7
西城洋は内心で叫んだ。
〝まずい、麻酔が切れたか⁉〟
幸子は椅子から転げ落ちると、テーブルに手をかけて、ふらふらと立ち上がった。目の前に、洋が置いたナイフがある。
幸子はナイフを取った。両手で握りしめ、大介に向かって突き出す。身体が、酔っているように揺らぐ。
「バカ……父さんのバカ……どうしてそんなことを……大好きだったのに……」
大介は一瞬驚いた表情を見せたが、その声は穏やかだった。生徒に語りかける小学校教師のように、ゆっくりと言った。
「落ち着け。今は何も言うな。私を信じろ」
「みんな聞いたのよ! 父さんが私に何をしたのか、母さんに何をしたのか、みんな聞いたのよ! 信じろって、何⁉」
洋がつぶやく。
「幸子、やめるんだ。君はお父さんと一緒に行け。そうすれば、みんな新しい暮らしを始められる」
〝今さら暴れても無意味だ。せっかくまとまった話をぶちこわすな!〟
幸子の手のナイフが、洋に向かう。
「新しい暮らしって、何⁉ 私はどうなるの? 私の気持ちはどうなるの? 寄ってたかってメチャクチャにしておいて、新しい暮らしですって⁉ 何なのよ、それ⁉」
大介が言った。
「落ち着け!」
幸子が絶叫する。
「いい加減にしてよ!」
その叫びがきっかけだった。床に倒れていた浩一が意識を取り戻す――。
洋は、その気配に振り返った。
浩一は三つ並べられた椅子に目を向けた。美樹が寝かされている。
そして浩一は機敏に動いた。太ももの痛みさえ感じない様子で、美樹に向かって突進する。
「母さん! 今、助ける!」
浩一は美樹の身体に飛びついた。勢いで椅子が倒れ、美樹は床に投げ出された。
洋は、四つん這いになった浩一に銃を向け、命じた。
「美樹から離れろ!」
浩一は洋に向き直り、這ったまま牙をむくドーベルマンのように吠えた。
「母さんに何をする!」
「離れろ! 撃ち殺すぞ!」
美樹も床に落ちた衝撃で目を開いた。だが、ぼんやりとした目は焦点を結んでいない。睡眠導入剤の効果だ。自分がどこにいて、何をしているのか理解できないようだ。
それでも、目の前に浩一と洋がいることは理解したようだ。恐怖が目を見開かせる。意識を、一瞬で覚醒させた。
美樹はバネ仕掛けの人形のように上体をはね上げ、金切り声を上げた。
「いや! たすけて!」
浩一が振り返る。
「母さん、僕だよ! 助けにきたよ!」
浩一と目を合わせた美樹は、顔をそむけながら洋に命じる。
「助けて! こいつを殺して!」
洋は銃を天井に向けた。引き金を引く。轟音が室内の空気を揺るがす。
全員が息を止め、凍りついた。
最初に言葉を発したのは、洋が銃を握っていることを知った美樹だった。
「撃ち殺して!」
浩一は美樹を見つめて、首を傾けた。
「母さん? なんでそんなこと言うの?」
美樹の目には、涙がにじみだしている。
「殺して……こいつを殺して……この化け物を殺して……」
浩一は這ったまま美樹ににじり寄り、手をのばそうとする。
「母さん……」
美樹は床に尻餅をついたままあとずさり、背中を壁につけた。そのまま膝を抱えて顔を埋め、泣きだす。
「なんで……? なんで私がこんな目に合うの……何もしていないのに……ずっと、いい子にしていたのに……なんでこんな奴につきまとわれるの……?」
二人を見守る洋は、ぴくりとも動かない。
〝いいぞ、三枝。美樹を怯えさせろ。そして、心の底から僕を頼らせろ〟
浩一はさらにゆっくりと美樹の近くへ這っていく。伸ばした指先が髪に触れる。
「母さん……」
美樹は顔を上げ、浩一の手をはねのけて叫んだ。
「あんたの母親なんかじゃないわ! いい加減に目を覚まして!」
浩一は信じられない様子で美樹を見つめ、硬直する。
「だって……」
ナイフを握りしめた幸子は、身体を堅くして立ちつくしていた。自分が愛した男が見せた正体を、呆然と見つめる。
だが大介は、場慣れた物腰で浩一に近づいていく。洋が握る銃は無視していた。
洋が目を向ける。
〝おっさん、何をやらかす気だ……?〟
大介は、浩一の背後に立った。屈んで浩一の脇の下に手を回し、穏やかな動きからは想像もできない力強さで美樹から引き離す。
そして、浩一の耳元にささやきかけた。
「もう分かったろう? 君は勘違いをしていたんだ。とても大きな勘違いを、な」
浩一は抵抗するでもなく、大介に引きずられていく。
「だって……だって……母さんなんだもの……」
「君の母さんは優しかったんだろう?」
急に振り返った浩一は、大介に向かって目を剥く。
「当たり前だ! 僕の母さんは、世界一優しい母さんだ!」
大介はうなずく。
「だから、あの女は君の母さんじゃない。あんな女が、君の母さんであるわけがない」
浩一は虚を突かれたように目を丸くした。
「そういえば……ちっとも優しくない……」
大介は浩一に笑いかける。
「だから、君の母さんは他にいる」
「他に……? どこに……?」
「探してやるよ。一緒に行こう」
浩一は静かにうなずいた。
「うん」
「そっちに座って待っていなさい」
「うん」
浩一は従順なペットのように従った。一人でテーブルの端まで行くと、椅子を引きだして腰かける。そして、かすかに涙をにじませながら両手を握りしめた。嗚咽がもれる。
洋は腹の中でつぶやいた。
〝負けたよ、おっさん。経験豊富な刑事と張り合おうとも思っちゃいなかったけどね〟
美樹がじっと大介をにらんでいた。その目には、激しい怒りがくすぶっている。
視線に気づいた大介が美樹を見下ろす。
「なんだね?」
「なによ、あんな女って。バカにする気?」
大介は鼻の先で美樹の言葉を笑い飛ばしただけだった。
美樹は洋に向かって金切り声を上げた。
「あなた、なんてことを言わせておくの⁉ 早く助けて! 浩一を撃ち殺して!」
洋は首を横に振った。
〝手綱を締める頃かな〟
「僕は人殺しじゃない。犯罪者にはなりたくない」
「私を助けるためよ!」
「君はそこでもうしばらく休んでいなさい。頭が冷えたら、ゆっくり話そう」
「なによその言い草! 気取ってるんじゃないわよ! お父さんに言いつけるわよ!」
大介が、洋に同情するようにつぶやく。
「これが君の選んだ人生か?」
洋は肩をすくめる。
「僕の人生です。口出しはご無用に」
美樹が叫ぶ。
「なにさ、私をのけ者にして! 早く殺しなさいよ!」
洋は大介を見つめた。
「前途多難、ですけどね」
「なによ、みんな……のけ者にして……」
美樹がはっと身を震わせた。声を出したのは、美樹ではない。
洋と大介が同時に幸子を見た。
幸子が動いていた。自分の喉にナイフを突きつけている。
幸子は再びつぶやいた。
「みんな、私をのけ者にして……私なんか、操り人形でさえない……ただの置物……生きている意味もない……生まれてきたことが間違いだったのよ……」
大介がゆっくりと幸子に近づく。
「よせ。ナイフを渡せ」
幸子は泣いていた。
「命令しないで……あんたなんか、父さんじゃない……」
「私は父親だ。言うことを聞け!」
「いやよ……私、死ぬのよ……生きている意味なんかないもの……」
大介はいきなり怒りをあらわにした。
「無意味な命などない!」
幸子は大粒の涙を流しながら笑った。
「私がそうよ! みんな、私を利用するだけ。誰からも愛されない。どんなに人を愛したって、私はのけ者。みんなが踏み台にしていく。こんな命、いらない!」
幸子に充分に接近していた大介は、いきなり平手で幸子の頬を叩いた。
「ばかもの!」
幸子の喉からナイフが外れる。そのナイフを取り上げようと、大介が手をのばす。
幸子が一瞬早かった。
ナイフの切っ先は、大介に向けられた。
「命令しないで! 私を独り占めだなんて……信じていたのに……父さんだけは、信じていたのに……」
「だから、これからも信じろ」
幸子はじっと大介を見返した。
「うそ」
「嘘ではない」
幸子の涙は、止まっていた。
「うそ! いま、自分でそう言ったじゃない!」
「何を?」
「どうして母さんがいなくなったのか……父さんが追い出したって、言ったじゃない! 病院で先生が言っていた……。私は虐待されていたって。母さんが暴力を振るわれていたって。あなたでしょう⁉ いじめて追い出したんでしょう? 私は、ずっと辛い思いをしてきた。仲間はずれにされてきた。なのに、私を独り占めするためですって? そんなひどい話って……だから、忘れようとしたんだわ。あなたの暴力を……いじめられているお母さんの記憶を、心の底に閉じこめたんだわ……」
大介が眉間にしわを寄せる。
「何か思いだしたのか? ずっと記憶がないと言っていたのに……」
幸子は叫んだ。
「思い出す必要なんてない! あなたが言ったんだもの! あなたが私の人生をこんなに惨めにしたんだもの!」
「落ち着け。父さんを信じろ」
「いや! これ以上近づけば、刺します」
大介は近づいた。手のひらを上げて、幸子のナイフをつかもうとする。
幸子は引かなかった。
ナイフの先端が大介の手のひらに刺さった。鮮血がにじみ、したたり落ちる。大介はしかし、声一つ上げずに、さらに幸子に近づいた。
幸子も引かない。
ナイフが大介の手を貫き、手の甲から切っ先を現わす。
それでも大介は無言だった。
幸子の目が、ナイフに貫かれた手のひらに止まった。唐突に、幸子の身体から力が抜ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます