようにも見えた。


「抵抗する必要がないからです。斗和君に求められるなら私は構いません」

「……っ! なんで……なんでそんなに君は……絢奈は俺のことを……」


 抵抗するつもりは一切なく、これから斗和にされること全てに身を任せる覚悟を絢奈はその瞳に宿していた。絢奈の様子から彼女は絶対に斗和を拒絶することはない、それは斗和自身理解できた。目の前に居る抵抗しない女をモノにしろと、薄汚い心の声が響く。だが斗和にはそれができない、何故なら目の前に居る絢奈は斗和にとって大切な存在だから。絶対に傷つけたくないと誓っているからだ。


 ずっと昔から斗和の親友でもある修が絢奈を好きなのは知っていた。言われなくても仕草等で容易に分かることだった。ずっと幼馴染として過ごしてきたのなら斗和なんかよりも付き合いは圧倒的に長いだろう。絢奈が素敵な女性というのは大いに頷けるものだから、そんな絢奈を修が好きになるのも別におかしなことではないと思っていた。


「……クソ」


 しかし、気づけば斗和だって惹かれていた。でも修のことを考えその気持ちに蓋をしていた。それは事故に遭ってからもずっとだった……だが、段々と修の姿を見ているとどうしても憎しみが沸き上がってくる。事故は偶然だ。決して修が起こしたモノではない、それは頭では分かっているのだ。それなのにサッカーを失って絶望していた時、修に絢奈との仲を応援してほしいと言われた。思えばそこからだった……斗和の中で何かが変わったのは。

 そして今、元気がなかった斗和を元気付けると家まで付いて来た絢奈を押し倒して現在に至る。


「……………」

「……………」


 お互いに視線を外さない。けれど斗和は本当にこの先に進むつもりはなかった。絢奈が拒絶してくれればいい、それで嫌われるようなことがあればこの想いに決着を付けることができる。そう思っていたのに、それは突然の感触だった。


「……っ!」

「ぅん……」


 唇に触れる柔らかいそれは絢奈の唇だった。

 いきなりのことで呆然としていた斗和、唇を離した絢奈は頬を赤くして呟く。


「キス……しちゃいましたね」

「……何を」


 照れながらも美しく笑みを浮かべるその姿に斗和の心臓は高鳴った。今のでは足りない、もっと絢奈を味わいたいと内に潜む己が叫ぶ。斗和の葛藤を他所に、絢奈は語り出した。


「斗和君、私はずっと自分が何のために生きているのか考えていたんです。修君やその家族、母に整備された世界を生きるために居るのか……なんて思っていました。でも、そうじゃなかったんです」


 絢奈の言葉は続く。


「私はたぶん斗和君に会うために生まれて来たんです。初めて会ったあの時、私は斗和君を不思議な人だなと思っていました。そして接するうちにそれは恋へと変わって、いつしか貴方の傍に居たいと、貴方を支えたいと思うようになりました」


 斗和の目が大きく見開く。初めて聞いた絢奈の言葉だった。彼女は斗和の手を握って優しく自身の胸に誘う。大きくて柔らかい感触、弾力はあれど段々と指が沈んでいく。そしてその感触の中から伝わるドクンドクンという心臓の音。


「斗和君、私に証をくれませんか? 私はあの人たちのモノではない……貴方だけのモノだと私の体に証を刻んでください。私の存在は貴方だけのために、いつでも貴方を癒し尽くすことを約束します。ですから受け取って下さい。私の愛と献身、そして私自身を全て」


 そうして、二人の影は重なった。

 甘い嬌声が響くその空間、過程はどうであれ二人の想いが一致した時だった。しかし、斗和はどこかこれが間違っているものだと感じていた。けれど流されてしまったまま時は経ち、二人の関係は二人だけの秘密となったのだ。

 あの時、絢奈との交わりを終えた時、彼女は斗和の胸の中でこんなことを呟いていた。


「斗和君、少しだけ待ってください。誰にも何も言わせない、私たちの邪魔は絶対にさせません。時間は掛かりますけど絶対に掃除してみせますから、だからそれまで待っていてください」

「絢奈?」

「……すぅ……すぅ」


 恐ろしく早い寝付きに結局今の言葉の真意を聞くことはできなかった。

 腕の中で眠る一糸纏わぬ愛おしい人を胸に抱きしめながら、斗和も一抹の幸せを感じて眠りに就く。胸の中に燻る漠然とした不安に気付かぬふりをして。





 一方で、絢奈はまだ起きていた。

 安心したように眠る斗和を盗み見て笑みが零れる。勢いに任せた情交だったが、絢奈にとっては何にも代えがたい幸せな時間だった。ずっと好きだった、ずっと愛していた男との交わりはかつてないほどの感情を絢奈に植え付けたのだ。

 体に触れられるだけで火照りが駆け巡り、彼に愛してもらっている時の気持ちよさは言葉に出来ないほど。先ほどまで感じていた幸せを胸に抱きながら、絢奈の目は段々と険しく憎悪を纏うように鋭くなる。


(……結局、ここまで斗和君を追い詰めたのはあいつらだ。あんなに辛そうにして……絶対に許さない)


 頭に浮かぶ何も知らずに好き勝手言っていた汚物たち、いつか絶対に後悔させてやる。


(……修君)


 斗和が修のことを考えて想いに蓋をしていた、それは会話の節々から理解できた。その優しさは斗和の美点でもあるが、あの修の嗤った顔を見た後では絢奈に残るのは嫌悪感のみ。自分の気持ちを知らずにいつもいつも傍に居ようとする修に絢奈はある想いを抱く。


(全部利用してやる。私への好意を全部利用して、その上で告げてやる。私はずっと昔からお前のことなんてどうでもいいんだってことを)


 いつか必ず、この並々ならぬ想いを告白してやる……でも今は、今だけは。


(斗和君いい匂い……すんすん。それに……逞しかったなぁ)


 黒く染まった心から一変、桃色ピンクに頭が染まるのはある意味年頃の女の子だからなのかもしれない。

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