第2話 ルリ
雪が、たくさん積もっている。
そこは広い牧草畑のようなところ、なだらかな起伏の向こうに小高い丘と、雑木林が見える。けれど、ずいぶん遠くだ。ほかにはなにも見えない。地面は雪に覆われてどこまでも白一色、群青色の夜空との境い目あたりに煌めいて見えるのは星か、それとも遠い街明かりか、どちらともはっきりわからない。
積もった雪は深い。
一歩踏み出すたびに、本革のショートブーツがぬかりそうになる。ときどき立ち止まり、ブーツの中に入り込んだ雪を指でかき出した。とても冷たい。なぜなら、わたしは手袋をはめていないから。こんなに暗くて寒いのに。道のりは遥かに遠く、おいそれとはたどり着けそうもないのに。
たどり着くって、どこへ?
ふと、それがわからないことに気づく。わたしはどこへ向かって歩いているのだろう。こんな、道らしい道もない深い雪の中を。ショート過ぎる本革ブーツの足もとから、ジンジンと冷たさが這いのぼってくる。身体中に広がってゆく。
寒くてたまらないと思い、フードを被ろうとしたら、着ているコートがいつもの黒いダウンじゃなかった。あれれ、これなに?ベッチンみたいだけど薄っぺらな赤いコート、お洒落かもしれないがあくまで街歩き向き、ちっとも寒冷地仕様じゃないから寒くて当然だった。
こんなコート、持っていたんだっけ?あたし。覚えがない。でも、いつかどこかで見たような気がする。それが、不思議だった。
そういえば本革のショートブーツだって、ヘンだ。爪先の尖ったスタンダードなデザイン、舗道を歩けば中ヒールの硬い底がコツコツと、高らかに鳴りそうなショートブーツ。ぴったりフィットしてスマートだけど、その分、雪の冷たさが直に沁みる。
あたしってこういう靴、履かないヒトだよね?
自分に言い聞かせるように、つぶやいて確かめた。そうだ、あたしがいつも履いているのは、合成皮革製で滑りにくいスニーカータイプの防寒靴だ。雪を撥ねのけ、ガッチリと足を守ってくれるから暖かいあの靴を、どうして履いていないのだろう。選りによってこんなに雪深い、道なき道を歩いているときに。
こんなことになるとは、予想もできなかったから。つまり、そういうことなんだ。
第一あたしはこの場所がどこなのか、全然わからない。見当もつかない。実を言えば、これほどたくさんの雪が積もっている景色を見たことは、あまりなかった。ましてやこんなふうに夜空の下、深い雪をかき分けて歩いているなんて、ちょっと信じられない。それくらい、あり得ないことだった。
あたしが生まれ育った港町の冬は、寒いけれど雪は少なかった。小学校の体育の時間にあったのはスキー授業じゃなく、スケート授業だった。なので、あたしはスキーができない。けれど、ずっと昔に一度だけ、家族でスキーリゾートへ遊びに行ったことがあった。うちのパパだってスキーなんかうまくもないのに、どういうわけか突然行こうと言い出したのだ。
一番に思い出せるのは、遠いスキー場へたどり着くまで、ただひたすら真っ白な道を走り続けたことだ。まさしくホワイトアウトで、とても長いドライブだった。パパはむっつりと怖い顔をしてハンドルを握りしめ、ママは口を開くたび山はもっと寒いだろうねと繰り返してぼやき、弟もつまらなそうに同じゲームを何度もやっていた。
あんなに怖かったことは、今までほかになかった。あんまり怖かったので、家族のだれもが怖いと口にできず、避けていたのだ。ふだんはうっかりでぼんやりなあたしにも、ひしひしとそれがわかった。ゲレンデに到着してからどんな遊びをしたのか、ランチに何を食べたのか、少しは楽しいことがあったのか。なんにも思い出せない。
ママが寒いとぼやくたびに、言い返したくなったのは覚えている。そんなに寒いんなら、もう一枚ニットを重ね着すればいいのに。でも、やっぱり言えなかった。うちのママはモコモコと着ぶくれたりなんか絶対しないし、ウェアのファスナーを首まできちんと閉めたりもしない。ママはスキー場なんて、全然行きたくなかったのだ。
こんなふうに、あたしはいつも言いそびれる。ママにこうしてほしいこと、もうしないでほしいこと、あれもこれも。いまだってやっぱり同じ、この次ママに会ったときは、思いきって言ってみよう。ちょっぴり不安なこと。決めたつもりだけど実は迷いが残っていること。ママに聞いてほしい。思うけれど、結局、言えないで終わる。いつかまた今度、いつだって機会はあるから。そう思ってやり過ごしてしまうのだ。
あのときあんなにも怖かった雪原の直中に、あたしはいま、たったひとりだ。
パパもママも弟もいない。なによりとんでもないことに、クルマから降りてしまって歩いている。ベッチンだけど薄っぺらな赤いコートにショートブーツ、おまけに手袋をはめていない手には、バッグのひとつも持っていない。
バッグもないなんて、そんなの、アリ?
あたしは心底ギョッとして、あたふたと赤いベッチンコートの肩や腰まわりを手探りした。冷え切った指先に伝わったのは、ベッチン生地の柔らかな感触だけ、外出時には必ず身につけるポシェットとその肩ベルトは、影も形もなかった。ベッチンコートの浅いポケットを探ってみるが、なにも入っていない。財布もハンカチもポケットティッシュも、そして携帯さえも。あたしは本当に、まるっきりの手ぶらだった。
気づいた途端、心細さと悲しい気持ちがむくむくと湧き上がり、あたしを覆いつくした。悲しい気持ちの大きなうねりが、雪まじりの強風と混じり合ってあたしの顔に吹きつける。あたしの顔の皮膚は凍りつき、表情を失い、ピクリとも動かせない。
怖くて悲しくて、泣きたいのに泣けない。叫ぼうにも叶わない。ないないづくしで立ちつくすあたしは、どうすることもできないまま、ひっそりと雪に埋もれていく。
ああ、そうか。雪に埋もれながらあたしは思う。
これが、正しい答えだったのかも。
奇妙で少し怖かった夢の中に満ちていた悲しい気持ちは、夢から醒めた後も一向に消え去らず、ふわふわとあたしにまとわりついていた。手足の動きやしゃべり方や動作が全般に、いつもよりワンテンポ遅くなった気がするのは、たぶんそのせいだ。
ふだんのあたしはせかせかと忙しく動きまわり、慌ただしい早口でしゃべっている。あんまり急ぎ過ぎて、一番肝心なところを飛ばしてしまったりもする。まるきり意味不明なせっかち女になってしまう。べつに急ぐ必要はないとわかっていても、先の予定が詰まっているというだけで、つい慌ててしまうのだ。
そんないつものあたしと違って今日のあたしは、夢の中に満ちていた悲しい気持ちを引きずっているように、のろのろと動いた。身体も心もだるくてたまらない。まるで、深い雪の中にハマってしまった二本の脚を、一本ずつ、引き抜いてはようやく前に踏み出しているみたいに。一歩一歩がやけに重たい。なんとか頑張っているけれど本当は、どうにも元気が出ないのだった。
モリサキミツコさんも元気がなかった。食事はいらない、起き上がりたくもないというように、横になったままで弱弱しく、イヤイヤと首を振る。こんなミツコさんを見るのは初めてだった。
どこか具合が悪いんですかと訊けば、気だるげにまたイヤイヤ。虚ろなまなざし、細く浅い息遣い、引き結んだ口もと。それは、深い悲しみに沈んでいる人の表情だ。そう感じたとき、あたしはわれ知らず口走っていた。
「なんか悲しい夢でも見たんですか、ミツコさん?あたしもね、見ちゃったんですよ。全然知らない山の中を歩いてて、雪に埋まりそうになって、怖くて悲しくて泣きそうになっちゃう夢でした」
つと、思いがけずミツコさんの両手が伸びて、自分からあたしの手を握りしめた。
ミツコさんなりに精いっぱいの力を込めているようだが、さほど痛くはない。なのであたしはされるがままに、しばしの間、ミツコさんと手をつないでいた。
すると、ミツコさんの口もとがわずかに動いた。なにか言おうとしている。なにか意味のあることを。聞き取らなくちゃと、あたしは急いで耳を寄せた。
ミツコさんは通常の会話が無理な人だけど、時々、短い言葉を口にすることがあった。なかなか聞き取れなくて気になっていたのだが、今日やっとそれがわかった。ふわりとワンテンポ遅くなって、ゆるゆると動くあたしの耳に、その短い言葉が聞こえた。ミツコさんは『ルリさん』と言った。しかもそれは、このあたしのことだった。
「あたしはどうして『ルリさん』になったんでしょうね?」
咎める口調にならないように気をつけて、できるだけ優しく穏やかに、あたしはミツコさんに問いかけた。ネームプレートをミツコさんの目の高さに示し、耳元で本当の名前をゆっくりと二回、繰り返して聞かせたりもした。
「わかりましたか?」
ミツコさんがはっきりと頷いてくれたのでホッとした。けれど、あたしは念のためにもう一度訊いてみた。
「『ルリさん』て、だれのことですか?」
するとミツコさんはにっこりして、ためらいもなくあたしを指さしたのだった。
休憩時間に、そのことをカレに話してみた。ここでは後輩になるけど、あたしより二年ほど早く介護士資格を取ったというカレなら、なにかアドバイスをしてくれるかと思ったのだ。するとカレは、あたしがコンビニで買ってきたツナマヨおにぎりにかぶりつきながら、事もなげに言った。
「アンタが『ルリさん』に、なっちゃえばいいんじゃないの?」
カレがあんまり美味しそうに食べるので、つられてあたしもツナマヨおにぎりを食べてみた。けど、やっぱりおにぎりは鮭フレークが美味しいと思う。これなら何個でも食えるとカレが言うので、つい四個も買ってしまったツナマヨおにぎりをげんなりして眺める。この次は絶対あたしの分だけ鮭フレークにしなくちゃ、と心に刻む。
「それはまあ、そうかも知れないけどね」
わかっているけど、どこのだれなのかも知らない『ルリさん』と呼ばれ、すんなりハイと答えて『ルリさん』のフリができるか、あたしは自信がないから困っていたのだ。すると、カレはニヤリとして言った。
「ちなみにオレは、『ジョイさん』ていうやつのフリしてるんだ」
「『ジョイさん』?それって、だれ?」
「知るもんか。知らなきゃならないとも思わんし。ただ、ミツコさんがオレのことを『ジョイさん』と呼ぶから、オレは『ジョイさん』になってる。それで、なんにもモンダイはないよ。
それどころか、前よりハナシが通じてるし、ミツコさんの状態は改善してるだろ。だからさ、アンタも呼ばれた通り『ルリさん』になってればいいんだよ」
こんなふうに、モリサキミツコさんを介してあたしは『ルリさん』になり、カレは『ジョイさん』になった。やがていつからともなく、ミツコさんがいないところでも、じゃれ合うようにふざけ半分、お互いをそう呼ぶようになっていった。
そうしていると、二人だけの秘密を分かち合ってるみたいで、なんだか楽しい気持ちになれた。単調だけどそこそこの緊張を強いられる勤務の毎日が、しのぎやすくなったのだ。あたしはその楽しい気持ちを、ささやかな幸せと感じた。
ミツコさんは、なにか探しているように見えた。サイドテーブルの上に飾ってあったフォトスタンドを手に取り、中の集合写真を見つめ、考え込んでいる。開いたままの引き出し。膝の上には小型のフォトブックが一冊。取り上げてはパラパラとページをめくる。すでにひと通り探したけれど、目当てのものが見つからなくて途方に暮れている、そんな様子だった。
ミツコさんに『ルリさん』と呼ばれた戸惑いを乗り越え、いっそ『ルリさん』でいようと覚悟を決めた午後には、あたしの身体も心もだいぶ軽くなっていた。ミツコさんもあれからちゃんと食事をしてくれたし、いまはこうして写真を見たりしているのだから、気分はよくなったに違いない。
「なにか探し物ですか、手伝いましょうか?」
声をかけるとミツコさんは、ハッとしてあたしを見上げた。ノックに気づかないくらい、深くもの思いに沈んでいたらしい。それから小首をかしげ、なにかしらいいことを思いついたように、目を輝かせた。ポッと灯りがともったような輝きだ。
たいていの入所者さんたちは、ときどきこんなふうに、目を輝かせることがあった。いま、すごく楽しい。そう言ってるみたいにキラキラした目に出会うと、あたしもなんだかうれしくなった。なんだってやってあげよう。そんな気持ちになるのだ。
「…さがして、くるまの、しゃしん…」
「クルマが写ってる写真を、探してるんですね?」
あたしはフォトブックを受け取り、最初のページから順にめくっていった。ほんの八ページきりの薄いフォトブック、そこに収まっていたのは、ひとりの女の子の半生の記録だ。
乳児から幼児になり、やがて小学生になってゆく丸顔の小柄な女の子。セーラー服を着た中学生以降になると細面が際立ってきて、この子はモリサキミツコさんに違いないとわかる。でも、大人になったミツコさんの写真は少ない。二十代前半くらいに見えるのがたった一枚だけ、クルマが写っている写真はどこにもなかった。
あたしはふと思いつき、サイドテーブルの上に戻されてあったフォトスタンドを取って、裏を返した。開けてみていいですか、とミツコさんにことわってから、押さえの板を外した。ハラハラと数枚の写真がこぼれ落ちた。どれも二十代と見える若いミツコさんのポートレートだった。
かわいい、きれい、とポートレートの感想を述べていたあたしは、次の一枚に目を瞠った。ヘッドライトの形で古さが一目瞭然の、乗用車のフロント部分がど真ん中にあった。たぶん、カローラ。ミツコさんはその脇に、添え物のように立っていた。
ショートヘアに、ぴったりフィットした赤いコート。襟もとに黒っぽいファーの飾りがついている。あの夢の中で、雪原をさまようあたしが着ていた赤いベッチンコート、おしゃれな街着だからちっとも暖かくなかった、あのコートの着心地が蘇る。足もとは見えなくてもあたしの脚は、あのぴったりしたショートブーツを履いた感触を思い出している。
ミツコさんはじっとあたしを見つめていた。問いかけるように、窺い見るように。そうだった。あたしは気づく。このカローラの写真を、あたしは見たことがあった。いつだったか思い出せないけど以前、この写真はフォトスタンドの表面に出して飾られていたのだ。あたしは目にしていたのに、ちゃんと見てはいなかったらしい。
ミツコさんの唇が動いた。
「…おんなじゆめ、みたのね、ルリさんと、わたし…」
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