8
『抑圧』されていた記憶が、頭の中ではじけた。
*
たぶん、五歳の夏だ。
幸子は、血に染まった自分の手のひらを見下ろして悲鳴をこらえていた。
〝わたしじゃないもん……痛いのは、わたしじゃないもん……よその子の血だもん……〟
古いアパートのような部屋だった。開け放された玄関から、近所の大人たちが顔をのぞかせている。
血相を変えた大介が、幸子を抱きしめる。非番の同僚の通報で駆けつけた大介は、血まみれの包丁を握っている。
床に倒れて泣き崩れる女がいる。大介が殴り倒した、幸子の母親――。
大介は、女に向かって叫んだ。
「いますぐ出ていけ! 二度と幸子の前に現れるな!」
女は顔を上げた。
幸子の目に、その表情がはっきりと写る。目がつり上がっていた。恐いお母さんだ。幸子が大好きなお母さんの中から時々出てくる、恐いお母さん――。
恐いお母さんは大介に言った。
「何もかも私のせい? 私だけが悪いの? あなたは仕事ばかりで、いつヤクザに殺されるか分からない。死ぬほどの怪我をしたのに……まだ直ってもいないのに……現場へ出ていく。なぜ? なぜもっと休んでいられないの? 仕事を変われないの? 私は幸子と二人で、怯えてばかり。もう壊れそう!」
「だから、娘に暴力を振るっても許されるのか⁉」
「暴力じゃない! あなたが何も面倒を見ないから、私が躾ているのよ!」
「娘に包丁を突き刺して、躾だと⁉」
恐いお母さんは、突然優しい母親の目に戻って叫んだ。
「やめられないのよ!」
大介がうなずく。
「もっと早く気づくべきだった。幸子にこんなことをしていたとは……。警察には、精神病の専門家もいるのに……」
「いや! 警察の人はいや! これ以上警察の人とはつきあいたくない!」
「なぜだ……みんな、いい奥さんだと言ってくれていたのに……」
「出たい……官舎なんて嫌い……みんな、大嫌い……」
玄関から男の声がかかる。
「近田、早く! 救急車が着くぞ!」
大介は振り返ってうなずいてから、母親に命じた。
「望み通り、出ていけ! 二度と戻るな!」
優しい母親は、再び泣き崩れた。
大介は玄関で待っていた同僚に、赤く染まった包丁を渡した。
「事故として処理してくれ」
「当然だ」
大介は救急車に向かって小走りに走る
幸子は大介にしがみついて、つぶやいた。
「父さん……手が痛い。なんで痛いの?」
「覚えてないのか?」
「恐い母さんが来た。その後は、いつも痛いの……」
「思い出さないでいい。恐い母さんは、もう来ないから」
「お母さんは? 優しいお母さんも来ないの?」
「うん。我慢しような。父さんが一緒だから。これからは、必ずおまえを守るから」
*
近田大介は自由になる左腕で、崩れそうになる幸子の腰を抱き止めた。
幸子が、大介の耳元でつぶやく。大介に聞こえるのがやっとの、かすれた声――。
「母さんだったんだ……私の手に包丁を突き刺して……」
大介も幸子にささやいた。
「まさか……思い出したのか? 今?」
幸子は大介の肩に顔を押し当てたままで答えた。
「そう……全部……。箱が開いたみたい。私の泣き声で官舎の人たちが駆けつけて……父さんが慌てて戻ってきて……私、いつも殴られていた……恐いお母さんに……」
「今までずっと忘れていたのに……?」
「父さんは、私を守る、って……」
「いいんだ。辛いことは思い出すな。おまえは、今のままでいい。父さんがついている。一人で歩けるまで、ずっと側についている。だから、安心しろ。今しばらく、私の元にいろ。休め。休んで、愛されることを覚えろ。おまえは、おまえのままでいい。いつかきっと、そのままのおまえを愛してくれる人が現われる。その時を信じて、待つんだ。そして、それまでは、父さんの娘でいてくれ」
そして、冷静さを取り戻した幸子は気づいた。大介は『産科で妊娠を調べ、浩一に襲わせた』と言った。しかし幸子は、産婦人科へは行っていない。そもそも、あの時まで妊娠に気づいてさえいなかったのだ。
全ては、洋を納得させるための、咄嗟の嘘だったのだ。
娘を守り抜くために、自らをおとしめる嘘――。
幸子は不意に涙をあふれさせた。
「父さん……」
「大丈夫だ。私はもう離れない」
「父さん……ありがとう……」
大介は幸子の身体をゆっくりと離した。
「立てるか?」
幸子は、ナイフが刺さったままの大介の右手を見下ろす。
「大丈夫……。でも、父さん……手の怪我……」
「車に救急箱が用意してある。こんな小さな刃物、止血さえすれば傷はすぐ塞がる」
「私……ごめんね……」
幸子の目にさらに涙がにじむ。
「いいんだ。全て、私の責任だ」
大介は振り返って洋に言った。
「私たちは行く。三枝も連れていこう。君たちは、さっき言った通りにしてくれ。そうすれば、全ては納まるべき場所に納まる」
大介はかすかに顔をしかめながら右手からナイフを抜き取ると、壁に向かって投げつけた。血まみれのナイフが丸太に突き刺さって震える。
幸子はどこからかハンカチを取り出していた。黙って大介の手のひらに巻きつけ、その手をそっと両手で包む。
大介は言った。
「ありがとう」
幸子が大介を見つめる。
「父さん……」
大介は幸子に微笑みかけた。
「行こうか」
「はい」
と、唐突に浩一が立ち上がった。思い詰めた表情で、じっと大介を見つめている。その口調は、大人のまねをする幼稚園児のようにたどたどしい。
「あの……つかぬことをお伺いいたしますが、あなたは私のお父さんでしょうか?」
大介は真剣な目で応えた。
「そうではない。でも、探してあげよう。幸子と一緒に、な。脚の傷も、手当てしてやる」
浩一は微笑んだ。
「ありがとうございます」
幸子は、我が子を抱きしめる母親の気持ちが分かったような気がした。浩一にささやきかける。
「辛かったのね……一緒に行こうね」
浩一は素直にうなずいた。
大介は幸子の肩を支えながら、ドアへと向かった。その後を、足を引きずる浩一が追う。
主人に従う老犬のように――。
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