近田大介は、後部座席に窮屈そうに寝かされていた幸子を助け出した。

 肩に担いでリビングへ戻る。片手でテーブルのまわりの椅子を三つ並べると、意識を失ったままの幸子を横たえた。幸子の身体を包んでいた毛布は洋が用意したものだ。

 大介は改めて幸子の額の傷を調べた。

 前髪の生え際に張られた大判のバンドエイドをそっとはがす。出血はないが、赤黒く変色した皮膚が盛り上がっている。生命に関わる傷ではないことは、経験で分かった。

 洋も、ぐったりと眠る美樹を両腕で抱いて階段を下りてきた。銃をポケットに忍ばせた大介を意識しながら、足を使って同じように椅子を並べ、美樹を横たえる。

 大きなテーブルを挟んで、二人はにらみ合った。

 洋の手には、細い折りたたみナイフが握られていた。五センチほどの長さの刃を出したままだ。美樹の手首には、結ばれた縄が残っている。洋は、用意してきたナイフで縄を切り離したのだ。

 浩一はまだ床に倒れ、洋の背後で気を失っている。

 大介が最初に口を開いた。

「ナイフをしまわないか?」

 洋は胸を張って大介をにらみ返す。

「銃を捨てるなら。ハンデが大きすぎます」

 大介は肩をすくめた。空いている椅子はまだあるが、座ろうともしない。

 悲しげにつぶやく。

「幸子が君を襲った――。さっき、そう言ったな?」

「事実です。彼女は灰皿で殴りかかってきました。まるで、別人のように狂暴になって。明らかに人格が変わっていた。俗に言う、二重人格ですよ。状況次第では、法廷でも証言します」

 大介は、重苦しい溜息を漏らした。

「今の幸子は病気だ。気の弱いだけの娘だったのにな……。まわりで蠢く君たちが押し潰して、逃げ場を奪った。三枝が、高橋美樹が、君が、幸子を追い込んだ。病気にさせられてしまったんだ。そうは思わんか?」

「それも事実でしょう。でも幸子さんが美樹を襲い、三枝を襲い、そして僕をも傷つけようとしたことも事実です」

 大介は長い溜め息をもらして床に目を落とした。

「全部知っていたのか……」

「彼女の豹変を実際に目にしたら、他の結論はあり得ません」

「精神的に追い詰められると人格が変わるらしい。確かに、強度のヒステリーか解離性同一性人格障害の可能性が高い。専門家に診せたわけではないがな。幸子は昔から、受け入れがたいストレスを架空の世界に逃避することでやりすごしてきた。だが、人格まで変わるようになったのは、公園で襲われてからだ。少なくとも、私が知るかぎりでは」

 洋は皮肉っぽく唇を歪める。

「つまり、あなたが背中を突き飛ばしたわけだ。公園の暴行は、あなたが三枝に命じた芝居だったんですよね?」

 大介は目を見開いた。

「なぜ知っている⁉」

「三枝から聞いたんですよ」

「なんだと⁉」

「実は、僕は幸子さんより先に三枝に会っていたんです。最初に三枝に襲われたのは、僕なんです。だが、いつの間にかあなたが三枝を操りはじめた。流産で入院した時、僕は病院で三枝と会いました。幸子さんが眠った後、二人きりで話をしたんです。あなたが三枝に命令したことは、その時確かめました」

 大介は驚きを隠せなかった。洋が幸子より早く浩一と会っていたという事実が、百戦錬磨の刑事をうろたえさせている。

「君が三枝に襲われた……?」

「で、逆に指を折りました。おとなしい飼い犬になりましたよ」

「じゃあ、幸子はどうして……? その時警察に突き出せば、幸子は三枝に出逢わずにすんだものを……。君は三枝を止められたのに……まさか……君がけしかけたのか⁉」

 大介とは対照的に、洋は動揺を見せない。

「さすがに勘は鋭いですね」

 大介は抑揚が消えた口調でつぶやいた。

「誇れることじゃない。悪党の腹の内を読み慣れているだけだ。君の目的は、美樹さんに近づくことだったんだろう? 彼女が三枝の狂気に怯えれば、いずれ自分を頼ると考えた――違うか?」

「分かり切ったことで時間をつぶすのはやめましょう」

「幸子が何をされるか知りながら、三枝をけしかけたんだな? 幸子を、美樹さんに取り入るための道具にした。三枝の狂気の生け贄にした……」

「法は犯していません」

「始末の悪い悪党ほど法の網から漏れる」

 洋はにやりと唇を歪めた。

「誉められた、と考えておきます。でも、策を弄したのはあなたも同じだ。幸子さんの傷も大きい」

 大介は巨大な毒グモでも眺めるように、洋の目を見返す。

「三枝の芝居のことか? 確かに私は、幸子を打ちのめした。だが、あんな芝居でもしなければ、幸子を引き離せなかった。妊娠したことは三枝さえ知らなかったしな……。こいつは私以上に驚いていた。だから、あの悲劇は防ぎようがなかった……」

「僕が助けに入っていなかったら、どうなったことやら」

「やはり公園に現われたのは君か……」

「三枝が美樹を脅迫したんです。電話で『幸子を殺す』とね。美樹は心底怯えたが、僕には芝居だと読めました。で、幸子さんを尾行して、出方をうかがっていたんです。美樹に恩を売る絶好のチャンスですから」

「君が姿を見せたのは、私が飛び出す寸前だった」

「よくあそこまで我慢できたものです。娘が気絶しているというのに」

「流産するまでは筋書き通りだったからな。早まって姿を現わせば、私が仕組んだことを悟らせる。簡単には出られなかった」

「だが猿芝居の結果は、逆になった。三枝が本気で幸子さんを愛する、だなんてね……。あいつが子供を欲しがっていたとは、気がつきませんでした」

「それまで三枝は『美樹を自分の物にするために幸子を破滅させようとした』と言っていた。まさか、赤ん坊が絡んだとたんに態度が変わるとは……。病院で幸子との結婚を申し込んできた三枝は、本気だった。私には、何がどうしたのか分からなかった」

「なに、精神異常者の思い込みですよ。重傷の虚言症は、自分の嘘を本当だと信じ込めます。三枝は幸子さんを愛していると思い込んだ――それだけのことです」

「愛……か。そんな愛でも、幸子は輝いていた……。君に捨てられてどん底まで落ちた幸子が、まるで普通の娘のように……。何が本当の愛で、何が偽りなのか……私には、もう分からん」

「分かる必要なんてありません。みんながそれぞれの愛を持っているんですから。三枝だって美樹を愛している。あるいは、奴が一番本気で他人を愛しているのかもしれない。迷惑だ、ってだけでね」

 大介は小さくうなずいてから尋ねた。

「君は幸子に襲われたんだろう? なぜ防げた? 美樹さんも三枝も殺されかけたというのに」

「会う前から二重人格を疑っていたし、急に態度が変わったことも見抜けましたから。心の準備ができていれば不意を突かれることはないし、空手も心得ています。あなただって、僕ならあしらえると分かっているから幸子さんを託したんでしょう? モーテルで殴り倒されていたら、ここに連れて来られないんですから。でもその場合はどうする気だったんです?」

「三枝をどこかに隠して、幸子を保護しに戻るしかなかっただろう。実際、GPSの電波が切れた時は、モーテルに引き返そうかと迷った。だが、君の才覚に賭け、待った。幸い、もうひとつのGPSが動きだしたので、先にここに来た」

「もうひとつ……? 車に仕掛けたのか!」

「モーテルにあった三枝の車と、君のフィットにも、な」

「僕の……?」

 大介は、出窓のひび割れたガラスを顎で示した。

「資金は潤沢だ。情報を売ったおかげでね。窓を撃つ直前に、駐車場の車にGPSを隠した」

「さすがに腕利きの警官だ……打つ手が早い。なぜ僕の車にまで? 僕は、あの時から何か疑いを抱かせていたんですか?」

「目つきが気に入らなかっただけだ。当てずっぽうだよ」

「用心深い人ですね」

「それで君は、幸子に二重人格の疑いを話したのか?」

「何も言ってません。むしろ、隠しました。素直に従ってくれれば、その方が手間が省けますから。ただ彼女自身が、自分は殺人犯ではないかと怯えています。だから僕は、あなたが幸子さんの二重人格を偽装した、と説明しました。腰を上げさせる方便です」

 大介は再び長い溜め息をもらした。その目には、深い安堵がにじみ出ていた。

「ありがとう。君の都合でしたことでも、感謝に値する。じゃあ幸子は今でも、黒幕はこの私だと思っているんだな?」

「あなたが娘を守るために全ての罪を背負い込もうとしているとは、気づいていません」

「君はどうして私の狙いを見抜けた?」

「確信が持てたのは、ついさっきです。あなたがコートのボタンを残してきたことを認めたからです」

 大介の表情が曇る。

「カマをかけたのか? ボタンなどなかったのか?」

 洋は無表情に答える。

「ありましたよ。僕が置いたんですから。病院に幸子さんを見舞いに行った時に、戸棚のコートからボタンをもぎ取りました。咄嗟に、圧力をかける手段に使えないか、と閃いてね。その後に僕自身の血を付けてこっそり部屋に置き、幸子さんを一人にしたんです」

 大介の表情が、犯罪者に対峙する刑事のものに変わった。怒りが言葉を震わせる。

「そこまで幸子を追い込んだのか⁉」

「僕は病院で、二重人格を疑い始めました。美樹を傷つけた人格と話がしたかったんです。だが、病室で問い質すわけにもいかない。チャンスは必ず来ると思って、待ったんです。結局、ボタンを使っただけじゃ問題の人格と対面はできませんでしたが、幸子さんの内心の恐れは聞き出せました。だからこうして、美樹を捜す駒にする事ができたんです」

「それでも人間か⁉」

「仕方ないでしょう。美樹を失えば、これまでの人生が無駄になるんですから」

「なんという悪党だ……」

 洋も声を荒げる。

「何回言えば分かる? 僕は美樹を助けたいだけだ。彼女を傷つけたのは幸子だ。監禁したのはあんただ。ちょっとばかりトリックを使ったからって、責められるいわれはない。そもそも幸子をここまで狂わせたのは、あんただろうが。幸子の精神がこの先どうなろうと、僕の知ったことか!」

 大介は悔しそうにうなずいた。言葉も穏やかに戻る。

「その通りだ……。入院した時から、異常な振る舞いに気づいていたのに……。あの段階で思いきった手を打つべきだった……。タイミングを見計らったように君が連絡して来たことも、もっと疑うべきだった……。むろんあれは、君の策略だったわけだな?」

「策略なんてありません。少なくとも、幸子さんに対しては。美樹に取り入りたかっただけです。だから、学生時代の仲間をストーカーから守るヒーローを買って出たんです。当然、勝算がありました。異常者だとはいえ、すねに傷ばかりの三枝を始末するのは簡単です。最終的には警察に通報すれば、刑務所行き。その時美樹は、僕の献身的な協力を愛だと思い込むでしょう。それが目的です。美樹にインパクトを与える事件さえ起これば、それで良かったんです。あなたの銃撃、あれは最高でした」

 大介は、悔しそうに唇をかんだ。

「貴様の思うがままか……。君たちの本心を知りたかっただけなんだが。何の役にも立たなかったな……」

「あの芝居がまた、幸子さんの気持ちを引き裂いていった……。人格が分裂するのは、時間の問題だったのかもしれませんね」

 大介は、許しを請うように説明し始めた。

「全ては私の責任だ……。だからGPSで幸子の居場所を探り、できる限り近くで盗聴してきた。美樹さんに襲いかかった時も、駆けつけて止めに入った。幸子はひどく暴れた。あと数分遅れていたら、美樹さんを殺していたかもしれない。だが、幸子を取り押さえている間に、美樹さんは父親に助けを求めていた。携帯を使って、な」

 洋は小さくうなずいた。

「だからヤクザたちが……」

「高橋は、娘がこの別荘に出入りしていることに全く気づいていないらしい。だから、人海戦術で我々を見張ったわけだ。おかげで、私は窮地に追い込まれた。むろん、美樹さんを死なせるわけにはいかない。かといって解放することもできない。幸子の暴力が公になれば、犯罪者か精神異常者として拘束せざるを得ない。狂気の原因は、全て私の浅はかさにある。幸子にこれ以上辛い思いはさせられない。美樹さんは、私たちが姿を消すまで監禁しておく他に方法がなかった。私は幸子が病院から出しだい、二人で逃亡する気でいた。だが、幸子は三枝を選んだ。二人を力づくで引き離せば、幸子の心は崩れる。大学の頃、君に捨てられた後の落ち込みようを考えれば、他の可能性はない。どうすべきか思案して決めかねているうちに、今度は三枝が犠牲者になった。事態を収めることが、時間が過ぎるごとに困難になっていく……。なによりも私は、精神の異常を幸子に悟らせたくなかった。それを知れば、幸子は正常な世界に戻れないかもしれない……」

「自分の人生を棒に振っても、娘を守るってことですか……」

「父親だから、な。私が暴力団に情報を渡したことは知っていたんだろう?」

「大体は。逃走資金を手に入れるためでしょう? いつからそんな取引を?」

「幸子が流産した直後からだ。もはやどんな手段を使っても、三枝から引き離すしかないと覚悟を決めた。その準備だった。金の一部は三枝にも渡した。奴が、一人で逃げると約束したからだ。だが三枝は、その金を幸子との逃亡に使おうと目論んだ」

「なのに、幸子さんは三枝を殴った……?」

「奴が本性を現したんだ。そのショックが、幸子の狂暴な人格を呼び出した」

「それで幸子さんは、僕を取り戻そうとするようなことを口走ったのか……」

 大介は自嘲するように笑った。

「私は、ヤクザに魂を売った。もう犯罪者として生きるしかない。それでも、娘だけは守る。時間さえあれば、警察の追跡は必ず振り切る。手の内は知り尽くしているからな」

「あなたが全ての罪を被って?」

「もちろんだ。幸子は今まで普通の娘だった。君たちから離れて時間が過ぎれば、元通りに戻れるだろう。だが、二重人格や傷害事件で警察の取り調べを受ければ――しかもその課程で三枝や君たちの正体が、そして私の策略が暴かれれば……おそらく苦痛に耐えきれずに死を選ぶ。誰かが守らなければならない。今守ってやれるのは、私しかいない」

「精神科の医師に任せるべきでしょう」

「いずれはそうするが、君たちから離れるのが先だ。そのために、私は全てを捨てた」

「大した決意ですね。僕ごとき小悪党には、あなたの決意を変える力はないでしょう。となれば、協力するしかない。僕はあなたがこのまま消えてくれれば満足です。三枝の始末もしてくれるんでしょう?」

 大介は倒れたままの浩一を見下ろす。

「新顔の覚醒剤密売人としてマークされている男だ。姿を現わしたら即座に逮捕するように情報を徹底させておく。署内には、まだ私の言葉を聞く部下も残っているんでね」

「ではその代償に、僕は三枝を殺人犯にする芝居を打つ――交渉成立、でいいですね?」

「もちろんだ」

「では、ポケットの銃をください」

 大介は銃を持っていたことを忘れていた。ポケットから取り出した銃を、不思議そうに見下ろす。

「これをどうするんだ?」

「あなたは三枝を撃った。持ち歩くことはできないでしょう?」

「だから?」

「あなたがやってくれますか? もう何発か撃ってから、銃に三枝の指紋を残すんです。それから、どこかに隠す。ただし、警察が確実に見つけられる場所に。三枝は参考人から容疑者に格上げ、道警も必死になります。あなた方は三枝を連れて本州にでも渡り、適当な場所で解放すればいい。ただし三枝には、殺人容疑で追われていることを理解させてください。二度と僕らの前に姿を現さないように」

 大介はわずかにためらいを見せた。

「そこまでするのか……?」

「どっちみち、殺人犯の濡れ衣を着せるんでしょう? 確実な証拠が残った方がいい」

「しかし、追求は格段に厳しくなる。三枝はつかまった後に重い罰を受ける……」

「いけませんか?」

「三枝は心が歪んでいるが、生れつきの犯罪者ではない……」

 洋は納得ができたというようにうなずいた。

「やはり、ね。あなたには無理だと思っていました。相手が三枝であろうと、罠にはめて一生を台無しにするのは避けたいわけだ。僕がやりますよ。悪党の義務、ってことですかね」

 大介はしばらく考えてからうなずいた。

「選択の余地はなさそうだな……。私の指紋はどうする? 拭き取るか?」

「いや、残っていた方が自然でしょう。三枝はあなたから銃を奪い、撃ち殺した――警察には、そう判断して欲しいですから」

 大介は銃をテーブルに置いた。

「気が進まんがな……」

「それは同じです。輝かしい将来がかかっているから、やるだけです」

 洋はテーブルを回って大介に近づいた。ナイフをテーブルに置き、代わりに銃を手に取る。素手でつかんでいた。

 大介は言った。

「君の指紋が残る」

 洋はテーブルから少し離れると、銃口を大介に向けた。

「いいんです。あなたには死んでいただきますから」

 大介は驚愕を隠せなかった。

「なにを言っているんだ……?」

 洋が握った銃は、ぴくりとも動かずに大介の胸を狙っている。

「あなたが本物の悪党でなくて残念です。三枝に罪をきせるのをためらう程度の善人は、信用できない。気弱なお人好しと組むとろくなことはない。悪党としてのポリシーなもので」

 大介は長いため息を漏らした。

「で、どうする気だ?」

「まず三枝を撃ち殺します。銃はあなたが盗んだものですから、犯人もあなたです。次にあなたの胸に銃を押しつけて、撃つ。それで幕です。僕は三枝を殺すあなたを止めに入って、もみ合いになったんです。しかし、場慣れた刑事を相手にする素人の悲しさ、銃を奪ったまではいいが暴発してしまう――」

「警察は簡単には騙せん」

「あなたがまともな警官なら、ね。でも、汚職で内部調査を受けている身では、信用されないんでしょう? 鼻摘み者を片づけた僕は表彰されるかもしれませんね」

 大介はしばらく言葉を失って、洋とにらみ合った。

 空気が張りつめたまま、数分が過ぎる――。

 大介は不意に冷たい笑みを浮かべ、長いため息を漏らすと念を押すように尋ねた。

「君の心配は、私が善人に見える、という点なのか? だから三枝と一緒に殺して、あらかじめ心配事を取りのぞこうという魂胆か?」

 洋はうなずいた。

「僕だって人殺しは避けたい。でも、美樹を守るために殺したのなら、彼女の心は僕の手に落ちる。正当防衛なら、罪も問われない。危険を冒す魅力は充分です」

「私が私利私欲のために他人を踏みつけにできる人間だったら、話し合いができるのか?」

「だからテストしたんです。不合格でした」

 大介は心の奥まで見透かすような鋭い視線で洋を見つめた。じっくりと考えた後に、つぶやく。

「皮肉なものだな。良からぬ企みを隠そうとしたがために、同じ穴の狢に殺されかかっているとは……」

 大介は、皮肉っぽく笑っていた。

 洋の眉がぴくりと動く。

「なにがおかしいんですか? 良からぬ企み、って……? 話してくれますか?」

「気が変わるなら、な」

「内容によります」

「美樹さんと三枝……二人を殴ったのは、本当は私なんだよ。最初からここに拉致する目的で、な。どちらの場合も、幸子は単に意識を失って倒れただけだ。血がついたボタンを残しはしなかったが、それ以上の暴力をこの手で振るった」

 洋は眉間にしわを寄せて、つぶやいた。

「嘘だ……」

 大介は、洋に似た冷たい視線を返した。

「なぜそう思う? 私が警官だからか?」

「僕が幸子に襲われたから」

「あの場に私がいれば、先に手を下した」

「でも……なぜそんなことを……?」

「どうしてだと思う?」

「あなたの目的……ですか? 幸子さんを守ることじゃないんですか?」

 大介は不気味な笑みを浮かべた。

「違う」

 洋の困惑が深まる。

「じゃあ、なぜ……?」

「幸子を独占するためだ。君や三枝、そして他の男たちがいないどこかで、幸子と二人だけで暮らすためだ。女としての幸子を、自分一人のものにしたかった。だからまず、幸子につきまとう君たちを始末したかった。君をうまく説得して、私と幸子が死んだ芝居をさせられれば、当然君たちとの関係も終わりになる。二人きりで姿をくらませられる。それで幸子は私の女になるはずだった……」

「女……? だって、あんた、父親だろうが……?」

 大介が表情を失う。

「娘を愛して悪いか? 私以外の男が幸子の肌に触れることは許せん。絶対に、だ」

 洋は、異世界の怪物を見るような目で大介を見つめた。

「狂ってるのか……?」

「幸子は私の物だ。だから妻も追い払った」

「妻、って……?」

「私の妻だよ。幸子の母親だ」

「それが離婚の原因なのか? 娘を独占するために……」

「妻は、私が幸子を溺愛すると言って不満を漏らすばかりで、諍いが絶えなかった。私が必要としていたのは、娘だ。だから幸子が幼稚園に上がる前に、他人とは縁を切った」

「他人って……。それじゃ三枝と同じじゃないか……」

「何とでも言え。君は美樹さんと末長く暮らすがいい。だが、私たちのことに口を出すなら、容赦しない。君が三枝を操って美樹さんに取り入ろうとしてきたことを明らかにする。警察に、ではない。美樹さんの父親に、だ。あの男、どう反応するかな? 警察では、有名人でな。悪知恵も桁外れだからなかなか尻尾がつかめないが、やり口は承知している。たとえ自分が被害を受けなくとも、プライドを傷つけられた時は過剰に反応する単細胞だ。特に頭の良さをひけらかす若造は嫌う。今まで三枝をつけ狙っていた鉄砲玉どもが、的を君に変える」

「ここであなたを殺せば、何もできない」

「それでも君は、殺人犯だ。言葉で言うのはたやすいが、人を殺すということの真の意味は、頭で考えて分かるものじゃない。私は、強面のヤクザが殺人の重圧に敗けて人生をダメにしたのを何度も見てきた」

「良心の呵責、ですか? 僕には無縁です」

「そう公言してはばからないヤクザどもが、結局は狂っていった。人の心は自分の予測しなかった方向へ転がることもある。意志の力で精神を正常に保てたとしても、生きている限り警察の動きに怯えなけらばならない。絶え間ない緊張と不安。殺人のニュースに耳をそばだて、警官とすれ違うだけで目を伏せる生活が続く。しかも、美樹さんとの関係が予測どおりに進まなかったら、あるいは破綻したらどうする? 君に残るのは、人を殺したという現実だけだ。どんな利益があろうと、殺人は引き合わない」

 洋は大介の言葉を重く受けとめたようだった。溜め息をもらす。

「こっちも袋小路に追い詰められたか……。僕だって、人殺しはしたくありませんって」

「それなら、私と手を組め」

「でも、幸子に襲われたのは事実です。二重人格は疑いようがない……」

「それも全て、私の失敗だ。私は、幸子を痛めつけすぎた」

 洋は小さくうなずいた。

「二人を殴ったのはあなたなのに、幸子は一方的に、無意識のうちに自分がやったと思い込んだ。その怯えが、さらに幸子を狂わせた……?」

 大介は表情も変えずに応えた。

「そうじゃない」

 洋の眉間のしわが深まる。

「え?」 

「私は、幸子が自分を疑うように仕向けたんだ。やむを得ずに、な」

「何でそんなことを……?」

「幸子が三枝と付き合っていることを探り出した時、幸子がひそかに産婦人科に通っていることも分かった。警察手帳があれば、幸子が三枝の子を孕んだことは調べ出せる。その時に、この計画が固まった」

 洋はあっと声をもらした。

「じゃあ、幸子の妊娠を知った上で……?」

 大介はにやりと笑う。

「知った上で、三枝に『幸子を襲え』と命じた。『本気で襲え』と念を押した。流産の可能性があることを計算して、だ。三枝との仲を裂くには、これ以上の方法はない」

「でも、奴があなたから命じられたことをしゃべったら……」

「刑務所に叩き込むだけだ。黙っていれば、逃がす。悪党を操るのは簡単だ」

「それなのに、幸子の妊娠を知った三枝は、逆に本気で愛するようになった……?」

「まったく、性根が腐ったストーカー野郎の頭の中は見当がつかん。おかげで幸子は三枝と逃げる決意まで固めてしまった。幸子を止めるには、幸子が自分自信を信じられなくなるように仕向けるしかなかった」

「つまり……」

「バッグの盗聴器で常時幸子を監視していた私は、美樹さんと三枝を拉致した。その時、幸子が意識を失っている間に自分でやったように見せかけた。幸子の部屋の畳の血痕は、私がわざと残してきたものだ。幸子は自分を疑う。しかも美樹が消え、三枝まで失踪すれば、幸子は誰を頼る? 刑事である実の父親の他にはいないだろう? そう考えて私がかけたプレッシャーが、本当に幸子の精神を狂わせてしまったようだ。それとも、君が幸子にとって耐えがたい何かを言ったのか、だ」

 洋は一瞬、言葉に詰まった。

「たしかに、僕は……」

「これで分かっただろう? たぶん私は、君よりたちが悪い悪党だ。だから安心しろ。私は幸子を手に入れる。君は美樹さんを自由にしろ。今後二度と会うことはないだろうが、悪党同士の約束は破らない。互いの弱みを握っている以上、口は開けない。開く理由もない」

 洋はうなずいて銃をおろした。

「今度こそ、交渉成立ですね」

「撃つ気が失せたようだな」

「最初から殺す気なんてありません。あなたの真意を確かめたかっただけです。危機は人の本性を暴く。そう教えてくれたのはあなたです。殺人は引き合わないなんて、論理的な悪党には常識ですから」

 その時、かすかな笑い声が聞こえた。すすり泣きにも似た、押し殺した笑い声……。

 幸子だった。

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