幸子は眠っていた。何もかも忘れて、眠っていた。そして――。

 力任せに上体を起こされた幸子は、不満げにつぶやいた。

「だれ……?」

 身体が揺さぶられ、男の声が耳元に炸裂する。

「しっかりしろ! 目を覚ませ!」

 幸子はゆっくりと目を開けた。

「浩一さん……?」

 幸子には一瞬、目の前の男が浩一に思えた。だが、男は言った。

「寝ぼけるな! 僕だ。西城だ」

 幸子のぼんやりした意識に、その言葉がしみ込んでいく。

「洋さん……?」

 幸子は辺りを見回した。まだラブホテルにいた。同じベッドに横になっている。ついさっきまで、隣には浩一がいた。なのに今、目の前にいるのは洋だ。洋だけが……。

 洋の表情は落ち着きがなかった。

「三枝はどこだ⁉」

 幸子の方が聞きたかった。浩一がベッドにいない理由が分からない。

 頭が痛む。風邪薬が効きすぎた時のような、異常な眠気が頭に淀んでいる。

 そして気づいた。幸子は服を着たまま寝込んでいた。この部屋から出ようとしたその時に、突然意識を失ったかのように……。

 何があったのか、分からない。何をしたのか、思い出せない。また、記憶が消えている――。

 幸子はつぶやいた。

「浩一さんがいない……どうして……?」

「教えてくれ! 三枝がいたんだろう⁉ 美樹をどこにやった⁉」

「なぜ? なぜあなたが? どうやって入ったの?」

 洋は心の底をのぞき込むように、幸子の目を見つめた。幸子が嘘を言っていないことを納得したようだった。

「また記憶が飛んでるようだね。ここには三枝と来たんだろう⁉ 覚えているか⁉」

「もちろん……でも……」

「でも?」

「その後のことは、なんだか良く分からない……。私たち、ここで何をしてたんだろう……?」

 洋は追求を諦めたように話を変えた。

「管理人は、僕を刑事だと思っている」

「どういうこと……?」

「あの後、僕は警察に捕まったけど、隙を見て逃げた。一晩探した後、君のお父さんから連絡が入った。このホテルにいる君を連れ出せと言われた」

 幸子には理解できないことばかりだ。頭が働かない。

「父さん……ここを知っているの?」

「知っていた」

「来たの……?」

「管理人には会っている。この部屋にも入ったはずだ」

「部屋に入った? ここで何をしたんだろう……。なぜ、あなたに……?」

 洋の表情が曇る。

「部屋番号も知っていた。君が教えたんじゃないのか?」

「父さんから逃げようとしていたのよ」

「じゃあ、どうして――」

 洋はそこではっと身をすくめた。いったん息を止めてから、その場の空気を味わうようにゆっくりと呼吸を始める。

 幸子が問う。

「なに……?」

 洋は幸子の言葉を手のひらで制して、目をつぶった。

「気づかないか? コロンの匂い……?」

 幸子は臭いにはずっと敏感だった。しかし今は、何も感じない。

「さあ……?」

 洋は自信があるようだった。目をむいて幸子の肩をつかまえる。

「美樹だ。彼女も来たのか⁉」

「まさか。私たち、みんなから逃げて……仕方なくここに――」

 洋はその言葉にうなずいた。

「尾行したんだ。君のお父さんはここを知っていた。君たちを尾けたんだ……」

「無理よ……後ろに気を配っていたもの。気づくはずでしょう?」

 洋は幸子を離して叫んだ。

「じゃどうやってこの部屋を調べた⁉ なぜ美樹の香水が⁉」

 洋は部屋を見回した。革のサイドバッグに目が止まる。

 同時に幸子がつぶやく。

「あのバッグ……?」

 洋はバッグに飛びついた。部屋の角のテーブルに中身を開ける。

「君の知らない物がないか⁉」

 幸子はベッドから身を乗り出してテーブルの上の品物を調べた。手帳、コンパクト、口紅……幸子が買い揃えたものばかりだ。

「全部、私の」

「バッグを壊す」

 止める暇もなかった。

 洋は空になったバッグに手を突っ込み、底板をはがした。

「やっぱり……」

 洋は、スマートフォンよりはるかに小さいプラスティックの箱を取り出した。

 幸子は自分のバッグから現われた装置を不気味そうに見つめる。

「何なの、それ……?」

「発信機だ。あ、そうか! 君のお父さんは山荘で、GPSで美樹を尾行したと言っていた。同じ手だ。くそ、じゃあ盗聴器も⁉」

 洋はバスルームに走った。幸子が部屋に着いた直後に張った湯が、冷たくなって残っている。浴槽にGPS発信機を落とし込む。

 幸子には洋の行動が理解できなかった。

「どうしたの……?」

 バスルームから戻った洋は説明した。

「たぶんあの装置には盗聴器も組み込んである。これで回路がショートしたはずだ。相手が誰だろうと、話は聞かれたくない」

「そんな……じゃあ、浩一さんとの話はずっと聞かれていたの?」

「おそらく。でも、小型の盗聴器では、かなり近づく必要がある」

「父さんが仕掛けたの……? いったい何をやってるの……?」

 洋は確信したように言った。

「君のお父さんは確実にここに来ている。盗聴し、刑事として管理人と話をして、部屋に入った。そして、何かをした――」

 幸子はようやく、重大な問題に気づいた。

「浩一さんは⁉」

 洋は断言した。

「連れ去られた」

「なぜ……」

「分からない。でも、他に考えられない」

「どこへ⁉」

「分からないよ!」

「私がここにいるのに……? どうして私は残されたの?」

「連れて行けなかったんだ。だが、一人にもしておけない。だから、僕を呼んだ……」

「父さん……浩一さんに何をしたの……?」

 洋はじっと幸子の目を見つめた。

「それより、君は何をした? 本当に眠っていただけか?」

「ええ……」

「三枝と争わなかったのか⁉」

 幸子は即座に答えた。

「しない! 愛してるのに、なんで……?」

「だって、おかしいじゃないか。三枝は消えた。なのに君は、いつ出かけてもいい服装でベッドに倒れている。しかも、美樹の香水。何がどうなっているんだ――」

 洋はいきなり言葉を切ると、床に四つんばいになった。埋めた骨を探す犬のように顔を床に近づけ、カーペットの上を探す。

 と、つぶやいた。

「あった……血痕だ」

「血……?」

「自分で確かめろ!」

 幸子はベッドを下りた。洋の隣に身を寄せて、床を調べる。

「この黒ずみ……?」

 洋はさらに身体を斜めにしてベッドの下を覗き込んだ。

「何かあるぞ……」

 のばした手でつかんだのは、重いガラスの灰皿だった。中に、大きな木の葉のかけらが入っている。木の葉は、じっとりと湿っていた。そこからは、 コロンの匂いが一段と強く立ち上っている。

 幸子がつぶやく。

「なんで枯葉が……?」

 洋は断言した。

「しかもコロンだ。わざと置いていったんだ。オニグルミの葉っぱみたいだけど……」

 洋は、灰皿の縁にうっすらと赤黒い染みがついていることに気づいた。幸子もそこに目を止め、両手で口をおおった。はげ落ちた病院の壁が脳裏に浮かぶ。

「血……? 浩一さんが殴られたの……?」

 立ち上がった洋は、床に座り込んだ幸子をじっと見つめる。

「だとすると、犯人はこの葉っぱを残した人物だ。君のお父さんしかいない。君たちが眠っている間にこの部屋に侵入して、灰皿で三枝を殴った。君が気づかなかったのは奇妙だけど、それしか可能性はない。美樹も君のお父さんが捕らえている。コロンは、そのメッセージだ。なんとかして居場所を探さなくては……」

 幸子がぽつりと言う。

「私……やっぱり浩一さんを殴ったのかも」

 洋は厳しく命じた。

「バカなことは考えるな」

「だって、何も覚えていないのよ? 浩一さんが殴られて連れていかれたのに気づかないなんて、それこそおかしい」

「薬を飲まされていたのかもしれない」

「薬って……誰に?」

「三枝。彼らはなんらかの取り引きをしていたんだと思う」

「え? 父さんは浩一さんを嫌ってる。なのに、取り引きだなんて……」

「取引でなければ、脅迫かな。美樹から三枝の過去は聞いた。札幌でも売人だったに違いない。一方、君のお父さんは暴力団との癒着を疑われている」

 幸子の顔に怯えが浮かぶ。

「父さんが……? まさか、そんなことを……」

「だから警察がお父さんを追っている。内部犯罪の調査だ。捕まった時に聞かされた。もし、彼らが以前から手を結んでいたなら……」

「父さん……何をする気なの……?」

 洋は言い淀んだ。

「断言はできない。でも、恐れていることがある……」

「なんなの……?」

 洋は余計な推測を口に出したことを後悔する素振りを見せた。

「君は知らなくていい」

「教えて……」

「僕の勘繰りにすぎない。穿った深読みだ。知る必要はない」

「教えて! 大事なことだから!」

 洋は幸子の口調に、真実を求める悲壮感を嗅ぎ取ったようだ。真剣な目で見返す。

「最悪のケースだってことを理解して聞いてくれ」

「はい……」

「君のお父さんは警察から逃げている。確実に重大な犯罪を犯している。もしも三枝が、暴力団との癒着の証拠を握っているなら、邪魔になる……」

「殺すの⁉」

「あくまでも可能性にすぎないが、あり得ない話じゃない。だが、もしそうなら……絶対に指名手配はされたくないだろう。だから、前もって身代わりの犯人を用意しておく必要がある」

「身代わり……?」

「三枝を殺す動機がある者――。三枝は美樹を脅かしていた。奴が美樹を監禁することも不自然じゃない。そこで殺し合ったように見せかければ……三枝は消え、美樹が犯人になる……」

「美樹ちゃんまで……?」

「考えすぎだとは思う。だが、君のお父さんは何かを企んでいる。だから、君は自分を疑うな。とにかく、お父さんを探そう」

「でも……父さんがそんなひどいことを……? 信じられない……」

「暴力団に捜査情報を流したことは確かだ。一度悪魔に魂を売った人間は、どんなことでもできる。身を守るために、何度でも罪を犯す。犯罪とはそういうものだ。人間は汚い生きものなんだ」

 幸子は必死に訴えた。

「でも、私だっておかしいのよ! 気を失うたびに誰かが傷つく! 美樹ちゃんもそう……今度だって、私、気を失って浩一さんに暴力をふるったのかも! 父さんが犯人だとは言いきれない!」

「だから全ては想像だ。三枝だって、自分で出ていっただけかもしれない。ここで言い合っていたってらちがあかない。お父さんを探そう。きっと三枝も美樹もいる。一刻も早く彼女を助けたいんだ」

 幸子は洋の焦りには無関心だった。

「浩一さんが自分で逃げた……? 私を残して……?」

「可能性はあるだろうが!」

 座り込んだままの幸子の目は虚ろだ。

「思い出したい……私……浩一さんと何を話したの……?」

 洋はもう一度幸子の肩を揺さぶった。

「とにかく出よう。お父さんを探す! 立つんだ!」

 洋は幸子の脇へ手を差し入れ、力づくで引っ張り上げた。

 幸子はふらつきながら、自分の足で立つ。

「でも、探すって……どこから……?」

 洋の言葉には自信があふれていた。

「案内状が残してある。オニグルミの木が生えた森だ。コロン、葉っぱ、血がついた灰皿。どれも『早く来い』というサインだ」

 幸子の脳裏に、監禁された恐怖が蘇った。

「あ、あの別荘……?」

 洋はうなずいた。

「君のお父さんは警察から逃げて、美樹と浩一を監禁している。殺す気なら、偽装も必要だ。時間がかかるし、人目につかない場所でなけりゃならない。そんな条件を満たすところは多くない。美樹の親はあの別荘が使われてることを知らない。雇われたヤクザも本気で美樹を探そうとはしていない。警察はそもそも美樹に関心がない」

「なんでわざわざ、そんな暗号みたいなものを……? 浩一さんを連れて行ったのなら、なぜ私を置いていったの?」

 洋はわずかに考えてから答えた。

「真意は分からない。でも、君も僕も警察に追われている。はっきりとしたメモを残しておいたら、万一僕らが捕まった時に君のお父さんの居場所までばれる。だから、警察には分からないような形で足跡を残したんだろう。僕らがしゃべらないかぎり、別荘のことは知られない」

「でも……すぐに警察に知らせた方がいいんじゃなくて……?」

「お父さんを逮捕させたいのか?」

「そうじゃないけれど……」

「警察は、身内の犯罪をもみ消すことしか頭にない。下手をすると美樹が見殺しにされる。だから僕は逃げた。君のお父さんは銃を持っている。立てこもることも、殺すこともできる。そんなことはさせられない。僕は警察の力を借りずに、美樹を助ける。君のお父さんもそれを望んでいるから、暗号を残した。招待を受けるしかない」

 幸子は洋に背中を向けてつぶやく。

「行きたくない……」

「なんだって?」

「私、恐い……。父さんのところにいきたくない……」

 洋が叫ぶ。

「なぜだ⁉」

「だって……なにもかも憶測でしょう? 別荘には誰もいないかもしれないし……」

「甘えるな! 他に手がかりはない。残されている時間も分からない。君のお父さんの目的も分からない。賭けるしかないんだ!」

 幸子は両手で耳を塞いだ。

「行きたくない、行きたくない、行きたくない!」

「頼む、一緒に来てくれ!」

「一人で行って!」

 洋は幸子の肩をつかんで、振り返らせた。目を見つめて訴える。

「僕一人じゃ、君のお父さんを止められない。君が説得するんだ。娘の責任だろう? 彼は君が来ることを望んでいる。だから僕にこの部屋を教え、別荘に誘導しているんだ」

「いやよ!」

 洋は不意に幸子を抱きしめた。軽く、包み込むように。そして、耳元になだめるようにささやく。

「気持ちは分かる。お父さんにも裏切られるかもしれないんだからね。でも、逃げるわけにはいかない。たった一人の肉親が、人を殺そうとしている。美樹が危険にさらされている。僕を助けてくれ……」

 幸子は洋の胸にしがみついた。涙をこぼしながら、つぶやく。

「助けてほしいのは、私よ……なんで私ばかりこんな目に……」

 洋は幸子を落ち着かせるために、今度は固く抱き返した。

「大丈夫……大丈夫だよ、僕がいるから。見捨てないから」

「一人にしないで……」

「分かってる。だから一緒に行こう」

「頭が痛い……」

 幸子の身体から一瞬、全ての力が抜け去った。洋ははっとして、崩れそうになる幸子の身体をさらに強く抱きしめる。

「大丈夫?」

 だが幸子はしばらく沈黙した後に、何事もなかったかのように言った。

「信じていいの?」

 洋はきっぱりと答えた。

「嘘は言わない。信じろ。きっと君のお父さんを――」

 幸子は不意に洋にしがみつき、キスをした。

 洋は身を堅くして言葉を失った。人が変わったような幸子の目を、呆然と見返す。

 困惑や動揺が消えている。不安にとらわれていてせわしなく揺らいでいた幸子の瞳が、今は落ち着いた自信に満ちた輝きを放っている。一瞬で、何かのスイッチが入れ替わったように――。

 幸子は洋の動揺を気にもせずに、洋の唇を吸い続ける。

 洋は幸子の胸を突き放した。

「なにをする⁉」

 幸子は潤んだ目で洋を見つめ返す。

「信じるわ。あなたは私を一人にしない。この先、ずっと……。本当は私、ずっと昔からこうなることを願っていたの……」

 洋の目に浮かんだ動揺が、怒りに変わる。

「バカな……勘違するな!」

「勘違い? そんなことない。私はずっと、あなたを愛していた。あなたも私を守ると言った。一人にしないって……」

「愛しているのは三枝だろう⁉」

 幸子は、洋の言葉が理解できない様子でわずかに首を傾げた。そして不意に、にやりと笑った。

「三枝……? あんな男。殺したわ」

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