3
幸子は眠っていた。何もかも忘れて、眠っていた。そして――。
力任せに上体を起こされた幸子は、不満げにつぶやいた。
「だれ……?」
身体が揺さぶられ、男の声が耳元に炸裂する。
「しっかりしろ! 目を覚ませ!」
幸子はゆっくりと目を開けた。
「浩一さん……?」
幸子には一瞬、目の前の男が浩一に思えた。だが、男は言った。
「寝ぼけるな! 僕だ。西城だ」
幸子のぼんやりした意識に、その言葉がしみ込んでいく。
「洋さん……?」
幸子は辺りを見回した。まだラブホテルにいた。同じベッドに横になっている。ついさっきまで、隣には浩一がいた。なのに今、目の前にいるのは洋だ。洋だけが……。
洋の表情は落ち着きがなかった。
「三枝はどこだ⁉」
幸子の方が聞きたかった。浩一がベッドにいない理由が分からない。
頭が痛む。風邪薬が効きすぎた時のような、異常な眠気が頭に淀んでいる。
そして気づいた。幸子は服を着たまま寝込んでいた。この部屋から出ようとしたその時に、突然意識を失ったかのように……。
何があったのか、分からない。何をしたのか、思い出せない。また、記憶が消えている――。
幸子はつぶやいた。
「浩一さんがいない……どうして……?」
「教えてくれ! 三枝がいたんだろう⁉ 美樹をどこにやった⁉」
「なぜ? なぜあなたが? どうやって入ったの?」
洋は心の底をのぞき込むように、幸子の目を見つめた。幸子が嘘を言っていないことを納得したようだった。
「また記憶が飛んでるようだね。ここには三枝と来たんだろう⁉ 覚えているか⁉」
「もちろん……でも……」
「でも?」
「その後のことは、なんだか良く分からない……。私たち、ここで何をしてたんだろう……?」
洋は追求を諦めたように話を変えた。
「管理人は、僕を刑事だと思っている」
「どういうこと……?」
「あの後、僕は警察に捕まったけど、隙を見て逃げた。一晩探した後、君のお父さんから連絡が入った。このホテルにいる君を連れ出せと言われた」
幸子には理解できないことばかりだ。頭が働かない。
「父さん……ここを知っているの?」
「知っていた」
「来たの……?」
「管理人には会っている。この部屋にも入ったはずだ」
「部屋に入った? ここで何をしたんだろう……。なぜ、あなたに……?」
洋の表情が曇る。
「部屋番号も知っていた。君が教えたんじゃないのか?」
「父さんから逃げようとしていたのよ」
「じゃあ、どうして――」
洋はそこではっと身をすくめた。いったん息を止めてから、その場の空気を味わうようにゆっくりと呼吸を始める。
幸子が問う。
「なに……?」
洋は幸子の言葉を手のひらで制して、目をつぶった。
「気づかないか? コロンの匂い……?」
幸子は臭いにはずっと敏感だった。しかし今は、何も感じない。
「さあ……?」
洋は自信があるようだった。目をむいて幸子の肩をつかまえる。
「美樹だ。彼女も来たのか⁉」
「まさか。私たち、みんなから逃げて……仕方なくここに――」
洋はその言葉にうなずいた。
「尾行したんだ。君のお父さんはここを知っていた。君たちを尾けたんだ……」
「無理よ……後ろに気を配っていたもの。気づくはずでしょう?」
洋は幸子を離して叫んだ。
「じゃどうやってこの部屋を調べた⁉ なぜ美樹の香水が⁉」
洋は部屋を見回した。革のサイドバッグに目が止まる。
同時に幸子がつぶやく。
「あのバッグ……?」
洋はバッグに飛びついた。部屋の角のテーブルに中身を開ける。
「君の知らない物がないか⁉」
幸子はベッドから身を乗り出してテーブルの上の品物を調べた。手帳、コンパクト、口紅……幸子が買い揃えたものばかりだ。
「全部、私の」
「バッグを壊す」
止める暇もなかった。
洋は空になったバッグに手を突っ込み、底板をはがした。
「やっぱり……」
洋は、スマートフォンよりはるかに小さいプラスティックの箱を取り出した。
幸子は自分のバッグから現われた装置を不気味そうに見つめる。
「何なの、それ……?」
「発信機だ。あ、そうか! 君のお父さんは山荘で、GPSで美樹を尾行したと言っていた。同じ手だ。くそ、じゃあ盗聴器も⁉」
洋はバスルームに走った。幸子が部屋に着いた直後に張った湯が、冷たくなって残っている。浴槽にGPS発信機を落とし込む。
幸子には洋の行動が理解できなかった。
「どうしたの……?」
バスルームから戻った洋は説明した。
「たぶんあの装置には盗聴器も組み込んである。これで回路がショートしたはずだ。相手が誰だろうと、話は聞かれたくない」
「そんな……じゃあ、浩一さんとの話はずっと聞かれていたの?」
「おそらく。でも、小型の盗聴器では、かなり近づく必要がある」
「父さんが仕掛けたの……? いったい何をやってるの……?」
洋は確信したように言った。
「君のお父さんは確実にここに来ている。盗聴し、刑事として管理人と話をして、部屋に入った。そして、何かをした――」
幸子はようやく、重大な問題に気づいた。
「浩一さんは⁉」
洋は断言した。
「連れ去られた」
「なぜ……」
「分からない。でも、他に考えられない」
「どこへ⁉」
「分からないよ!」
「私がここにいるのに……? どうして私は残されたの?」
「連れて行けなかったんだ。だが、一人にもしておけない。だから、僕を呼んだ……」
「父さん……浩一さんに何をしたの……?」
洋はじっと幸子の目を見つめた。
「それより、君は何をした? 本当に眠っていただけか?」
「ええ……」
「三枝と争わなかったのか⁉」
幸子は即座に答えた。
「しない! 愛してるのに、なんで……?」
「だって、おかしいじゃないか。三枝は消えた。なのに君は、いつ出かけてもいい服装でベッドに倒れている。しかも、美樹の香水。何がどうなっているんだ――」
洋はいきなり言葉を切ると、床に四つんばいになった。埋めた骨を探す犬のように顔を床に近づけ、カーペットの上を探す。
と、つぶやいた。
「あった……血痕だ」
「血……?」
「自分で確かめろ!」
幸子はベッドを下りた。洋の隣に身を寄せて、床を調べる。
「この黒ずみ……?」
洋はさらに身体を斜めにしてベッドの下を覗き込んだ。
「何かあるぞ……」
のばした手でつかんだのは、重いガラスの灰皿だった。中に、大きな木の葉のかけらが入っている。木の葉は、じっとりと湿っていた。そこからは、 コロンの匂いが一段と強く立ち上っている。
幸子がつぶやく。
「なんで枯葉が……?」
洋は断言した。
「しかもコロンだ。わざと置いていったんだ。オニグルミの葉っぱみたいだけど……」
洋は、灰皿の縁にうっすらと赤黒い染みがついていることに気づいた。幸子もそこに目を止め、両手で口をおおった。はげ落ちた病院の壁が脳裏に浮かぶ。
「血……? 浩一さんが殴られたの……?」
立ち上がった洋は、床に座り込んだ幸子をじっと見つめる。
「だとすると、犯人はこの葉っぱを残した人物だ。君のお父さんしかいない。君たちが眠っている間にこの部屋に侵入して、灰皿で三枝を殴った。君が気づかなかったのは奇妙だけど、それしか可能性はない。美樹も君のお父さんが捕らえている。コロンは、そのメッセージだ。なんとかして居場所を探さなくては……」
幸子がぽつりと言う。
「私……やっぱり浩一さんを殴ったのかも」
洋は厳しく命じた。
「バカなことは考えるな」
「だって、何も覚えていないのよ? 浩一さんが殴られて連れていかれたのに気づかないなんて、それこそおかしい」
「薬を飲まされていたのかもしれない」
「薬って……誰に?」
「三枝。彼らはなんらかの取り引きをしていたんだと思う」
「え? 父さんは浩一さんを嫌ってる。なのに、取り引きだなんて……」
「取引でなければ、脅迫かな。美樹から三枝の過去は聞いた。札幌でも売人だったに違いない。一方、君のお父さんは暴力団との癒着を疑われている」
幸子の顔に怯えが浮かぶ。
「父さんが……? まさか、そんなことを……」
「だから警察がお父さんを追っている。内部犯罪の調査だ。捕まった時に聞かされた。もし、彼らが以前から手を結んでいたなら……」
「父さん……何をする気なの……?」
洋は言い淀んだ。
「断言はできない。でも、恐れていることがある……」
「なんなの……?」
洋は余計な推測を口に出したことを後悔する素振りを見せた。
「君は知らなくていい」
「教えて……」
「僕の勘繰りにすぎない。穿った深読みだ。知る必要はない」
「教えて! 大事なことだから!」
洋は幸子の口調に、真実を求める悲壮感を嗅ぎ取ったようだ。真剣な目で見返す。
「最悪のケースだってことを理解して聞いてくれ」
「はい……」
「君のお父さんは警察から逃げている。確実に重大な犯罪を犯している。もしも三枝が、暴力団との癒着の証拠を握っているなら、邪魔になる……」
「殺すの⁉」
「あくまでも可能性にすぎないが、あり得ない話じゃない。だが、もしそうなら……絶対に指名手配はされたくないだろう。だから、前もって身代わりの犯人を用意しておく必要がある」
「身代わり……?」
「三枝を殺す動機がある者――。三枝は美樹を脅かしていた。奴が美樹を監禁することも不自然じゃない。そこで殺し合ったように見せかければ……三枝は消え、美樹が犯人になる……」
「美樹ちゃんまで……?」
「考えすぎだとは思う。だが、君のお父さんは何かを企んでいる。だから、君は自分を疑うな。とにかく、お父さんを探そう」
「でも……父さんがそんなひどいことを……? 信じられない……」
「暴力団に捜査情報を流したことは確かだ。一度悪魔に魂を売った人間は、どんなことでもできる。身を守るために、何度でも罪を犯す。犯罪とはそういうものだ。人間は汚い生きものなんだ」
幸子は必死に訴えた。
「でも、私だっておかしいのよ! 気を失うたびに誰かが傷つく! 美樹ちゃんもそう……今度だって、私、気を失って浩一さんに暴力をふるったのかも! 父さんが犯人だとは言いきれない!」
「だから全ては想像だ。三枝だって、自分で出ていっただけかもしれない。ここで言い合っていたってらちがあかない。お父さんを探そう。きっと三枝も美樹もいる。一刻も早く彼女を助けたいんだ」
幸子は洋の焦りには無関心だった。
「浩一さんが自分で逃げた……? 私を残して……?」
「可能性はあるだろうが!」
座り込んだままの幸子の目は虚ろだ。
「思い出したい……私……浩一さんと何を話したの……?」
洋はもう一度幸子の肩を揺さぶった。
「とにかく出よう。お父さんを探す! 立つんだ!」
洋は幸子の脇へ手を差し入れ、力づくで引っ張り上げた。
幸子はふらつきながら、自分の足で立つ。
「でも、探すって……どこから……?」
洋の言葉には自信があふれていた。
「案内状が残してある。オニグルミの木が生えた森だ。コロン、葉っぱ、血がついた灰皿。どれも『早く来い』というサインだ」
幸子の脳裏に、監禁された恐怖が蘇った。
「あ、あの別荘……?」
洋はうなずいた。
「君のお父さんは警察から逃げて、美樹と浩一を監禁している。殺す気なら、偽装も必要だ。時間がかかるし、人目につかない場所でなけりゃならない。そんな条件を満たすところは多くない。美樹の親はあの別荘が使われてることを知らない。雇われたヤクザも本気で美樹を探そうとはしていない。警察はそもそも美樹に関心がない」
「なんでわざわざ、そんな暗号みたいなものを……? 浩一さんを連れて行ったのなら、なぜ私を置いていったの?」
洋はわずかに考えてから答えた。
「真意は分からない。でも、君も僕も警察に追われている。はっきりとしたメモを残しておいたら、万一僕らが捕まった時に君のお父さんの居場所までばれる。だから、警察には分からないような形で足跡を残したんだろう。僕らがしゃべらないかぎり、別荘のことは知られない」
「でも……すぐに警察に知らせた方がいいんじゃなくて……?」
「お父さんを逮捕させたいのか?」
「そうじゃないけれど……」
「警察は、身内の犯罪をもみ消すことしか頭にない。下手をすると美樹が見殺しにされる。だから僕は逃げた。君のお父さんは銃を持っている。立てこもることも、殺すこともできる。そんなことはさせられない。僕は警察の力を借りずに、美樹を助ける。君のお父さんもそれを望んでいるから、暗号を残した。招待を受けるしかない」
幸子は洋に背中を向けてつぶやく。
「行きたくない……」
「なんだって?」
「私、恐い……。父さんのところにいきたくない……」
洋が叫ぶ。
「なぜだ⁉」
「だって……なにもかも憶測でしょう? 別荘には誰もいないかもしれないし……」
「甘えるな! 他に手がかりはない。残されている時間も分からない。君のお父さんの目的も分からない。賭けるしかないんだ!」
幸子は両手で耳を塞いだ。
「行きたくない、行きたくない、行きたくない!」
「頼む、一緒に来てくれ!」
「一人で行って!」
洋は幸子の肩をつかんで、振り返らせた。目を見つめて訴える。
「僕一人じゃ、君のお父さんを止められない。君が説得するんだ。娘の責任だろう? 彼は君が来ることを望んでいる。だから僕にこの部屋を教え、別荘に誘導しているんだ」
「いやよ!」
洋は不意に幸子を抱きしめた。軽く、包み込むように。そして、耳元になだめるようにささやく。
「気持ちは分かる。お父さんにも裏切られるかもしれないんだからね。でも、逃げるわけにはいかない。たった一人の肉親が、人を殺そうとしている。美樹が危険にさらされている。僕を助けてくれ……」
幸子は洋の胸にしがみついた。涙をこぼしながら、つぶやく。
「助けてほしいのは、私よ……なんで私ばかりこんな目に……」
洋は幸子を落ち着かせるために、今度は固く抱き返した。
「大丈夫……大丈夫だよ、僕がいるから。見捨てないから」
「一人にしないで……」
「分かってる。だから一緒に行こう」
「頭が痛い……」
幸子の身体から一瞬、全ての力が抜け去った。洋ははっとして、崩れそうになる幸子の身体をさらに強く抱きしめる。
「大丈夫?」
だが幸子はしばらく沈黙した後に、何事もなかったかのように言った。
「信じていいの?」
洋はきっぱりと答えた。
「嘘は言わない。信じろ。きっと君のお父さんを――」
幸子は不意に洋にしがみつき、キスをした。
洋は身を堅くして言葉を失った。人が変わったような幸子の目を、呆然と見返す。
困惑や動揺が消えている。不安にとらわれていてせわしなく揺らいでいた幸子の瞳が、今は落ち着いた自信に満ちた輝きを放っている。一瞬で、何かのスイッチが入れ替わったように――。
幸子は洋の動揺を気にもせずに、洋の唇を吸い続ける。
洋は幸子の胸を突き放した。
「なにをする⁉」
幸子は潤んだ目で洋を見つめ返す。
「信じるわ。あなたは私を一人にしない。この先、ずっと……。本当は私、ずっと昔からこうなることを願っていたの……」
洋の目に浮かんだ動揺が、怒りに変わる。
「バカな……勘違するな!」
「勘違い? そんなことない。私はずっと、あなたを愛していた。あなたも私を守ると言った。一人にしないって……」
「愛しているのは三枝だろう⁉」
幸子は、洋の言葉が理解できない様子でわずかに首を傾げた。そして不意に、にやりと笑った。
「三枝……? あんな男。殺したわ」
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