第3話  ジョイ

 子どもたちの声が聞こえてくる。

 わんわんとやかましくて、頭に響く。うるさい。なんせやつらは、話すというより叫び、そしてわめく。笑い声ともなれば一層けたたましく、ほとんど悲鳴だ。やかましくてけたたましい悲鳴が、まるで競争しているみたいに、あっちこっちから湧き起こる。いかにも自分こそが、だれより一番高い声を出せるのだと言わんばかりに。

 まったくもう、うるさくてやかましくて、かなわん。


 ジョイがそう言ってボヤくと、初めのうちアルタは、すまなそうに言い訳をした。小学校がすぐそこにあってさ、ウチの前が通学路でさ、反対側のすぐそこに公園もあるからさ、だいたい一日中、こんな具合にうるさいのがふつうなんだよ、わるいな。


 アルタはえらく気のいいやつだと、ジョイは思う。知り合いの中では、文句なしにダントツだ。知り合ったのはだいぶ昔、ジョイが地元の中学校に入った年だった。二年生になる前に、いつの間にか転校していなくなったアルタと、およそ十年後、職探しに来た街で偶然出会った。互いにすぐさま、相手がだれかわかった。なんとなく、運命みたいなものを感じた再会だった。


 職探しをするには何よりまず、住所がなくてはならない。ここに至ってジョイは、初めてそれを知った。生まれてこの方地元の親の家が、当たり前に自分の住所だった。地元を離れたらそれがなくなるとは、思いが及ばなかった。その上、最安値ランクのアパートを借りるにも、けっこうな額のカネが必要だとアルタから聞かされ、たまげた。もちろん、そんなカネはどこにもなかった。


 なんとも迂闊な宿無しだったジョイを、アルタはその日のうちに自分のアパートへ連れてきた。仕方なくでも渋々でもなく、いそいそと嬉しそうな素振りだった。それをいいことにして、ジョイはそのまま居候を決め込んだ。


 職は、難なく見つかった。地元暮らしだった頃、何かひとつくらいは資格を取れと親に厳しく迫られて、やむなく取ったのが介護士だった。まぐれ当たりで取れたようなものだが、合格は合格だ。ただし、実際に働くつもりはまったくない、正真正銘のペーパー介護士だった。


 それなのに勢いでつい、介護士の資格を持ってると話したら、アルタは口を〈驚き〉のオーの形に開いたままで〈セントポーリアガーデン〉のパンフレットを指し、募集してる、と不明瞭につぶやいた。ウチの住所を使えばいい、とも言うので、試しに応募してみたら、あっさりと採用されたのだった。

 ま、いいか。気乗りはしなかったが、ジョイは自分に言い聞かせた。これはあくまで一時しのぎ、そこそこのカネが貯まったらさっさと辞める、それまでのガマンだ。


 こうして〈セントポーリアガーデン〉で働き始めたら、入所者のモリサキミツコに出会い、期せずしてジョイと呼ばれるようになった。やがてアルタとの間でも、その呼び名は定着した。それより以前は中一だった頃と同じように、互いを名字で呼んでいたのだ。


〈セントポーリアガーデン〉には、オレのことをジョイって呼ぶバアサンがいてさ。何気なく話したら、いいないいなそれいーなと、アルタは素っ頓狂な声を上げた。そして、オレもあだ名で呼ばれたい、なんかカッコいいのつけてくれよ、とせがんだ。


 面倒くさい注文だったが、居候の立場上イヤとも言えず、ジョイはアタマをひねった。アルタの名字はスズキだった。下の名前が何といったかは、さっぱり思い出せない。なにしろ、在籍期間が短すぎる転校生だったのだ。


 同居するようになってから、たまたま目にした電気料金の通知書には〈スズキヒサコ〉と記されてあった。それはたぶん、奥の部屋で『ネテル』という『オヤ』の名前だろうと、ジョイにも見当がついた。アルタ以前のスズキ何某について、自分が知らないことはゴマンとあるのだ。名前はそのうちの、たったひとつに過ぎない。だから、いちいち気にしていたらキリがないのだった。


 アタマをひねった拍子にくるりと泳いだジョイの目が、窓の外に駐車してあるスズキアルトに止まった。外観の旧型ぶりから察するに、相当の年月を経たポンコツ車のはずだが、手入れが行き届き、いつ見てもさっぱりと小綺麗だ。極めて大切に扱われていることが、窺い知れた。


 名前がおんなじスズキだからか?ともかく、スズキ何某がこのスズキアルトをいたく気に入っているのは確かだ。自分ならきっと、一日も早くデカいクルマに乗り換えたいとアセるし、いくらヒマがあっても、こんなに磨いたりはしないだろうに。


「おまえスズキだからさ、アルタってのはどうだ?もろにアルトよりはいいだろ?」

 ジョイは考えるより先に口走っていた。

「お、いいなアルタ。オレ、アルタ」

 いかにも嬉しそうにニンマリしたので、そのときから、スズキ何某はアルタになった。中一の年にひょいと現れ、馴染む間もなく去って行ったスズキ何某の薄い記憶は、より一層薄く、ボヤけて遠のいた。

 

 居候であってもジョイは、下校途中の子どもたちの声がうるさいと言ってのける。遠慮も忖度も一切ナシ、ほんとうにうるさいからうるさいと言ったまでだ。しかし言ってしまってから、そういえば自分は、いまや職に就いてる居候なのだと気づいた。ちなみにアルタは大工と名乗ったが、目下失業中であるらしい。


 だったらそろそろ出て行けと、言い渡されるのか?それは困る。ジョイは身構えた。まだぜんぜんカネが足りないし、どこにも行きようがないから困るのだ。すると思いがけなくアルタは、子ども時代を懐かしむトーンになって語り出した。


「オレたちだって、あんなもんだったろ。学校帰りに騒ぐのが、楽しかったよな」

 え?オレたち?ジョイは心底ギョッとする。学校帰りに騒いで楽しかった、だと?オレにはそんな覚え、まるでないんだが。ジョイは大わらわの早回しで、記憶をたどってみた。


 なんたって、あの子どもらはまだ小学生だが、オレたちはもう中一だった。通学路できゃんきゃん騒いだりなんか、するわけがない。まあ、百歩譲ってたまにはあったとしても、そのときの相手は絶対にこいつじゃなかった。かつてのスズキ何某と共有できる思い出エピソードなんてものは、どんなにアタマをふり絞っても、たったの一個も思いつかない。


 ところが。

 たとえば、砂場で失くしたおもちゃの欠片を探す幼児のように、ぽつりぽつりと、しかしけっこうな熱を込めて、アルタは思い出エピソードを掘り起こそうとしている。ふんふんと、生返事で相槌を打ちながらジョイは、もはや誤魔化しようもなく気づいていた。

 こいつの言ってることはなんかヘンだ。昔あったこともなかったことも、たとえば時間と場所と人が、すっかりごっちゃになってるみたいじゃないか?


 ときおり含み笑いを交えながら語るアルタがあんまり楽しそうなので、いかに傍若無人が持ち前のジョイでも、差し出口は挿みにくい場面だった。ぼんやり聞き流しているとスズキ何某時代の思い出エピソードは、いつの間にか佳境に入っていた。


「…オレたちの得意技って言ったらやっぱスカートめくりだったよな。オマエはクラスの女子ばっか狙ってたろ。全員めくってやったぞって、自慢してたもんな。だけどオレなんか、ナナコ先生のオッパイ揉んでやったんだぜ、スゴイだろ?思いっきりグーでぶん殴られちまったけどさ、スゴイだろ?そのときついた傷がまだ残ってるんだぜ、ほれ、スゴイだろ?」


 アルタはぐいと前髪をかき上げ、額の片側をさらした。顔を近づけてよくよく見れば、たしかに小さな傷痕らしき横線が、皺と皺の合間に見て取れた。

「グーでゴツンか?パーでバシンとか、爪でひっかかれたとか、じゃなくてさ?」

 ジョイが念を押すと、アルタは得意満面でうれしそうにうなずいた。

「言ってるじゃんか、グーだって」

「しかしな、ゴツンでこんなふうに、切れるもんかな?」

「うん、切れた。ドバっと血も出た。なんでかって言うとさ、ナナコ先生はキンキラのダイヤモンドがついた指輪しててさ、その指輪カレシから貰ったって自慢してたけどさ、そんなのウソっぱちだってこと、オレは知ってたんだよな」

 

 ここに至ってジョイは、ぐるりと目を剥いた。なんとも眉唾で怪しすぎる、初耳エピソードの羅列だった。アルタの言い分通りだとすれば、中学校の制服を着た自分が、クラスの女子生徒全員のスカートをめくってやると宣言して、実行したことになる。つらつら顧みれば、中一当時の自分はたしかに、あんまり利口なガキじゃなかった。だとしても、そこまで救いようのないバカだったとは、思わない。


 スカートめくりなんかを面白がってやったのは、せいぜい小四くらいまでだ。小五より後にそんなことをしたら、団結した女子たちから手痛い反撃を食らっただろう。なにしろオレと同学年の女子の中にはおっそろしいラスボスがいて、そんなことは出来やしなかった。体格でも知力でも勝った女子生徒に、悪ふざけを仕掛けたところで面白くもなんともなかったのだ。ましてや、こんな頼りないやつと共謀したなんて、絶対にあり得ない。


 それもこれも、スズキ何某だった頃のこいつが頻繁に転校したせいなんだろうと、ジョイは思うのだった。いったい何回転校したのかと訊いてみたら、アルタは両手の指を折っては開きを繰り返したのち、数えきれないというようにひらひらさせた。


 ただの一度も転校したことがなかったジョイは、精いっぱい想像してみた。それだけ目まぐるしくあっちこっちと転校すれば、出会った生徒も教師もことごとく、記憶がごちゃ混ぜになってしまうだろう。ゆえに、アルタの思い出エピソードに多少の記憶違いがあってもやむなしと、寛容に聞き流せたのだ。


 しかし、〈ナナコ先生〉のくだりは気になった。〈オッパイ揉んでやった〉というのが聞き捨てならなかったし、〈グーでぶん殴られた〉というのも胡乱なハナシだ。念のため、中一当時の教員たちの顔ぶれをひとりひとり思い返してみた。もちろん、当てはまりそうな人物はどこにもいなかった。


「なあ、ナナコ先生ってだれのこと言ってんの?」

 ジョイは努めてさりげなく訊いたつもりだったが、アルタの顔色がさっと変わり、平坦な造作の目鼻立ちが一挙にくしゃりと歪んだ。言うなれば、愉快から不愉快へ。上機嫌から超不機嫌へと、まっしぐらに急降下したのだ。

 

 もしや泣き出すかと身構えたジョイに、アルタはニヤリと笑いかけた。そして、ジョイの問いかけは完全スルーしたまま、輪をかけて突拍子もないことを言い出した。

「あのときオマエから貰ったハムスター、めっちゃ可愛かったよなー」


 へ?ハムスターだと?

 ジョイは絶句して、考え込んだ。そんな生き物には触ったこともないし、ましてや、スズキ何某にくれてやった覚えなど、さらさらなかった。あれってほとんどネズミだよな?ジョイはテレビ画面でしか見たことのないその姿を思い浮かべた。

 

 そもそも家ではずっとネコを飼っていたから、ネズミの仲間のハムスターなんかを飼えたはずがないのだ。歴代のネコたちはどれも野良っぽくワイルドに育ち、狩りが得意だった。たとえケージの中にいようともネズミ的生き物を見逃したはずはなく、たった一日でも無事に生き延びたとは思えない。


 しかしアルタは自分だけの思い出エピソードを、委細構わず語り続けた。

「…〈ちゃらこ〉って名前つけてやったんだ、めっちゃ可愛くてさ、めちゃくちゃ可愛がってやったのにさ、わりとすぐいなくなっちまってさ、どこ行ったのかな、なあオマエ、もしかしてオレの〈ちゃらこ〉がどこ行っちまったのか、知らないか?」







 



 


 

 


 

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