5
二時間後――。
西城洋は、残雪におおわれた冬枯れの森に立っていた。
頬に南風が吹きつける。陽差しも暖かくなる時刻だった。ここ数日でぐんぐん融けていく雪は地面をゆるませ、小川に集まって春の音を奏でていた。空気に、枯れ葉と土の香りが混じり始めている。辺りの木々は葉を落としていても、高くたくましい。
森に包まれるようにそびえるログハウスの窓には、カーテンが引かれていた。銃弾で貫かれたガラスは、そのままだ。
駐車場には、先に一台の四駆が停まっていた。「わ」ナンバーでレンタカーだと分る。
近田大介は待っている。銃も持っている。
洋は、シャーベットのように崩れる雪を踏み込んで、玄関に向かった。身を隠すつもりはない。別荘のドアには、洋の予想通り鍵はかかっていなかった。
〝賭けるしかない……。行くしかないよな……〟
洋は息を詰めてドアを押し、広間へ入った。針葉樹の香りで満たされた部屋の中は、出窓が割れていても暖まっている。
銃撃はされなかった。
しかし洋の目の前には、椅子に腰かけたままテーブル越しに銃口を向ける近田大介の姿があった。
他には誰の姿も見えない。
大介は言った。
「遅い。幸子は?」
洋は後ろ手にドアを閉めた。大介の真意を見抜くために、あえて質問には答えない。
「来る、と決めつける言い方ですね」
「だから幸子を託した。香水に気づいたろう?」
「木の葉にも。駐車場のオニグルミだったんでしょう?」
「やりすぎだったか? 枯れ葉は、モーテルの近くで拾ったものだ。香水は、彼女のバッグからいただいた。二人でじっくり話す必要があった。君は頭が切れるが、私の狙いを確実に理解してもらえないとややこしい事態になる。娘の命を預けているしな。幸子は?」
「眠っています」
「警察には連絡していないだろう?」
「教えれば、また拘束されます。それに警察は、美樹を捨て駒にする気です。あなたを傷害で逮捕したいからです」
大介はうなずいた。
「刑事でもないのに、そこまで読めているのか……。しかも、病院から逃げだすとはな。座らないか?」
洋はじっと銃口を見つめたままだ。
「このままで」
大介は鼻の先で笑う。
「殺す時は、立っていても逃がさない」
「気休め、ですよ」
「好きにしろ。幸子に怪我はないか?」
「壊れ物のように扱いました。切り札ですから。美樹は?」
「目的は人殺しではない」
洋は大介を鋭くにらんだ。
「僕は、そうは考えていません」
「心配性だな。殺す気なら、君を招かない」
洋は別荘に着くまでの二時間、ずっと大介の意図を考え続けてきた。あらゆる可能性を計算し尽くしたつもりでいた。
「僕を利用したのは、他に方法がなかったからでしょう?」
「ほう、どういうことだ?」
「三枝の拉致そのものは難しくない。モーテルを盗聴して、眠っている隙に薬で気を失わせれば短時間ですみます。幸子さんも一緒に眠らせれば邪魔されない。管理人に『刑事がヤクの売人を逮捕しに来た』と納得させれば、警察も感づかないでしょう。でも、ここに来るまでの間、幸子さんと同じ車に乗るのは危険だ。道警は必死にあなたを追っている。座席にはたぶん、怪我をした三枝を寝かしている。万一検問に止められれば、それで終わり。同乗者の幸子さんも傷害の共犯になる。だから、一緒には行動できない。自分と幸子さんが同時に逮捕される危険を避けるには、二手に分かれるしかない。だが、幸子さんはログハウスの場所を知らない。案内人が必要だ。しかし、僕以外に自由に動ける者は残っていない。そうでしょう?」
「頭の良さをひけらかすのは、インテリの悪い習性だな。こっちの狙いを見抜いていながら従う度胸があることも承知している」
「モーテルで何を盗聴したんですか?」
大介は厳しい目で洋を見つめるだけだ。答えない。
洋の目にも鋭さが浮かぶ。
「腹を割った話がしたくて呼んだんじゃないんですか? あなたは盗聴器で何かを聞いた。だから、やむを得ずにモーテルに踏み込んだ。違いますか? で、三枝を拘束してから、僕ヘ連絡を入れた。僕は何も知らずに、あなたの駒にされていたわけだ」
大介が口を開く。
「利用されるためだけに従ったわけではあるまい?」
洋は唇をゆるませた。冷たい笑い――。
「互いの利益になる提案を期待しています」
大介は銃口を軽く振って、自分が洋の命を奪う手段を持っていることを誇示する。
「幸子をもらおうか」
「美樹と交換です。ケタミンで眠っています」
「麻薬を使ったのか⁉」
「商品名はケタラール。呼吸も止めず、血圧も下げず、設備が貧弱な災害地でも使えるような比較的安全な麻酔薬です。使い方も調べたし、生命に危険はありません」
「そんなものをどこで?」
「あなたも使ったんじゃないんですか? ネットで何でも手に入る世の中ですからね。僕も、不測の事態には備えています」
大介は含み笑いをもらす。
「美樹さんも無事だ。今は眠っている」
「薬を使いましたか?」
「最初はセボフルラン。ヤクザから教えられた手だ。気化しないと吸わせられないのでな。それ以後は幸子が医者から処方された睡眠導入剤を水や食料に混ぜている。意識を混濁させるためだから、障害を起こすほどの量ではない。わずかだが、モーテルで幸子にも吸わせた。車は寒くないか?」
「まだエンジンが暖まっています。毛布もかけてあります。でも、急ぎましょう」
大介は重い溜め息をもらした。
「焦るな。幸子は神経が細い。誰かが守ってやらなければならない……」
洋は冷たく答えた。
「僕には関係ない。本題に入りましょう。僕に何をさせたいんですか?」
「なぜそんなことを聞く?」
「あなたが時間を無駄にしているからです。僕の腹を探っているんでしょう? させたいことがあるからでしょう? 三枝を殺せ、とでもいうんですか?」
大介は軽い笑い声をもらす。
「まったく、君という男は……。図星だよ。頼みがある。だが、殺そうとは思っていない。行方をくらませる時間が欲しいだけだ。逃げ切れればいい。三枝が生きようが死のうが、関心はない」
「生きているんですね? この建物に?」
大介はうなずいた。
「他に二人を隠せる場所が見当らなかった」
洋は厳しい口調で言った。
「嘘だ。何を企んでいる? 三枝に生きていられたら、あなたは困る。ヤクザに情報を売って警察に追われているんだからな。奴もヤクの売人のはしくれだ。あんたが情報を売った証拠を、何か握ったんじゃないのか? だからここで殺して、美樹に濡れ衣を着せるつもりなんじゃないのか? もう殺しているのか?」
大介は動揺を見せなかった。
しばらく洋とにらみ合った末に、観念したように答える。
「そこまで見抜かれていたとはな……」
「僕も殺しますか? でも、その銃は使えませんよ。銃弾を分析すれば、あなたが持ち出した拳銃だと分かる。現役警官の殺人事件になれば、絶対に逃げ切れない。それとも幸子さんを捨てて、国外逃亡しますか?」
「幸子は残せない。たった一人の娘だ」
洋は鼻の先で笑い飛ばした。
「それも嘘だ。一人にできない理由は他にある。彼女が警察の取り調べを受ければ、なにもかもしゃべるからだ。三枝を殺して美樹に濡れ衣を着せても意味がなくなる。自分の犯罪を迷宮入りさせるためには、証人があってはならない。だから幸子から目を離すことができないんです。実の娘を殺すわけにもいかないでしょうしね」
「全部お見通しか? それなら話が早い。君は正しい。確かに私は最初、名探偵の謎解き通りに事を運ぼうとしていた。しかし、ここに三枝を連れてきてから考えが変わった。奴には殺人犯として逃げ回ってほしい」
洋は首をひねった。
「三枝が殺人犯? 誰を殺すんですか?」
「むろん、幸子と私だ」
洋はようやく大介の意図を理解した。小さく息をのむ。
「ストーカーが警官親子を殺害……か。幽霊はつかまえられないですからね」
「殺したくないだけだ」
「手を汚したくない、でしょう? しかし、あなた方の死体はどう偽装する気ですか?」
「偽装は必要ない。君の証言があれば、な」
「それが頼み、か……」
大介はうなずいた。
「私たちが素性を隠す時間が稼げればいい」
「警察に何を言え、と……?」
「『美樹さんを探して一人でここに来た』と言いたまえ。『幸い山荘に三枝の姿はなく、監禁されていた美樹さんを救出できた。ところがそこに、泥まみれのスコップを持った三枝が帰ってきた。そこで三枝の不意を襲って気絶させ、美樹さんと一緒に最寄りの交番に助けを求めた』――。それ以上は『何も知らない』を通す」
「三枝があなた方を殺してどこかに埋めた、という筋書きですか?」
「森は広いし、雪解けで土がぬかっている。夜に冷え込めば、霜柱も立つ。どこも掘り返したように見えるし、どこも掘ったように見えない。数週間は稼げる」
「三枝はどうするんですか?」
「銃で脅してそこらの地面を掘らせる。それから小銭をやって、解放する。奴は警察のブラックリストに載っている。『今度札幌に顔を出せば確実に逮捕される』と脅せば、逃げまわるしかない。奴はまだ、私が警官だと思っているからな」
「もう警官じゃないんですか?」
「腹の中まで腐り果てた。だから、生まれ変わる」
「勝手な理屈ですね」
「だが、君にも大きな利益がある」
「なんですか?」
「美樹さんにはずっと薬を飲ませているので、意識が定かではない。目隠しをしてトイレには行かせたが、自分が置かれた状況は把握していないだろう。だから君が私の提案どおりに証言すれば、警察はそれを信じ、作り話が事実に変わる。君は、美樹さんの命を救った白馬の騎士だ。『殺人ストーカーから恋人を救出』。三文雑誌の見出しとしては秀逸だろう? 君は、美樹さんと結婚できる」
「警察が信じる保証はない」
「確実に信じる。いや、信じたふりをする。全ての責任を三枝になすりつけられるなら、組織が傷を負わずにすむからだ。この筋書きを蹴れば、身内の私を逮捕しなければならない。マスコミが嗅ぎ付ければ、道警は袋叩きだ。キャリアはスキャンダルを嫌う」
「でも……誰かが偽装を見破ったら?」
「迷惑はかからない。『スコップを持った三枝と戦った』だけなんだからな。三枝が殺人犯だと断定するのは、警察だ。私が仕組んだ芝居が暴かれても、見当違いの思い込みを責められるのは君ではない」
「三枝がつかまったら?」
「奴は虚言症のストーカー、しかも売人でシャブ中だ。誰が信じる?」
「あなた方がつかまったら?」
「『姿をくらますために、山荘で殺されたように見せかけた』と言う。君は、私たちが山荘にいたことさえ知らなかったと言い張ればいい。迷惑はかからない」
「あなたなら嘘もつけるでしょう。でも、幸子さんはどう証言するでしょうね?」
大介は哀しげに首を横に振る。
「幸子の精神状態はここしばらく錯乱している。記憶も定かではないようだ。この状態で証言しても、警察はまともに解釈できない。父親としては悲しいが、狂人のたわごととして扱うしかないだろう」
洋はしばらく考えた。
「結論を出す前に、もうひとつだけはっきりさせておきたいことがあります」
「なんだね?」
「あなたは自分で美樹と三枝を拉致して、ここに監禁した。それを、あたかも幸子さんが二重人格であるかのように見せかけましたね? なぜですか?」
大介はじっと洋を見てから、ゆっくりと答えた。
「見せかけたわけではない。実際幸子は、三枝や美樹と言い争っているうちに意識を失った。失神の引き金になった事実も忘れてしまっている。ストレスに耐えられなかったんだろう。で、どちらの場合も、盗聴器で監視していた私が助けに入った」
「幸子さんは暴力を振るっていない、と?」
「その通り」
「それなら、あなたは抵抗されたはずです。どうやって二人を拉致したんですか?」
「仕方なく殴った」
「美樹も三枝も? 二人とも、幸子さんが意識を失っているうちにあなたに殴られた?」
「他に方法がなかった」
「では、血染めのボタンもあなたが置いたんですね?」
「ボタン……?」
「幸子さんの部屋に落ちていたコートのボタンです。血がついていました。美樹が幸子さんに襲われ、抵抗した際に引きちぎったようにしか見えませんでしたが?」
大介はわずかな沈黙の後にうなずく。
「もちろん、私が置いた」
「なぜ、自分の娘に罪をなすりつけるようなことを?」
さらに長い沈黙の後に、大介はつぶやいた。
「万が一、警察が介入した際の保険だ。幸子が犯人なら、それは精神の異常の結果だ。行き先は刑務所ではなく、病院になる。今の幸子には、その方が幸せかもしれない」
「娘を身代わりにしてまで逃げたかったんですか? 幸子さんは、自分が犯人ではないかと怯えていたんですよ?」
「埋め合わせはする。そのためにも、君の協力が必要だ」
洋はようやく質問を終え、うなずく。
「分かりました。そこまで正直になっていただいたんですから、あなたを信じます。手を打ちましょう」
その時、大介の背後からかすかな声がした。
「ふざけやがって……」
大介が振り返る。
浩一だった。
地下倉庫へ通じるドアが半分開いていた。そこから、倒れた浩一が這い出そうとしている。巨大な芋虫のように。木の床に必死に爪を立て、階段の縁から上体を引き上げる。両方の手首から血がにじみだしていた。
恨みがこもった、亡霊のようなうめき――。
「人を小馬鹿にしやがって……」
しかし浩一の動きは、蜂蜜の瓶に落ちた蟻のように緩慢だった。
大介は、ドアから出ようともがく浩一を見下ろしてつぶやく。
「縄を切ったのか……。馬鹿な男だ。じっと我慢していれば、命までは取らずにおいたものを……」
洋はテーブルを回って浩一に近寄ろうとした。
「大丈夫か⁉」
大介は浩一を見つめたまま、洋の動きに合わせて銃口を振る。
「動くな。大丈夫か、だと? 何を心配している? 私が三枝を撃てば、君にはいいことずくめだろうが」
洋は動きを止める。
「僕は誰の死も望んでいない! あなただって、そう言ったばかりじゃないか⁉」
「偽善者ぶるのはいい加減にしろ。君の腹はとっくに読めている」
洋は何も応えなかった。
ようやく階段を登り切った浩一が、壁に手を突いて立ち上がろうともがく。そして、洋を見た。
「西城……騙されるんじゃないぞ。こいつが言ったことは……全部……嘘だ……」
大介は浩一の額に銃口を移した。
「貴様に嘘つき呼ばわりされる理由はない」
だが浩一は、じっと洋を見つめて訴える。
「信じるな……。俺を殴ったのはこいつじゃない。幸子に――」
大介は機敏に動いた。銃口をわずかに下げると、浩一の太ももに銃弾を撃ち込む。
浩一の悲鳴は、広間に反響する銃声にかき消されて聞こえなかった。あたり一面に火薬の臭いが立ちこめる。
浩一は床に倒れてのたうち回った。鮮血が飛び散り、真新しい木の床を赤く染める。それでも浩一は片手で傷を押さえ、壁に手をついた。太い丸太に、血染めの手形が残る。
浩一は獣のようにうめきながら、立ち上がろうとする――。
息をのんで見守る洋は、動くことができなかった。
と、浩一は動きを止めた。浜に打ち上げられたクラゲのように、ぐったりと崩れる。
大介がつぶやいた。
「気を失ったか」
洋は硬直したままうめいた。
「本当に撃つなんて……無意味だ……」
大介は冷静に浩一を観察していた。
「幸子をいたぶった礼だ。銃には自信がある。急所は外した。銃弾は貫通しているし、出血は少ない。骨には当てていないし、その程度の出血なら血管も切れていない。手当てしてやれ」
浩一に歩み寄った洋は、鮮血をにじみださせる足を見下ろしてつぶやく。
「手当てって……どうするんですか?」
大介は硝煙を漂わせる銃を洋に向けながら、左手でブルゾンのポケットを探った。紺のバンダナとボールペンを取り出すと、洋に投げる。
「傷の少し上――心臓に近い方をバンダナで縛れ。ボールペンでバンダナをねじって血管を圧迫する。それで出血は止まる」
洋は指示された通りにしながら、大介にすがるように尋ねていた。
「これからどうする気だ? 三枝に銃の傷が残ったら、あなたの計画が崩れる。僕まで殺すのか……? 美樹は本当に無事なのか⁉」
大介は何も答えなかった。じっと手当ての進み具合を見つめている。さらに命じる。
「充分ねじり上げたら、ボールペンの先をズボンに突き刺せ。バンダナが緩まない」
洋は命じられるままに浩一の出血を止めると、大介をにらみながら立ち上がった。
「答えろ! 美樹をどうしたんだ⁉」
大介は再びポケットに手を入れた。取り出したものを洋に向かって投げつける。
洋は反射的に、空中でそれをつかんだ。
鍵だ。
大介がうなずく。
「美樹さんは屋根裏だ。ドアはその鍵で開く。で、幸子は?」
洋もまた、ポケットから取り出した鍵を大介に投げた。
「車のキーです」
うなずいた大介は、外に出ようと身を翻した。
大介の背中に向かって、洋がつぶやく。
「あなたの正体が見切れましたよ。やっぱり大嘘つきだ」
足を止めた大介が振り向く。
「何だと?」
「幸子さんは後部座席に縛ってあります。僕が気を失わせました。いきなり襲いかかってきたもので、やむを得ない自衛手段でした」
そして洋は、不意に微笑む。人の心を凍らせる、冷たい唇の歪み――。
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