洋が息をのむ。

「殺した、って……まさか……」

「私の心に、もう浩一はいない」

 洋の目に、冷静さが戻る。

「そういう意味か。じゃあ、奴と何を話したのかも思い出したのか?」

「もちろん。忘れるわけがない。私を裏切ったんだから」

 洋はじっと幸子の目をのぞき込んだ。

「本当……なんだね?」

 幸子は、甘えたような声でささやく。

「でも私、気づいた。私が求めていたのは、あなた」

「いい加減にしろ! 大事なのは美樹だ!」

「あなたこそ目を覚まして。だって、私を愛してくれたじゃない。抱かれたことはなかったけど、愛し合っていた。美樹がいなければ、あのまま幸せに暮らせた。美樹さえ消えれば、あの頃のように……」

 洋は冷たく言った。

「目を覚ますのは君だ。もう一度言う。僕にとって大事なのは、美樹だけだ。美樹を助けるために、こうして君の機嫌を取っている。思い上がるんじゃない」

 幸子はかすかに首を傾けた。

「思い上り……? 私を愛してくれたことに嘘はないでしょう?」

 洋は焦りと苛立ちを押し殺すように、深呼吸をしてから答えた。

「君はどうしてそう子供なんだ? 僕は始めから――君と付き合う前から、美樹を狙っていたんだ。今も、学生時代も。君に近づいたのは、美樹の気持ちを僕に引きつけるための手段だ」

 幸子はうめいた。

「そんな……嘘でしょう……?」

 洋は幸子の前では決して見せたことのない、冷たい笑みを浮かべた。

「君は僕の命令に従え。一刻も早く美樹を探し出す。手伝え」

「いやよ……」

「嫌だと? なぜ?」

「だって……」

「これだけ言っても分からないのか……。僕に愛されていたと信じていたいのか?」

「だって……」

 洋の目の奥に、研ぎ澄まされた刃のような冷たい光が浮かぶ。

「仕方ないな。こんな無駄なことはしたくなかったが……今の君を動かすには、全てを打ち明けるしかなさそうだ。本当のことを話す。君にはつらいことだろうが、全て真実だ。僕が美樹のために命をかけていることが、それで分かる」

 幸子は無意識のうちに耳を塞ごうとしていた。

「聞きたくない……」

 洋は幸子のかすかな叫びを無視して、まるで天候の話しでもするように語り始めた。

「僕は貧乏な家庭で、母親と二人で育った――君にはそう話したね。嘘だよ。いたって裕福な、平均以上の家に生まれた。だが、父親が株で失敗した。欲につけ込まれて騙され、丸裸さ。借金取りから逃げ回る生活が始まった。中学二年の時だ。夫婦に愛情なんてない。世間体を保つために一緒の寝室で寝て、僕をいい子に育てようとしていただけだ。空手を習ったのも、父親が強い息子を望んだからだ。家族をつないでいたのは、見栄と金さ。だから、親父は一人で逃げた。僕は学んだ。金の前には、愛情など無力だ。どんな手段を使おうと、結局は金を持つ者が勝つ。金は、全てに勝る価値を持つ」

 幸子はぼんやりと洋を見つめた。

「お金……?」

「そう、僕の人生の全ては、金を手に入れるためにある」

「じゃあ、美樹ちゃんは……?」

「札幌で五指に入る資産家の娘、だからな」

「愛しているんじゃないの?」

「愛? 愛には不自由しなかった。おふくろは離婚しても、僕を愛した。べたべたと、うっとうしいほどに。足りないのは、金だ」

「そんな……」

「信じられないか? ま、それも当然だ。はじめて君と会った時から、君を騙すために芝居をしてきたんだから。夢見がちなお嬢さんに取り入るために、君が好みそうな文学青年になりきってきたんだ」

「だって、私だって片親で育ったのよ。境遇は似てるのに……なんでそんなにお金に……お母さんは頑張ってあなたを育てたのに……」

「その姿が惨めなんだよ。昨日まで金に飽かせて他人を見下していたくせに、とたんに親戚中に物乞いだ。しかも、僕を亭主代わりにして甘える。自分というものがこれっぽっちもない。運命を切り開こうという気概もない。風に飛ばされる枯れ葉のようなものさ。こんな惨めな人生があるか? 僕は嫌だ」

 洋は真剣だ。その言葉が本心だと認めないわけにはいかない。

「なぜ私に? はじめから美樹ちゃんに近づけばいいのに……」

「僕は所詮ハイエナだ。たった一匹でゾウを倒せるか? 分不相応な獲物にいきなり飛びつけば、踏み潰される。君は美樹に取り入るための、最初のステップだった。美樹の一番の女友達だったからな」

「ステップ……ただの踏み台?」

「やっと理解したな」

 幸子の目に涙が光った。

「なぜ私だったの……?」

 洋は無表情に語る。

「目的は美樹本人じゃない。美樹の財産だ。相手はがっぽり金を抱えたお嬢さん。こっちは破産した母子家庭――。正攻法では取り入る隙がない。唯一残る可能性が、美樹に愛されることだった。親から反対されても結婚を押し通すほど、僕を愛させることだ。言い寄ったんじゃ足元を見すかされる。遊び半分で付き合うことはできても、結婚は望めない。美樹の家系に入れなければ、無意味だ」

「なぜ私なの⁉」

「美樹に近づくには、取り巻きと親しくなるのが一番自然だ。そうやって僕は、美樹の前にたびたび顔を見せることになった。そして次の段階として、美樹が気に入りそうな男を演じた。美樹は君を、自分を引き立たせるアクセサリーぐらいにしか思っていない。なのに、僕のような恋人をつくってしまった。納得できないよな。嫉妬心がかき立てられ、僕への関心が高まる。誘いをかけてきたのは美樹の方だ。気位の高い女ほど他人の物を欲しがる。僕の計算は、臆面もなく幸せそうな笑顔を振りまく君の助けで、頭に当たった」

 幸子は喉の奥から声を絞り出した。

「ひどい……」

「確かに僕は君と付き合った。喫茶店で本の話をしたり、甘ったれた恋愛映画も見に行った。二人でドライブもしたが、水族館への日帰りだったよな。あ、それからスケートにも行ったっけ。だが、そんなもんだ」

「キスはしたわ……はじめての……」

「僕には無数のキスの中の一つだ。台本に『キスをする』と書いてあれば、相手が誰でも唇を合わせる。君の身体を求めたことがあったか? そんな関係は、いまどき小学生でも恋愛とは呼ばない」

「ひどい……」

「僕は美樹に貞節を誓っていた。古くさい言葉、だがね。美樹と結婚するまでは、他の女とは寝ない。美樹に悪い感情を持たれるようなことは一切しない、ってな。将来を美樹に賭けたんだ」

 幸子は洋を見つめた。

「そして、失敗した?」

 洋も、自嘲気味に微笑む。

「完敗だ。美樹とは何度か寝た。たっぷり楽しませた。だが、暇つぶしの相手でしかなかった。美樹は東京に出て、関係は消滅した」

 幸子はつぶやいた。

「なぜ追わなかったの?」

「追う? 美樹みたいな女が一番嫌がるのは、しつこい男だ。東京まで追いかけて『結婚してくれ』なんてせがめば、野良犬扱いだ。だが、こっちが堂々と構えていれば、まだチャンスはある。美樹がどこに行こうと、帰るべき場所は札幌だ。東京に飽きれば、美樹も戻る。父親が必ず呼び返す。他の男と結婚していなければ、可能性が残る。僕は敗者復活戦に賭けた。そして、今度は勝った」

「浩一さんに怯えて、あなたに助けを求めたの?」

 洋は肩をすくめた。

「違う。三枝は、最初に僕を襲ってきたんだ」

 幸子には意味が飲み込めない。

「え……?」

「浩一は、君より先に、まず僕の命を狙ったんだ」

「分からない……どういう事……?」

「三枝は東京で、正木さんをシャブ漬けにした。怯えた美樹は札幌へ逃げ帰った。三枝も美樹を追って札幌に住み着き、次の獲物を狙った。それが僕だ。女友達の次は、昔の男を血祭りに上げよう、って魂胆さ。三枝は美樹と過ごした短い時間のうちに情報を集め、西城洋という男と付き合っていたことを調べた。で、札幌に落ち着くとすぐに僕を捜しはじめた。僕のことをこそこそ嗅ぎ回っている外人がいるって噂は、仕事関係の知り合いから耳に入った。たちの悪そうな外国人だ、ってね。おかげで僕は、気持ちの準備をして待つことができた。その時は、美樹とつながりがあるなんて考えなかったけど。で、ある夜、金属バットを持った三枝が近寄ってきた。あの顔で、しかも十二月だぞ。目立つったらありゃあしない。こっちには空手の心得がある。小指をへし折ってやったら、べらべらしゃべった」

 幸子の顔色は雛人形のように白く変わっていた。

「指の怪我……あなたに折られたんだ……」

 洋はうなずく。

「女には強い三枝でも、男が相手じゃからっきしさ。ルックスに頼って女を手玉に取ろうとする手合いは、肉体的な苦痛や恐怖に脆い。そこで始めて、三枝の目的が美樹を独占することだと分かった」

「なぜ? なぜその時に警察に突き出さなかったの?」

「チャンスだからさ」

「どういう事……?」

 洋は、頭の鈍い生徒を哀れむ教師のようなため息をもらす。

「もう一度美樹に近づくチャンス、だ。僕は襲われた時に、三枝がシャブをやっていたらしいことに気づいた。ラリっていなかったら、人を襲う度胸もないんだろう。折った骨をねじったら、三枝は密売で稼いでいることまで白状した」

 幸子はやけくそ気味に叫ぶ。

「それがどうしたのよ⁉」

「三枝を操るカードを握ったのさ。犬の首輪につけた縄。逃げようとすれば、縄を引っ張ればいい」

「なにを言っているの⁉ 分からない!」

「犬に、命じた。『近田幸子を落とせ』とね。かくして世間が羨むカップルの誕生さ。そして三枝は、君と一緒に撮ったプリクラや写真を美樹に送り付けた」

 幸子が言葉を発したのは、数秒が過ぎてからだった。

「あなたが私を狙わせたの……?」

 洋は無表情に答える。

「尻を蹴っただけだ。襲えとも、ヤク中にしろとも言ってない。美樹を脅す手段に使ったのは、三枝の勝手だ」

「どうして……」

「僕は美樹の性格を知っている。プライドが高いくせに芯が弱い。もし東京と同じようにかつての女友達が狙われれば、次は自分の番だと思い込む。美樹は一人で戦えるほど強くない。だが、二度も父親を頼れない。東京でのやりたい放題を非難されるし、わずかに残された自由も奪われる。で、秘かに信頼できる男を探すことになる。口が堅く、タフで頼れる男――。選ばれるのは僕だ。空手もできる、かつての優しい恋人――近田幸子とも知り合いなんだからな」

「あなた……私をそんなふうに利用したんだ……」

「君だって三枝と楽しんだろう? 『騙せ』とは命じたが、騙されたのは君の責任だ。甘い夢には落し穴がある。常識だろう?」

「許せない……」

「僕も、許せない気分だ」

「あなたのような腹黒い人にも、人間の感情があるの?」

「僕が許せないのは、君のお父さんが警官だったことを過小評価したことさ。彼の勘は鋭かった。娘がヤバい男と関係を持っていることを見抜き、仲を裂きに入った。三枝も警官には近づきたくない。君をクスリで壊すわけにもいかない。長期戦に突入さ。反面、美樹に取り入る時間の余裕もできた。怪我の功名だと喜んでいたんだがね」

「許せない……」

 洋は幸子の憎しみに満ちた視線を嘲笑う。

「君のお父さんは手強い障害になった。警察の資料を使って三枝の素性と狙いを洗い出し、脅し、支配下に収めた。三枝は僕から離れ、僕のカードは紙屑に変わった。当然三枝は、すぐに札幌を去るだろうと諦めた。僕は全てを終わらせ、美樹に結婚を決心させることに専念しようと方針を変えた」

「それなら、なぜこんなことに……」

「なぜか三枝がその後も君と付き合い続けたからだ。君のお父さんは、三枝の急所を握っている。逮捕することも、脅迫することもできる。なのに、三枝は消えない。結論は一つ。君のお父さんが『娘と付き合い続けろ』と命じたからだ」

「どうして……?」

 洋は鼻の先で笑った。

「作戦、だろう。君と三枝を安全に別れさせる布石だ」

「作戦……?」

「君は三枝にどっぷりのめり込んでいた。奴を追い払っても、父親を捨ててついていく。そうなれば居所を突き止めるのは難しいし、どんなに悲惨な目に遭わされるかも分からない。だから最終的な手段を打つまで、君たちを自分の権力が及ぶ範囲に閉じ込めておきたかった。正直言って、予想外の展開だった」

 幸子は、必死に冷静さを取り戻そうとしていた。洋の話の矛盾を探す――。

 あった。

「あなたの話、おかしい」

 洋は動じない。

「おかしくても、事実だ」

「だって、変よ。あなたが浩一さんを脅して私に近づかせたんですって? どうして浩一さんはそのことを父さんに告げ口しなかったの? 父さんがそれを知っていたら、あなたを私に近づけない。浩一さんだって、あなたのことは一言も言わなかった。病室であなたと会った時だって、初対面にしか見えなかった。不自然すぎる」

 洋は真剣な眼差しでうなずく。

「同感だな」

「嘘を認めるの?」

「僕が認めるのは、人の心の不思議さだ。三枝から君のお父さんが来たと知らされた時点で、僕は連絡を絶った。『僕のことを話せば殺す』と脅してはおいたがね。それでも、いつ君のお父さんが怒鳴り込んでくるかと怯えていた。だが三枝は、そのまま君とつきあい続けた。僕には理解できなかった。『病院へ見舞いに行きたい』と警察に行った本当の理由は、君のお父さんの反応を確かめたかったからだ。だが、僕と三枝とのつながりに気づいた様子はない。だから僕は警戒しつつも、徐々に君へ接近していった。結局三枝は、僕のことを一切話さなかったんだと分かった」

「なぜ話さなかったの……?」

「それが三枝にとって自然だったからだろう。奴は虚言症のナルシストだ。完全な精神疾患だとも言える。自分の言葉に酔って、自分が造った嘘を信じ込んでしまう。だから美樹に執着し、君さえ愛した。逆に、プライドを傷つけられることを異常に怖がる。指を折られて僕の奴隷に成り下がったなんて、思い出したくもない。だから、忘れた。自分の弱みを心の中から閉め出すことで、精神の均衡を保とうとした。どうせ、君は次の標的だったしな。全ては自分の計画だったと思い込んでいたのかもしれない。それに、ヤクの売人なんだぜ。刑事の命令に従って罪が消えるなら、僕を巻き添えにする必要はない。黙っていれば僕からの報復を恐れる必要もない。一方、君のお父さんは三枝にしか関心がない。背後で他人が糸を引いているなんて考えなかっただろうし、質問もしなかった。質問しなければ、答えもない――。そんな単純なことだったんだろう」

「そんな……」

「だがこれも、僕にはチャンスだった。美樹との関係を深める余裕が増した」

 幸子はそれでも、精一杯の言葉を投げつける。

「あなたって、何でも自分のいいように解釈できるのね」

「解釈だけじゃ意味はない。大事なのは、利用することだ。結婚する気にさせるには、もう一押しできる事件が欲しかった。そんな時に美樹の方から助けを求めてきた。『浩一からまた電話が入った。今夜、幸子を殺すと言われた……』ってね。君が襲われた夜だ。必死に考えたよ。なぜ、そんな脅しがかけられるんだ――ってな。三枝は近田大介に逆らえない。黙って君を襲うことなど、あり得ない。脅したところで、言葉だけで終わるなら今後は脅迫が通用しなくなる。言った以上、実行しなければ美樹は三枝を恐れなくなる。本当に実行するなら、それは飼い主からの命令があったことだとしか考えられない。そう思い当たって、君のお父さんの意図が読めた。暴行する三枝を娘に見せることで、関係を断たせようとしているんだ、とね。三枝は三枝で、飼い主から命じられた芝居を美樹を脅迫する材料に勝手に使い回した。一石二鳥。嘘つき坊やにしては、鮮やかなアイデアだ。あいつが美樹を怯えさせてくれたおかげで、僕にとっても完璧な状況が整った」

「なんなの、完璧な状況って……?」

「僕は美樹に『三枝の暴走を止めるために幸子を警護する』と言っておく。そして君を尾行する。いずれ三枝は君を襲う。ぎりぎりまで芝居を進めさせてから助けに入れば、友人を救った救世主として美樹の心がつかめる。騒ぎを大きくして刑事事件にすれば、君のお父さんでも三枝を操り続けることは出来ない。三枝が暴行犯として逮捕されれば、当然売人であることも暴かれて今後はストーカーの心配もなくなる」

 不意に、あのコロンを始めて嗅いだ瞬間を思い出す。

「公園で助けに入った人は、やっぱりあなただったのね……」

「最初からそう言ってるじゃないか。善意の第三者。僕が一番長く演じてきた、お手のものの役柄だ」

「でも、なぜ姿を消したの……?」

「姿を見せなくても、美樹は僕が君を助けたことを知っている。それで充分だ。もし僕が警察の捜査に関われば、美樹と浩一の関係まで嗅ぎつけられる危険がある。美樹の両親はスキャンダルを嫌う。僕はあの一族に入りたい。家名を守るために献身的に働く若者だと印象づける必要があるんだ」

 幸子の目から全ての感情が消え去った。

「私……まるで、物扱いね。そうやって、なぶり者にされるのを笑っていたんだ……」

「僕が仕組んだ芝居じゃない」

「許せない。操り人形にだって、心はあるのに……」

「何のことだ」

「私はあなたの人形じゃない」

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