西城洋は内心で叫んだ。

〝まずい、麻酔が切れたか⁉〟

 幸子は椅子から転げ落ちると、テーブルに手をかけて、ふらふらと立ち上がった。目の前に、洋が置いたナイフがある。

 幸子はナイフを取った。両手で握りしめ、大介に向かって突き出す。身体が、酔っているように揺らぐ。

「バカ……父さんのバカ……どうしてそんなことを……大好きだったのに……」

 大介は一瞬驚いた表情を見せたが、その声は穏やかだった。生徒に語りかける小学校教師のように、ゆっくりと言った。

「落ち着け。今は何も言うな。私を信じろ」

「みんな聞いたのよ! 父さんが私に何をしたのか、母さんに何をしたのか、みんな聞いたのよ! 信じろって、何⁉」

 洋がつぶやく。

「幸子、やめるんだ。君はお父さんと一緒に行け。そうすれば、みんな新しい暮らしを始められる」

〝今さら暴れても無意味だ。せっかくまとまった話をぶちこわすな!〟

 幸子の手のナイフが、洋に向かう。

「新しい暮らしって、何⁉ 私はどうなるの? 私の気持ちはどうなるの? 寄ってたかってメチャクチャにしておいて、新しい暮らしですって⁉ 何なのよ、それ⁉」

 大介が言った。

「落ち着け!」

 幸子が絶叫する。

「いい加減にしてよ!」

 その叫びがきっかけだった。床に倒れていた浩一が意識を取り戻す――。

 洋は、その気配に振り返った。

 浩一は三つ並べられた椅子に目を向けた。美樹が寝かされている。

 そして浩一は機敏に動いた。太ももの痛みさえ感じない様子で、美樹に向かって突進する。

「母さん! 今、助ける!」

 浩一は美樹の身体に飛びついた。勢いで椅子が倒れ、美樹は床に投げ出された。

 洋は、四つん這いになった浩一に銃を向け、命じた。

「美樹から離れろ!」

 浩一は洋に向き直り、這ったまま牙をむくドーベルマンのように吠えた。

「母さんに何をする!」

「離れろ! 撃ち殺すぞ!」

 美樹も床に落ちた衝撃で目を開いた。だが、ぼんやりとした目は焦点を結んでいない。睡眠導入剤の効果だ。自分がどこにいて、何をしているのか理解できないようだ。

 それでも、目の前に浩一と洋がいることは理解したようだ。恐怖が目を見開かせる。意識を、一瞬で覚醒させた。

 美樹はバネ仕掛けの人形のように上体をはね上げ、金切り声を上げた。

「いや! たすけて!」

 浩一が振り返る。

「母さん、僕だよ! 助けにきたよ!」

 浩一と目を合わせた美樹は、顔をそむけながら洋に命じる。

「助けて! こいつを殺して!」

 洋は銃を天井に向けた。引き金を引く。轟音が室内の空気を揺るがす。

 全員が息を止め、凍りついた。

 最初に言葉を発したのは、洋が銃を握っていることを知った美樹だった。

「撃ち殺して!」

 浩一は美樹を見つめて、首を傾けた。

「母さん? なんでそんなこと言うの?」

 美樹の目には、涙がにじみだしている。

「殺して……こいつを殺して……この化け物を殺して……」

 浩一は這ったまま美樹ににじり寄り、手をのばそうとする。

「母さん……」

 美樹は床に尻餅をついたままあとずさり、背中を壁につけた。そのまま膝を抱えて顔を埋め、泣きだす。

「なんで……? なんで私がこんな目に合うの……何もしていないのに……ずっと、いい子にしていたのに……なんでこんな奴につきまとわれるの……?」

 二人を見守る洋は、ぴくりとも動かない。

〝いいぞ、三枝。美樹を怯えさせろ。そして、心の底から僕を頼らせろ〟

 浩一はさらにゆっくりと美樹の近くへ這っていく。伸ばした指先が髪に触れる。

「母さん……」

 美樹は顔を上げ、浩一の手をはねのけて叫んだ。

「あんたの母親なんかじゃないわ! いい加減に目を覚まして!」

 浩一は信じられない様子で美樹を見つめ、硬直する。

「だって……」

 ナイフを握りしめた幸子は、身体を堅くして立ちつくしていた。自分が愛した男が見せた正体を、呆然と見つめる。

 だが大介は、場慣れた物腰で浩一に近づいていく。洋が握る銃は無視していた。

 洋が目を向ける。

〝おっさん、何をやらかす気だ……?〟

 大介は、浩一の背後に立った。屈んで浩一の脇の下に手を回し、穏やかな動きからは想像もできない力強さで美樹から引き離す。

 そして、浩一の耳元にささやきかけた。

「もう分かったろう? 君は勘違いをしていたんだ。とても大きな勘違いを、な」

 浩一は抵抗するでもなく、大介に引きずられていく。

「だって……だって……母さんなんだもの……」

「君の母さんは優しかったんだろう?」

 急に振り返った浩一は、大介に向かって目を剥く。

「当たり前だ! 僕の母さんは、世界一優しい母さんだ!」

 大介はうなずく。

「だから、あの女は君の母さんじゃない。あんな女が、君の母さんであるわけがない」

 浩一は虚を突かれたように目を丸くした。

「そういえば……ちっとも優しくない……」

 大介は浩一に笑いかける。

「だから、君の母さんは他にいる」

「他に……? どこに……?」

「探してやるよ。一緒に行こう」

 浩一は静かにうなずいた。

「うん」

「そっちに座って待っていなさい」

「うん」

 浩一は従順なペットのように従った。一人でテーブルの端まで行くと、椅子を引きだして腰かける。そして、かすかに涙をにじませながら両手を握りしめた。嗚咽がもれる。

 洋は腹の中でつぶやいた。

〝負けたよ、おっさん。経験豊富な刑事と張り合おうとも思っちゃいなかったけどね〟

 美樹がじっと大介をにらんでいた。その目には、激しい怒りがくすぶっている。

 視線に気づいた大介が美樹を見下ろす。

「なんだね?」

「なによ、あんな女って。バカにする気?」

 大介は鼻の先で美樹の言葉を笑い飛ばしただけだった。

 美樹は洋に向かって金切り声を上げた。

「あなた、なんてことを言わせておくの⁉ 早く助けて! 浩一を撃ち殺して!」

 洋は首を横に振った。

〝手綱を締める頃かな〟

「僕は人殺しじゃない。犯罪者にはなりたくない」

「私を助けるためよ!」

「君はそこでもうしばらく休んでいなさい。頭が冷えたら、ゆっくり話そう」

「なによその言い草! 気取ってるんじゃないわよ! お父さんに言いつけるわよ!」

 大介が、洋に同情するようにつぶやく。

「これが君の選んだ人生か?」

 洋は肩をすくめる。

「僕の人生です。口出しはご無用に」

 美樹が叫ぶ。

「なにさ、私をのけ者にして! 早く殺しなさいよ!」

 洋は大介を見つめた。

「前途多難、ですけどね」

「なによ、みんな……のけ者にして……」

 美樹がはっと身を震わせた。声を出したのは、美樹ではない。

 洋と大介が同時に幸子を見た。

 幸子が動いていた。自分の喉にナイフを突きつけている。

 幸子は再びつぶやいた。

「みんな、私をのけ者にして……私なんか、操り人形でさえない……ただの置物……生きている意味もない……生まれてきたことが間違いだったのよ……」

 大介がゆっくりと幸子に近づく。

「よせ。ナイフを渡せ」

 幸子は泣いていた。

「命令しないで……あんたなんか、父さんじゃない……」

「私は父親だ。言うことを聞け!」

「いやよ……私、死ぬのよ……生きている意味なんかないもの……」

 大介はいきなり怒りをあらわにした。

「無意味な命などない!」

 幸子は大粒の涙を流しながら笑った。

「私がそうよ! みんな、私を利用するだけ。誰からも愛されない。どんなに人を愛したって、私はのけ者。みんなが踏み台にしていく。こんな命、いらない!」

 幸子に充分に接近していた大介は、いきなり平手で幸子の頬を叩いた。

「ばかもの!」

 幸子の喉からナイフが外れる。そのナイフを取り上げようと、大介が手をのばす。

 幸子が一瞬早かった。

 ナイフの切っ先は、大介に向けられた。

「命令しないで! 私を独り占めだなんて……信じていたのに……父さんだけは、信じていたのに……」

「だから、これからも信じろ」

 幸子はじっと大介を見返した。

「うそ」

「嘘ではない」

 幸子の涙は、止まっていた。

「うそ! いま、自分でそう言ったじゃない!」

「何を?」

「どうして母さんがいなくなったのか……父さんが追い出したって、言ったじゃない! 病院で先生が言っていた……。私は虐待されていたって。母さんが暴力を振るわれていたって。あなたでしょう⁉ いじめて追い出したんでしょう? 私は、ずっと辛い思いをしてきた。仲間はずれにされてきた。なのに、私を独り占めするためですって? そんなひどい話って……だから、忘れようとしたんだわ。あなたの暴力を……いじめられているお母さんの記憶を、心の底に閉じこめたんだわ……」

 大介が眉間にしわを寄せる。

「何か思いだしたのか? ずっと記憶がないと言っていたのに……」

 幸子は叫んだ。

「思い出す必要なんてない! あなたが言ったんだもの! あなたが私の人生をこんなに惨めにしたんだもの!」

「落ち着け。父さんを信じろ」

「いや! これ以上近づけば、刺します」

 大介は近づいた。手のひらを上げて、幸子のナイフをつかもうとする。

 幸子は引かなかった。

 ナイフの先端が大介の手のひらに刺さった。鮮血がにじみ、したたり落ちる。大介はしかし、声一つ上げずに、さらに幸子に近づいた。

 幸子も引かない。

 ナイフが大介の手を貫き、手の甲から切っ先を現わす。

 それでも大介は無言だった。

 幸子の目が、ナイフに貫かれた手のひらに止まった。唐突に、幸子の身体から力が抜ける。

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