第4話 ルリー2

〈セントポーリアガーデン〉の通用口を出るとき、ジョイさんと一緒になった。駐車場まで並んで歩いた。カレは左側の車列の方へ曲がって行き、あたしはまっすぐ進んで、右側の端っこに置いた自分のクルマに歩み寄った。立ち止まって惚れ惚れと眺める。なんて可愛いのかしら。


 パパに買って貰ったライムグリーンのトヨタヴィッツ。型落ちだから安かったんだとパパは言ったけど、そんなのはどうだっていいの。あたしはとてもうれしかった。

 就職してからずっと〈セントポーリアガーデン〉にはバスで通勤していた。なかなか来ないバス。予定通りに着かないバス。あんまり不便なので、中古の軽でも買わなくちゃ、と考えていたところだった。

 やっぱクルマはあったほうがいいだろ。なんでもないことのようにパパは言った。こんなふうに、いつだってパパはあたしのことを一番に考え、あたしに必要なものをプレゼントしてくれるんだわ。


 リモコンでヴィッツのロックを解いたとき、すぐ後ろにジョイさんが来ていた。ちょっとびっくりだったけど、平気なふりをした。ジョイさんがあんまり自然にニコニコしていたので、あたしもつられてニッコリした。


 ジョイさんはあたしのヴィッツの中を覗き込み、へぇー新車かい?と感心したように言った。その口調がちょっぴり馴れ馴れしいと思ったけど、あたしの可愛いヴィッツを褒めてくれたので、悪い気はしなかった。


「新車買えるなんてスゲーな。ルリちゃんてさ、オレよりずっと高給取りかい?」

「そんなわけないでしょ、おんなじ安月給だよ。これはね、親が買ってくれたの」

「わお。それって最高じゃん。気前のいいカネ持ちの親がいるって、いいよな」

「ウチの親、そんなお金持ちじゃないけど、気前はわるくないかもね」


 その親はどこにいるんだと訊かれたので、あたしは故郷の町の名前に〈~の方〉をつけ、ボカして答えた。するとジョイさんは、あたしの故郷と同じ方角だけど、だいぶ先にある町の名前をあげて、自分はそこの出身だと言った。名前は知っているけど一度も行ったことがない、あたしにとっては遥かに遠い町だった。


 ジョイさんはあたしのヴィッツのそばに立っている。あたしのヴィッツのボンネットに片手を置いている。ジョイさんはあたしのヴィッツから離れようとしない。なんとなく、曖昧な笑顔。どことなく、意味深な間合い。


 そこであたしはやっと、気になっていることを口にした。

「ジョイさんのクルマは、どこ?」

 ジョイさんは頭を搔いた。そのしぐさが少し大袈裟なように、あたしは感じた。

「ダチのとこにあるんだけど、ちょっと前まで忘れててさ、参ってるんだよな」


 ジョイさんはアタマを掻いたその手で、あたしの可愛いヴィッツのライムグリーンに輝くボディを撫でた。大きな手。あたしの可愛いヴィッツのドアハンドルと並んだその手は、やけに大きく見えた。べつになんにもおかしいことはなかったけど、あたしはクスクス笑い出した。

「しょうがないヒトですねえ。それじゃあ、送ってあげようかな?」


 あたしは、あたしの声がそう言ったのを聞いた。おかしくもなんともないのに、クスクス笑ったままで。いつもこうなんだな。あたしは思った。こんなふうに自分から笑い出して、大甘なことを言ってしまうんだ、毅然とするべきときに。そしてあたしは、一緒に笑ってるジョイさんの顔を見た。ヤッターと、大声で叫びたそうな感じ、いかにも満足げなニンマリ。

 

 あたしはジョイさんのその顔を、あんまり好きじゃないと思う。なるべくなら、もう見せないでほしい顔だ。うまく言えないけど、どことなくふだんと違って、笑顔とは呼びにくい笑顔。こんな顔を何度も見せられたら、きっと、いつかは大キライになってしまいそうだ。そんな予感がした、ちらりと、ほんの一瞬だけ。


 あたしの可愛いヴィッツの助手席にジョイさんを乗せて、あたしが運転をした。パパに買って貰ったばかりのヴィッツだし、あたしだけの大切なクルマなのだから、そうするのが当然だ。わかっているけど、なんとなく落ち着かない気分になった。なぜかと言えばこのシチュエーションが、あたしにはどうもしっくりこないのだ。


 子どもの頃はパパかママの運転で、どこへ行くにも送り迎えをしてもらった。それがふつうに当たり前の、ウチの習慣だった。免許を取ってからしばらくの間は、あたしも運転するのが面白かった。だけど弟が免許を取ったら、今度は弟に送り迎えをしてもらうのが当たり前になった。どうやらあたしは、クルマに乗るなら運転席じゃないシートのほうが、好ましいと感じるタチであるらしい。


 とりわけ、パパでも弟でもない男の人が助手席に座っているなんて、落ち着かないこと甚だしいシチュエーションだった。やっぱりあたしは、路面や標識や周りのクルマなんかに目を配って運転するより、街並みとか道行く人々とか、移り変わる景色をのんびり眺める方がよかった。ナビを読んだりオーディオをいじったり動画を見たりしては、おしゃべりするのがいいのだ。その方がずっと楽しくて、ドライブしてる気分になれるから。

 

 落ち着かない気分だったけど遠まわりをして、SNSで人気のサンドイッチのお店までドライブした。あたしは前から食べてみたいと思っていた、フルーツサンドとたまごサンドを選んだ。ジョイさんはやっぱりツナサンドをふたつ取り、次に分厚いカツサンドもひとつ取った。


「こないだの昼メシ代、出してもらったよなー」

 ジョイさんは歌うように抑揚をつけてつぶやき、あたしの分も会計をしてくれた。ちょっと心配だったあたしは、心底ほっとした。もしもジョイさんがサンドイッチ代を払ってくれなかったら、どうしようかとハラハラしていたのだ。


 あたしの基準では、そんなヒトとつき合うなんて絶対ナシだから、ドン引きしちゃったと思う。シラケた気分を隠しつつ、どこにあるか知らないけどジョイさんの家まで、送ってあげなくちゃならないなんて、最悪だった。その上明日もこのヒトと、同じ職場で一緒に働くんだと思ったら、立ち直れないくらいメゲちゃいそうだ。

 でも、とりあえずはクリアした。ちょっとばかり、ギリギリっぽいけど。


「さぁて、どーしよっかな?」

 ジョイさんはまた、歌うように語尾を上げて言った。店内のイートインコーナーは満員で、待ちの行列も長かった。こんなに旨そうなビジュアルと匂いを振りまいているサンドイッチを、ぐっと我慢してそれぞれの家に持ち帰り、別々に食べるのかい?まあ、オレはどっちでもいいけどさ。その目は、そんなふうに問いかけている。


 道路はとっくに帰宅ラッシュの真っ最中で、渋滞気味だった。あたしたちがサンドイッチにありつけるのはずいぶん先のことになるだろう。特にあたしは、どこにあるかも知らない家までジョイさんを送った後、自分の家に帰らなくちゃならない。ひょっとしたら、一時間かそれ以上も後になるかもしれないのだ。


 いまはこんなに美味しそうだけど、一時間以上も西日の差し込むクルマに乗せて運んだら、あたしのフルーツサンドはきっとぬるまってべちゃべちゃ、すっかり台無しになってしまうだろう。


 ジョイさんもあたしも一日の仕事を終えた後なので、猛烈に腹ペコだった。やっと手に入れた、SNSの評判通りに美味しそうなサンドイッチを、今すぐ食べたかった。 

 だから、そうした。


 あたしたちはどちらも、四の五のと、余計な口は利かなかった。阿吽の呼吸、というやつみたいだったけど、ほんとのところはどうなのか、よくわからない。ただふたりともこの上なくお腹がすいていて、食べたい一心で、なにもかもがその一点に集約した。そんな感じだった。


 まぶしい西日の熱がこもり始めたあたしの可愛いヴィッツの中で、ジョイさんとあたしはそれぞれのサンドイッチにかぶりついた。あたしはジョイさんのカツサンドの端っこを、ひとくちだけもらった。


 ジョイさんは犬の真似をしてブフッと鼻を鳴らし、あたしのたまごサンドからわりと大きめのひとくちを齧り取った。フルーツサンドもイチゴの部分をすばやくパクリと齧り取って、満足そうに呻き、嬉しそうに笑った。あたしもつられて笑った。内心ではムカついていたのに、どうしてだか、へらへらと笑ってしまった。

 

 真新しいあたしのヴィッツの車内に、しばし、サンドイッチをむさぼり食べるふたりの咀嚼音だけが響いた。咀嚼音は天井からリアウィンドウに巡ってトンボ返り、あたしたちを背後から包んだ。こんなにくっきりと自分の咀嚼音を意識したのは初めてだった。サンドイッチを噛みしだいては飲み下す、ただひたすらそれを繰り返すうちに、あたしの気分は少しずつ和らいで丸くなった。


 よそよそしさとか警戒心とか慎みとか、ひとくくりで言うならそんなようなもののこと。あたしにだって一応人並みに備わっているバリアが、あっけなく解けた。おいしいものを食べる自分の咀嚼音が、こんなにもヒトの気分を左右するなんて知らなかった。こんなにも、まぁるくやわらかく、どうなってもかまわない、みたいに。


 ジョイさんはあたしの飲みかけボトルをくわえて、ごくごくとお茶を飲み干した。ジョイさんは、肝心なときに余計なおしゃべりをしない人だった。ハンドルの前に座っているあたしをひょいとすくい上げて引き寄せ、助手席の自分の膝の上に載せた。


 サンドイッチショップの裏手に停まった、ライムグリーンの可愛いヴィッツのそばを通りかかった人が、ギョッとしてあたしたちを二度見した。その後急いで目を逸らし、逃げるように歩き去るのを感じた。リクライニングした助手席に寝そべるジョイさんの上に覆い被さり、顔と身体をぴったり押しつけ合っていても、あたしの耳は通行人が息を吞んだ気配を聴き取った。


「人が見てる」

 やっと唇を離して、あたしはささやいた。

「ああ。見せてやろうぜ」

「ちょっと、ヤバイ感じするけど」

「なら、ルリちゃんの家に行こう」

 ジョイさんはそう言って、あたしの腰をつかんだ両手に力を込めた。

 

 

 

 

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