『抑圧』されていた記憶が、頭の中ではじけた。


         *


 たぶん、五歳の夏だ。

 幸子は、血に染まった自分の手のひらを見下ろして悲鳴をこらえていた。

〝わたしじゃないもん……痛いのは、わたしじゃないもん……よその子の血だもん……〟

 古いアパートのような部屋だった。開け放された玄関から、近所の大人たちが顔をのぞかせている。

 血相を変えた大介が、幸子を抱きしめる。非番の同僚の通報で駆けつけた大介は、血まみれの包丁を握っている。

 床に倒れて泣き崩れる女がいる。大介が殴り倒した、幸子の母親――。

 大介は、女に向かって叫んだ。

「いますぐ出ていけ! 二度と幸子の前に現れるな!」

 女は顔を上げた。

 幸子の目に、その表情がはっきりと写る。目がつり上がっていた。恐いお母さんだ。幸子が大好きなお母さんの中から時々出てくる、恐いお母さん――。

 恐いお母さんは大介に言った。

「何もかも私のせい? 私だけが悪いの? あなたは仕事ばかりで、いつヤクザに殺されるか分からない。死ぬほどの怪我をしたのに……まだ直ってもいないのに……現場へ出ていく。なぜ? なぜもっと休んでいられないの? 仕事を変われないの? 私は幸子と二人で、怯えてばかり。もう壊れそう!」

「だから、娘に暴力を振るっても許されるのか⁉」

「暴力じゃない! あなたが何も面倒を見ないから、私が躾ているのよ!」

「娘に包丁を突き刺して、躾だと⁉」

 恐いお母さんは、突然優しい母親の目に戻って叫んだ。

「やめられないのよ!」

 大介がうなずく。

「もっと早く気づくべきだった。幸子にこんなことをしていたとは……。警察には、精神病の専門家もいるのに……」

「いや! 警察の人はいや! これ以上警察の人とはつきあいたくない!」

「なぜだ……みんな、いい奥さんだと言ってくれていたのに……」

「出たい……官舎なんて嫌い……みんな、大嫌い……」

 玄関から男の声がかかる。

「近田、早く! 救急車が着くぞ!」

 大介は振り返ってうなずいてから、母親に命じた。

「望み通り、出ていけ! 二度と戻るな!」

 優しい母親は、再び泣き崩れた。

 大介は玄関で待っていた同僚に、赤く染まった包丁を渡した。

「事故として処理してくれ」

「当然だ」

 大介は救急車に向かって小走りに走る

 幸子は大介にしがみついて、つぶやいた。

「父さん……手が痛い。なんで痛いの?」

「覚えてないのか?」

「恐い母さんが来た。その後は、いつも痛いの……」

「思い出さないでいい。恐い母さんは、もう来ないから」

「お母さんは? 優しいお母さんも来ないの?」

「うん。我慢しような。父さんが一緒だから。これからは、必ずおまえを守るから」


         *


 近田大介は自由になる左腕で、崩れそうになる幸子の腰を抱き止めた。

 幸子が、大介の耳元でつぶやく。大介に聞こえるのがやっとの、かすれた声――。

「母さんだったんだ……私の手に包丁を突き刺して……」

 大介も幸子にささやいた。

「まさか……思い出したのか? 今?」

 幸子は大介の肩に顔を押し当てたままで答えた。

「そう……全部……。箱が開いたみたい。私の泣き声で官舎の人たちが駆けつけて……父さんが慌てて戻ってきて……私、いつも殴られていた……恐いお母さんに……」

「今までずっと忘れていたのに……?」

「父さんは、私を守る、って……」

「いいんだ。辛いことは思い出すな。おまえは、今のままでいい。父さんがついている。一人で歩けるまで、ずっと側についている。だから、安心しろ。今しばらく、私の元にいろ。休め。休んで、愛されることを覚えろ。おまえは、おまえのままでいい。いつかきっと、そのままのおまえを愛してくれる人が現われる。その時を信じて、待つんだ。そして、それまでは、父さんの娘でいてくれ」

 そして、冷静さを取り戻した幸子は気づいた。大介は『産科で妊娠を調べ、浩一に襲わせた』と言った。しかし幸子は、産婦人科へは行っていない。そもそも、あの時まで妊娠に気づいてさえいなかったのだ。

 全ては、洋を納得させるための、咄嗟の嘘だったのだ。

 娘を守り抜くために、自らをおとしめる嘘――。

 幸子は不意に涙をあふれさせた。

「父さん……」

「大丈夫だ。私はもう離れない」

「父さん……ありがとう……」

 大介は幸子の身体をゆっくりと離した。

「立てるか?」

 幸子は、ナイフが刺さったままの大介の右手を見下ろす。

「大丈夫……。でも、父さん……手の怪我……」

「車に救急箱が用意してある。こんな小さな刃物、止血さえすれば傷はすぐ塞がる」

「私……ごめんね……」

 幸子の目にさらに涙がにじむ。

「いいんだ。全て、私の責任だ」

 大介は振り返って洋に言った。

「私たちは行く。三枝も連れていこう。君たちは、さっき言った通りにしてくれ。そうすれば、全ては納まるべき場所に納まる」

 大介はかすかに顔をしかめながら右手からナイフを抜き取ると、壁に向かって投げつけた。血まみれのナイフが丸太に突き刺さって震える。

 幸子はどこからかハンカチを取り出していた。黙って大介の手のひらに巻きつけ、その手をそっと両手で包む。

 大介は言った。

「ありがとう」

 幸子が大介を見つめる。

「父さん……」

 大介は幸子に微笑みかけた。

「行こうか」

「はい」

 と、唐突に浩一が立ち上がった。思い詰めた表情で、じっと大介を見つめている。その口調は、大人のまねをする幼稚園児のようにたどたどしい。

「あの……つかぬことをお伺いいたしますが、あなたは私のお父さんでしょうか?」

 大介は真剣な目で応えた。

「そうではない。でも、探してあげよう。幸子と一緒に、な。脚の傷も、手当てしてやる」

 浩一は微笑んだ。

「ありがとうございます」

 幸子は、我が子を抱きしめる母親の気持ちが分かったような気がした。浩一にささやきかける。

「辛かったのね……一緒に行こうね」

 浩一は素直にうなずいた。

 大介は幸子の肩を支えながら、ドアへと向かった。その後を、足を引きずる浩一が追う。

 主人に従う老犬のように――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る