謀る(たばかる)

千田右永

第1話 ミツコ

 わたしはまだ、わたしのことを知っているわ。

 名前だってちゃんとわかる。モリサキミツコさん、と呼ばれたらそれはわたしのこと、だからお返事をする。はい、モリサキミツコです。なのに、わたしのお返事はだれにも届いていないみたいなのだ。

 

 係りの人たちは大体みんな、二度くらい聞き返してくれるわ。

 モリサキミツコさんでしょ?ある人は生真面目に辛抱強く。けれどもたいていの人たちは、困ったように曖昧な苦笑いを浮かべて。そんなことが何度か続くうちに、いやでも気がついた。どうやら、わたしのこの口が人様に伝わるように、ものを言うのは難しいことになってしまったのだと。


 頭の中でなら、漢字だって書けるのにね。

 森崎美都子。わたしの名前。美しい都という字が、ちょっといいでしょ。だから、忘れたくない。決して忘れないように、漢字の姿かたちをこの指先に刷り込んでおきたい。この手もやっぱり思うようには、動いてくれないけれど。


〈セントポーリアガーデン〉のプレイルームで、陽だまりの中に座っているときのわたしは、一見なにもしていないようで、実はこれをやっている。森崎美都子。わたしの名前を、漢字で書いている。まず最初に一度、頭の中でなぞってから。そうしてしっかりとイメージをつかんだら、右の膝の上にそのイメージを写してゆく。森崎美都子。わたしの名前。書き順の通りに、線をなぞる。右手の人差し指に気持ちをこめて、ゆっくりと丁寧に。


 係りの人たちは凡そみんな、俯いているわたしがうつらうつらと、居眠りしていると思ったらしい。そっと肩を揺すって、起こそうとしてくれた。いま寝ちゃったら夜に眠れなくなるでしょ、暗いお部屋で一人ぽっち、目を覚ましていなくちゃならないわ、それって寂しいよね、だからいまは寝ないでいましょうね、ミツコさん。


 ルリさんも先輩さんたちと同じように、そう言ったのだった。口調はそっくり同じ、でもひときわ明るく弾むような声で。ルリさんは口真似が上手、まるでオウムみたいに。二十五歳になったばかりというルリさんが、とっくに五十をだいぶ過ぎた副園長さんと、そっくり同じイントネーションで、わたしたちに話しかけてくれる。

 

 その声はオオルリのさえずりみたいに透き通って、よく響いた。幼い少女のようでもあって、二十五歳の大人の女性としては少々不釣り合いに甘ったるい。けれど、わたしの耳には聞き取りやすくて心地よかった。だからわたしはあのひとを、勝手にルリさんと呼んでいる。オオルリの瑠璃色はわたしの好きな色だ。わたしはわたしの係りの人を、好きでいたいと思うから。


 鮮やかな瑠璃色の羽根をきらめかせ、高らかにさえずるオオルリは、もちろんオスだと知っている。オスだけど、わたしはちっとも気にしない。だってこれはわたしのアタマの中だけのこと、わたしだけの決まり、なにが本当でどれがそうじゃないか、そんなことはもう、どっちだってかまわないのだ。


 この〈セントポーリアガーデン〉に勤める係りの人たちには、だれ一人わたしのせいで困ったりしてほしくない。だからわたしは精いっぱい、パッチリと目を開いて微笑んで見せた。ほら、ちゃんと起きていますよ、寝てなんかいないでしょ。そう言ったつもりで。


 すると思いがけず、テーブルの向こう側にいたジョイさんと目が合った。かすかに小首をかしげ、なにやらもの問いたげなまなざしだ。もっと思いがけなかったのは、ジョイさんの言ったことだ。

「ミツコさんは、ずっと起きてたみたいだけど」


 お昼に皆さんと一緒にいただいたフルーツゼリーのカップの跡が、ペタペタとこびりついたテーブルの上を、ゆるーくまぁるく拭きながら、ジョイさんはだれにともなく言った。

「ぜんぜん居眠りなんかしてなかったよ、ねえ?」

 おしまいの「ねえ?」のところで、わたしに直接語りかけたように見えたのは、気のせいだったかしら。


 実はジョイさんというのも、わたしだけが勝手に呼んでいる名前だった。〈セントポーリアガーデン〉に移り住む前のわたしは、ジョイという猫と一緒に暮らしていた。二十年もの長きに渡って、呼び馴染んだ名前なのだ。いつ見てもちっとも楽しそうじゃないあの青年を、ジョイなんて呼ぶのは、似合わないどころか多少皮肉っぽいかもしれないけど。


 でも、ジョイさんの本当のお名前を聞いたときには、もっとずっと似合わない気がした。それは遠い昔に知っていた人と同じ名前だったので、ひどく呼びにくかった。代わりの呼びやすい名前といったら、ジョイのほかには思いつかなかった。呼びたい名前、だったかも知れない。そんなわけで、あの青年はジョイさんになったのだ。


 あのとき、居眠りなんかしてなかったと言ってくれたジョイさんを、わたしは大いに見直した。それまでは、どちらかと言えば影の薄い目立たない人で、なんとなくパッとしない感じだった。その頃のジョイさんは〈セントポーリアガーデン〉に勤め始めたばかりで、係りの人たちの中では新米さんだった。


 係りのリーダーさんから細々と、注意されたり指導されたりしているところに、何度か出くわした。その都度、見てはいけない気がして目を逸らした。見なかったフリをした。たぶんそのせいで、ジョイさんはわたしにとって影の薄い人になったのだ。


 暖かい陽気の日が続き、明るい時間が長くなり始めた頃だから、四月の初旬だったと思う。花壇を埋め尽くすはずのセントポーリアは、まだ一輪も咲いていなかった。やっと雪が消えたばかりのお庭は、冬の間に脱色されたような、白茶けた枯れ草に覆われたままだった。


 眺めて楽しいものなどひとつもないのに、わたしはひねもす、その景色を眺め暮らした。雪が積もる前の枯れ草と違って、ひと冬の積雪の重みに伸された枯れ草の景色には、侘しさよりも春の予感を覚えたから。在るか無きかの、ほんのささやかな予感だけど、ひねもすじっと見つめていれば、いまにも草木の新芽がむくむくと、現れそうな気がした。


 膝の上に森崎美都子と書いたり、口の中でモリサキミツコとつぶやいたり。どちらもしていないときのわたしは、窓の外を眺めて一日を過ごした。〈セントポーリアガーデン〉のブロック塀に囲まれたお庭は、手入れをする人の出入りもまだなくて、ひっそりと静まり返っていた。


 ひっそりと静かなまま、暮れ始めたころだった。

 ブロック塀の根元に沿って右から左へ、視界を素早く横切ったものがいた。あまりに素早くて、見て取れたのは黒っぽい影だけだ。日本犬に似た姿かたちだが、尾がふさふさと太く、体長の半分ほどの長さがあった。やけに細く長い鼻先を突き出し、倒した耳と背筋と長い尾を一直線に、伏せた姿勢で疾走して行った。


「あれみた?キタキツネじゃない?」

 わたしは思わず口の中でつぶやいた。なにかしら声が出たのだろう、思いのほかすばやく、ジョイさんが窓辺に駆け寄って来た。

「あああ。キタキツネだ。やっぱり、ちょいちょい来てるんだな」

「あら。まえにもきたことあったの?」

「オレは三回見たけど、ほかにはだーれも見た人いなくてさ。だからたぶん、ミツコさんが二人目なんじゃね?」


 ジョイさんは口惜しそうに、仲間内で使うようなタメグチで言った。それはずいぶんと珍しいことだったので、わたしは少しびっくりした。

「さんかいも?まあ。ラッキーじゃない?」

「ぜーんぜん、真逆に最悪だよ。いいことなんて、なんもなかったから」

 むしろあのキタキツネのせいで、リーダーさんに睨まれる破目になったのだと、ジョイさんはボヤきながら事の次第を話してくれた。


 ひと月ほど前のこと、ジョイさんは門扉の施錠を忘れて帰った。初めてのうっかりミスだったが、運悪く、翌朝出勤して来たリーダーさんが真っ先に、無施錠に気づいた。その際、リーダーさんは敷地内で犬の糞を踏んづけもした。よりにもよって同じ朝に発覚した、だれかの不注意の結果である無施錠と忌まわしい犬の糞は、リーダーさんの中で直ちに結びついた。


 だれかとは、もちろんジョイさんにほかならなかった。リーダーさんは問答無用で決めつけ、ジョイさんにその責めを負わせた。うっかり無施錠と忌まわしい犬の糞とが、分かちがたく一体化した。怒り心頭に発したリーダーさんは、いつにも増して延々と長たらしく、つかみどころのない小言をジョイさんに垂れた。


 曰く、敷地内に野犬が入り込んだに違いないのだから、ほかにも犬の糞がないか隈なく点検して、見つけ次第始末するべしと、ジョイさんに余分な仕事を課したのだ。

 だけどさ。

 これより先、ジョイさんはいっそう声をひそめた。正真正銘の、内緒話になった。


 だけど、いまどき市内に野犬なんかいない。見たことも聞いたこともない。なにせ周辺住宅街の住民たちは、環境を守る意識が高い。たまさか迷い犬がうろついたとしても、あっという間に処理される。なので、野犬はゼロと断言できた。リーダーさんがこのタイミングで、存在するはずのない野犬を持ち出したのは、どう考えてもナンセンスだ。


 そして、ジョイさんは気づいた。リーダーさんの言う〈野犬〉とは、近隣住民たちの飼い犬のことじゃないのか。遠回しにほのめかして、オレに気づけと言っている。もしも気づかなかったら気づくまで、もっとずっと延々と長たらしく、つかみどころのない小言を垂れるつもりなのだ。


 さらに、ジョイさんは思い至った。近隣住民は平均年齢も高いので、そもそも大きな犬を飼っていない。大型犬など滅多に見なかった。通りで見かけるペット犬と言えば、ほとんどが片手に乗りそうなチビ犬ばかりだ。たまさか大きめの犬がいたとしても、柴犬サイズの中型犬がせいぜいだった。


 しかしながら、とジョイさんは顧みて思う。例の糞は、けっこうデカかったのだ。リーダーさんのナイキに踏まれて潰れた分を割り引いても、なかなかの太さがあった。ゆえに、近隣ペット犬の糞ではあり得ない。あれは、もともと犬の糞じゃなかった。そう考えたほうがよっぽど自然だった。


 そこでジョイさんの念頭にのぼったのは、それより数日前にチラッと見た、ブロック塀に沿ってお庭を駆け抜ける、生きものの影だ。あれはやっぱりキタキツネだったんだ、と確信する。やつらなら平均的な高さのブロック塀くらい、軽く飛び越えるだろう。門扉の施錠の有無なんか、まったく関係ないのだ。


 それでも念のために、ジョイさんはルリさんに訊いてみた。

「この辺でキタキツネを見たこと、あるかい?」

 ないと答えたルリさんは、他の係りの人たちにも訊いてまわった。するとただの一人も、見たという人がいなかった。この〈セントポーリアガーデン〉の近くに、キタキツネなんかいるはずないでしょ。概ねそれが、係りの人たちの意見だった。

 

「昨日の夕方のニュースでキタキツネの話をやってたけど」

 そう言って教えてくれたのは、たまたま居合わせたランチデリバリーのパートさんだった。昨今、市街地のそこかしこで、キタキツネが目撃されているというのだ。

 キタキツネたちは川原の茂みを伝ってひそやかに移動し、突然住宅街に現れては人々をびっくりさせる。しかしまあ、ヒグマほどの危険性はなく逃げ足も速いので、大して話題にはならないが、決して珍しいことじゃないのだ、等々。


 ランチデリバリーのパートさんはさらに、個人の感想としてつけ加えた。

「ここの斜め向かいのお宅にも、広いお庭があってたくさん木が植わってるでしょ。エサ台も設えてあるから、ハトやらスズメやらいろんな小鳥たちが、毎日いっぱい集まってるのよ。だからね、もしもキタキツネがこの辺にいたなら、きっとあの小鳥たちを狙って、引き寄せられて来たんだと思うのよ」


 この話を聞いたジョイさんは、大いに気をよくした。ランチデリバリーのパートさんは、ジョイさんたったひとりだけの〈キタキツネ目撃譚〉を、あっさり裏付けてくれたのだ。

「デタラメでも気のせいでもないって、わかっただろ?」

 ジョイさんは心もち胸を張って、ルリさんに言ったものだ。

    

「うん、わかったけどね」

 ルリさんは、少しばかり言いにくそうに続けた。

「それがほんとにキタキツネのウンチだとしたら、かえってヤバくない?あれってエキノコックスだかナンだか、人にもうつる寄生虫がいるんじゃなかったっけ?」


 そう言ってジョイさんの手を見たルリさんの目つきは、いかにも冷ややかだった。ほんの一瞬だったが、とんでもなく不潔で忌まわしいものを見るような、よそよそしさが過った。

 ぞっとしたんだ、とジョイさんはさらに声をひそめた。自分の指先に恐ろしい寄生虫がくっついている気がして、思わずジーンズの尻に擦りつけ、拭い取ろうとした。自分でもバカみたいだと思ったが、ルリさんの目つきはより一層冷ややかになった。その印象は思いのほか深く鋭く、ジョイさんの心の奥底に突き刺さって痕を残した。


 実際に、キタキツネの糞からエキノコックスに罹ったという人を、わたしは知っていただろうか。いままでに、たった一人でも。アタマをふり絞って考えてみたが、思い出せない。わたしのこれまでの人生がちょっとばかり長すぎたせいで、すっかり忘れてしまったのかしら。それともほんとうに、エキノコックスに罹った人を、一人も知らなかったのか。実のところ、定かではなかったけれど、ジョイさんを安心させてあげたいと思ったことは、確かだった。


「だいじょうぶよ。ウンチ、じかにさわったり、してないでしょ」

「そりゃそうだけど。ミツコさんは、キモイとか思わないの?オレのこと」

 たとえ思ったとしても、わたしの立場ではどうしようもない、とは言えなかった。

「だって。それからなんかいも、たべさせてもらったり、ささえてもらったり、したじゃないの」

「そういえば、そうだけどね」 

「しんようしてるから、へいき。でなきゃ、ここでこうしては、いられないでしょ」


 ジョイさんは照れたようにニンマリした。それから気づいて、あっと声を上げた。

「ミツコさん、しゃべってるよ」

「あら?そうね。ちゃんと、きこえてた?」

「聞こえてるし、通じてるよ。あれ?オレたちずっと、ふつうに会話してたよね?」


 わたしはジョイさんの目を見上げてうなずいた。そうよね。けれども、ついさっきまでのようには、言葉が出ないのだった。わたしの〈話すチカラ〉は不意に甦り、なんとも呆気なく消え去った。まるで、お庭のブロック塀の陰に沿って、あれよと言う間に走り去った、あのキタキツネのように。


 束の間わたしと会話したことを、ジョイさんは日誌に書かないでおこうと決めた。実際は散々迷った挙げ句一人言のように、『日誌に書かんでおこうかな』と、つぶやいたのだ。〈セントポーリアガーデン〉で暮らすわたしたちの日常は、係りの人たちの手によって、日誌に細かく記録される。記録すべき出来事や変化がひとつもなかった日は、記録すべき出来事や変化がひとつもなかったと、そのまま記される。それが、決まりだった。


 例えば、ほとんど話せなかった森崎美都子が、一言二言どころかひとしきり、職員と意味のあるやりとりを交わしたことは、是非とも記録されなくてはならない、それも特筆すべき事項として。もしも、ジョイさんがその記録を怠ったとリーダーさんに知れたら、少々厄介な事態になるかも知れない。もしも、知れてしまったら。


 ジョイさんが日誌の記入を躊躇ったのは、事の発端がキタキツネであったせいだ。自分と森崎美都子以外、だれにも見られていないキタキツネ。そもそも存在したかどうかが危ぶまれ、すべては仮定の前置きを要する話題の主だった。


 例えば、『森崎美都子とキタキツネを見たことについて会話した』などと日誌に記入した後、キタキツネは決して目撃されず、森崎美都子の〈話すチカラ〉も一向に戻らない、といった事態に陥れば、ジョイさんの評価は一体どうなるのだろう。

 

 控えめに言っても、かなりまずいことになるんじゃないか。ジョイさんの瞳の奥にあって〈考えるチカラ〉をつかさどる器官が大わらわで働き、そのような結論に至った様子を、わたしは見たような気がした。


「ミツコさんはだれにも言わないよね?」

 ジョイさんはまたつぶやいた。

「つうか、言えないんだよな」

 一人合点するジョイさんと一緒に、わたしも大きく頷いたのだった。


 




   











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